風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

奇跡の一本松

2024-07-20 | 社会

数日前、仕事で陸前高田へ。
取材終了後、リクエストがあったお土産を買いに
震災記念館の隣にある道の駅へ。
買い物の前に、道の駅の先にある一本松まで行ってみた。
震災2年後に行って以来、何度目になるかな?

松の根元の建物は震災遺構として保存されている
津波で全壊した旧ユースホステル。
(その背後は震災後に整備された防潮堤)
これだけではなく、あの日から13年経っても
まちの中にはまだまだ壊れた建物が点在している。
奇跡の一本松の前に立つと、
そして壊れたままの建物を目にすると、
自然に祈りの気持ちが湧いてくる。

お土産は牡蠣味噌。
ここに来たら何かしら買って
ほんの少しでも経済復興の一助になればと思う。
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新聞広告

2024-07-06 | 社会


毎日、朝日新聞と岩手日報の2紙を読んでいる。
それぞれ目的があって読んでいるのだが
(日報は連載小説も楽しみ)
実はこの週刊誌2誌の広告を見るのも目的のひとつだ。
週刊誌そのものは買わない、買うほどでもない。
見出しを見ているだけで
今何がネタになっているか、これからネタになるか
何となくわかるから。
詳しくは少し後にwebニュースになるし
本当に取り上げるべきニュースは数日後に新聞記事になる。
そういう意味では
広告というより、私にとっては見出しのみの記事の一部。
せっかく有料購読しているので
隅から隅まで読み、広告といえど無駄にはしない😁
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ぼんやりした不安

2024-07-02 | 社会
昭和2年、作家芥川龍之介は
「唯ぼんやりした不安」を理由に服毒自殺した。
当時は関東大震災での首都圏被害が甚大となったあと
その2年後の大正14年には治安維持法施行、
大正天皇崩御を受けて、昭和2年に大喪が行われ、
また昭和金融恐慌が始まった時期。
隣の中国では辛亥革命から10年が経ち、
国民党と中国共産党とが反目し合う内乱状態で
世界各国が中国国内に派兵する騒乱の時代だった。

今、世界はウクライナやパレスチナで紛争が激化、
ヨーロッパでは極右が勢力を広げ
アメリカ大統領選ではポピュリズムの権化トランプが優勢。
公開討論会はまるで子どもの喧嘩のように
悪態の応酬となってしまっている。
北朝鮮はもとより、中国、ミャンマー、アフガニスタンなどでも
民主主義が破壊されつつある。
日本国内に目を転じると
金と権力の奪い合いで国の舵は誰にも任せられない。

誰かが誰かにひどいことをしている姿を見たくない。
イジメとか、虐待とか、虐殺とか、ヘイトとか、悪態とか。
だから「知らなきゃ」とニュースなどに無理矢理目を向けるものの
目にする情報にストレスを感じ、気持ちは落ち込むばかりだ。
そしてもうひとりの自分が
「それじゃあお前は誰かにひどいことをしたこと無いのか?
 誰かを辛い目に遭わせたことはないのか?」
と聞いてくる。
思い当たることは、具体的にたくさんある。
だから余計にまたそれがストレスになってくる。

「ぼんやりとした不安」
まさに今自分の心の中に暗雲として広がってきている。
この先さらに酷いことになる状況を見たくない。
凡人とはいえ、芥川の気持ちがなんとなくわかる今日この頃。
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レジリエンス

2024-06-28 | 社会
小学校5年6年の頃の担任の先生は元日本陸軍兵士。
シベリア抑留から帰還した時に見た、
それまでの価値観が崩壊したことによって荒ぶる若者を見て
それを正すために教員になったと話していた。
廊下を走った、いたずらをした、宿題を怠った・・・
そのたびに直立不動させ「歯を食いしばれ」と言われて
往復ビンタされるのが日常だった。

中学校では男子は全員坊主頭を強要された。
髪の毛を指で挟んで少しでもはみ出るとバリカンだった。
多少荒れていたが、それはかわいいもので
せいぜいちょっと長い学ランを着ている奴らが何人かいただけ。
窓ガラスをわざと割って歩いたり、恐喝したりという
「悪事」はなかったと思う。
それでも何かあると教師からはグーで殴られた。
野球部は上下関係が厳しく
廊下で挨拶しなかったというだけで連帯責任となり
ケツバットや階段の踊り場から突き落とされたりもした。

