現代の能は
禅などと結びついて芸術の域に達しているが
能成立の頃、室町時代には単なる芸能であった。
翁猿楽を元にした呪術芸能が根底にあったものの
いわば現代のジャニーズのような
美少年による歌あり、踊りありの芸能だったようだ。
特にアイドルとして時の将軍足利義満の寵愛を受けた
世阿弥の人気は一時飛ぶ鳥を落とす勢いだったとのこと。
その後加齢とともに人気にかげりが出た世阿弥は
人気復興を目指して当時の世の人たちにウケる新作を作る。
それらは鬼道を基本としていた大和猿楽の流れを汲んだせいか
霊や神、仏、狂人、物の怪など異形がシテ(主人公)となるものが多い。
それらの役は人間と違う役を演ずるに当たって面をつける。
ワキは人間役なので面をつけないというルールがあるとの由。
なるほど。
世阿弥が著した「風姿花伝」に「時に用ゆるを以て花とすべし」
とある通り、世人にウケる流行ものが題材であるので
色恋、欲望、見栄、執念、邪心がテーマになっているようだ。
これは目からウロコ。
確かにいくつかの粗筋を見るととても人間臭い。
その上で最後は成仏するという、当時の宗教観も反映している。
(観阿弥、世阿弥という名前そのものが時宗の在家出家の名)
もちろんこの頃は神仏混淆が主体だから
神も仏も出てくるのだが、基本は仏教となっている。
(神仏混淆の思想である本地垂迹の原理も本書にわかりやすく書いてある)
単に寺社の庇護を受け、結びついただけではなく
当時の価値観に沿った結果宗教観を持つに至ったということも
煩悩を描くテーマとともに本書で学んだ。
翁猿楽の呪術的芸能が元、人間以外の役は面をつける、
観客にウケる演目を主に披露、宗教的道徳観醸造などなど・・・
我々の神楽に通じるところが山ほどある。
まして我々の神楽は山伏神楽とて神仏混淆そのもの。
その能の演目が身近な煩悩ということで
ますます近しい感じを覚え、ぜひ鑑賞したいと思った。
能の哲学について、もっとも印象に残ったのは「武士」のこと。
今の世も武士道がもてはやされるなど、
勇ましい様、純粋に命を懸ける様が美しいと思われているが、
「家」や「生き様」が大事だった江戸期以降とは違い、
仏教精神が大きな価値観の中心だった室町時代は
人を殺す「武士」は人間ではなく「修羅道」に生きるとされていた。
修羅道だからこそこの世に執念を持ち成仏できず
霊となって能の物語に登場してくるというわけだ。
現代も然り。
大義名分の有無にかかわらず戦争はただの人殺し。
ちなみに「人間」とは輪廻転生から来る言い方のようだ。
前世から生まれ変わり、次の世に生まれ変わる
六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)のうちの
「人」としている「間」という意味である由。
謡は言葉がとても美しい。
掛詞や喩詞、リズム、響きなど徹底的に練られている。
声に出して読むとその良さがよくわかる。
真意が心にも沁みてくる。
地謡:筒井筒、井筒に掛けし
女霊:まろが、丈
地謡:生いにけらしな
女霊:老いにけるぞな
(井筒)
地謡:知らで程経し、人心
衣の玉は有りながら、恨みありや
ともすれば
なほ、同じ世と祈るなり
なほ、同じ世と祈るなり
(班女)
そして
「この世とても旅ぞかし」(清常)
まさに。
「世阿弥の能」堂本正樹:著 新潮選書
禅などと結びついて芸術の域に達しているが
能成立の頃、室町時代には単なる芸能であった。
翁猿楽を元にした呪術芸能が根底にあったものの
いわば現代のジャニーズのような
美少年による歌あり、踊りありの芸能だったようだ。
特にアイドルとして時の将軍足利義満の寵愛を受けた
世阿弥の人気は一時飛ぶ鳥を落とす勢いだったとのこと。
その後加齢とともに人気にかげりが出た世阿弥は
人気復興を目指して当時の世の人たちにウケる新作を作る。
それらは鬼道を基本としていた大和猿楽の流れを汲んだせいか
霊や神、仏、狂人、物の怪など異形がシテ(主人公)となるものが多い。
それらの役は人間と違う役を演ずるに当たって面をつける。
ワキは人間役なので面をつけないというルールがあるとの由。
なるほど。
世阿弥が著した「風姿花伝」に「時に用ゆるを以て花とすべし」
とある通り、世人にウケる流行ものが題材であるので
色恋、欲望、見栄、執念、邪心がテーマになっているようだ。
これは目からウロコ。
確かにいくつかの粗筋を見るととても人間臭い。
その上で最後は成仏するという、当時の宗教観も反映している。
(観阿弥、世阿弥という名前そのものが時宗の在家出家の名)
もちろんこの頃は神仏混淆が主体だから
神も仏も出てくるのだが、基本は仏教となっている。
(神仏混淆の思想である本地垂迹の原理も本書にわかりやすく書いてある)
単に寺社の庇護を受け、結びついただけではなく
当時の価値観に沿った結果宗教観を持つに至ったということも
煩悩を描くテーマとともに本書で学んだ。
翁猿楽の呪術的芸能が元、人間以外の役は面をつける、
観客にウケる演目を主に披露、宗教的道徳観醸造などなど・・・
我々の神楽に通じるところが山ほどある。
まして我々の神楽は山伏神楽とて神仏混淆そのもの。
その能の演目が身近な煩悩ということで
ますます近しい感じを覚え、ぜひ鑑賞したいと思った。
能の哲学について、もっとも印象に残ったのは「武士」のこと。
今の世も武士道がもてはやされるなど、
勇ましい様、純粋に命を懸ける様が美しいと思われているが、
「家」や「生き様」が大事だった江戸期以降とは違い、
仏教精神が大きな価値観の中心だった室町時代は
人を殺す「武士」は人間ではなく「修羅道」に生きるとされていた。
修羅道だからこそこの世に執念を持ち成仏できず
霊となって能の物語に登場してくるというわけだ。
現代も然り。
大義名分の有無にかかわらず戦争はただの人殺し。
ちなみに「人間」とは輪廻転生から来る言い方のようだ。
前世から生まれ変わり、次の世に生まれ変わる
六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)のうちの
「人」としている「間」という意味である由。
謡は言葉がとても美しい。
掛詞や喩詞、リズム、響きなど徹底的に練られている。
声に出して読むとその良さがよくわかる。
真意が心にも沁みてくる。
地謡:筒井筒、井筒に掛けし
女霊:まろが、丈
地謡:生いにけらしな
女霊:老いにけるぞな
(井筒)
地謡:知らで程経し、人心
衣の玉は有りながら、恨みありや
ともすれば
なほ、同じ世と祈るなり
なほ、同じ世と祈るなり
(班女)
そして
「この世とても旅ぞかし」(清常)
まさに。
「世阿弥の能」堂本正樹:著 新潮選書