今年は沖縄返還50年とか、あさま山荘事件50年とか、
横井庄一さん帰還50年とか、札幌・ミュンヘン五輪50年とか
大阪千日デパート火災50年とか、いろいろ言われるが
それらはすべて1972年に起こったこと。
(昨日書いたベルウッドレコードも50周年)
飛行機事故多発や中東が不安定になった年でもある。
(ちなみにイスラエルのテルアビブ空港での日本赤軍乱射事件や
ウォーターゲート事件もこの年だったらしい)
この年ワタシは小学校6年生。
これらの事件は、テレビの映像とともにほとんど覚えている。
ベトナム戦争も激化していて、
アニメや子ども番組よりもNHK特派員報告をよく見ていた。
当時の自分はといえば
シベリア帰りの担任の先生にしょっちゅう往復ビンタを食いながら
好きな野球も中途半端、勉強も中途半端、
(当時少年野球チームは少なくて、チームに入れてもらえなかった)
草野球と、缶蹴りと、クワガタ捕りと、近所でのスキーの毎日。
今につながっていることといえば
NHK「みんなの歌」の譜面本を買ってもらって歌っていたことと
夜はひたすら本を読んでいたこと。
親父は大学時代にフランス語を専攻していたせいなのか
シャンソンのレコードを何枚か持っていて
休日にはそれをよく聴いていたのでワタシも覚えてしまい
言葉もよくわからないまま、口真似して歌ったりもしていた。
当時進学予定の近所の公立中学校は坊主頭必須で
それが嫌だったために盛岡の国立中学校受験を訴えたりもした。
(当然、親たちからは即却下)
「野球部は勉強する暇がないからダメだ」
「オレは呼吸器が悪いから、お前も受け継いでいる可能性があり
吹奏楽もやめたほうがいい」
「英語は早く始めるに越したことはない」
大正生まれの親父からはいろんなことにダメ出しがあった。
事実、どちらも英語の教員だった両親から
小学校5年の時から中学校の英語の教科書を使って
家でつきっきりで勉強されられていた。
(そのおかげで中1で英検4級、中2で3級合格)
なんとなく「将来は英語を使った仕事かなぁ」と思っていた。
(残念ながら高校に入ったら普通の人😅)
本に関わる仕事や文化的な仕事、
「まち」に関わる仕事にも憧れがあったのだが
その部分でもまた親父が「先生になれ」と言われることになる。
小学生の知識じゃ言い返せない。
(高校卒業後、反旗を翻すことになる)
自分が興味あって歩き出そうという方向を
ことごとくシャットアウトされ、そのため中途半端だったのだと
今になれば思うのだけれど、その時はわからない。
当時の記憶は鮮明だ。
そんな思い出や体験を踏まえて、
息子たちがやりたいと言ったことはすべて応援してきた。
1972年を生きる子の親は大正か昭和ひと桁生まれの
いかにも昭和の親。
それを体験してきたワタシは平成の親。
時代は変わる。