高校では応援歌練習と歌詞指導。
昼休みを使って竹刀をもった応援団幹部が1年生の教室で
机を叩きながら、怒鳴りながら歌詞指導を行なった。
それでもそれは節度あるもので
直接的に身体への攻撃はなかったから
小学校でのビンタや中学校でのしごきを経験した身としては
逆に心中では面白いと思ったものだった。

大学卒業前後、一時期映像制作会社に勤めていたことがある。
勤務した約1ヶ月間、ほとんど休みがなかった。
終電に間に合うように家に帰れるのは週に2〜3度。
あとは編集室のソファで寝た。
夜になってからデモテープを渡されて、
翌朝までに決められた長さに編集することを要求されたりも。
(個人の結婚式の動画で、内容は私の心をかき乱した)
汗をかいても、ロケで服が汚れたり引っ掻き傷がついても
着替えに帰ることすらできなかった。
会社が渋谷にあったので、
たまに道玄坂のラブホでひとりシャワーを浴びた。

地元に帰ってきた後の営業職は体育会系で毎日罵詈雑言を聞いた。
転職したあと、25年勤めていた間には
それなりの役職を与えられたが、プレッシャーと責任で
ストレスMAX、ストレス太りで今より20kgも体重が重かった。
毎日頭痛との戦いでバファリンが主食。
とうとう全身に薬疹が出ても休むことができなかった。
もちろんそれなりの立場は汚れ役や嫌われ役も引き受ける。
水面下では墓場まで持って行かざるを得ない
とても誰かに話すことができないこともたくさんあった。
ストレスMAXだったのは退職してから気づいた。
もしかしたらあのまま勤めていたら体を壊していたかも知れない。
(健康診断は毎年「要精密検査」や「要治療」だった)

さて、こういう経験を踏まえてもなお
今では楽しい思い出が優先的に思い出される。
私がレジリエンス力を身につけたのは
もしかしたら高校時代の応援歌練習だったのかも知れないと
今になって思う。
小中学校時代の体罰は
今も理不尽なこととして忸怩たる思いがあるが
高校時代の応援歌練習や歌詞指導は終了時に納得できたし
今となってはいい思い出だ。
体罰はもちろん、パワハラも決して肯定するわけではないが
それでは現代の若者たちは
どこでレジリエンス力を身につけるのだろうと
時々ふと思ったりするのだ。
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地区民運動会

2024-06-10 | 社会


暑くもなく、寒くもなく、
薄曇りで日光も弱い絶好の天気の中、
毎年恒例の地区民運動会が昨日開催された。
入場行進では本部先に向かって手を挙げろとか
苦笑せざるを得ない場面などもあったが
老若男女和気藹々の一日となった。

新たに住人となった人はこの場で知己を得る。
子ども達もここに参加して1家庭の子から地域の子になる。
赤ちゃんを興味深そうに見に来た小学生の女の子が
「あなたもこのぐらいの時から参加してるんだよ」
と近所のおばさんに微笑まれる。
買った負けたと競技ごとに歓声を挙げるけれど
かといって勝負に徹しているわけでもない。
班の枠を越えてみんな笑顔だ。
競技を横目にお互い近況報告し合ったりして
地域の絆は深まっていく。

この繋がりこそ現代日本が抱える様々な課題を解決する
重要なキーワードだと思うのだ。
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訃報とノスタルジー

2024-06-08 | 社会
フォトジャーナリストの吉田ルイ子さん逝去の報。
もう89歳だったんだねぇ。
彼女の「ハーレムの熱い日々」を読んだのは高校時代。
当時はアメリカ文化が花盛りで
特にウエストコーストの若者に憧れたものだった。
街のあちこちで「UCLA」と胸に書かれたTシャツを見た。
コンバースのスニーカー、ショートパンツにスケートボード、
揺れる椰子の木と南国の明るい太陽。
全米を吹き荒れた「いちご白書」の世界からほんの5年ほど。

でもアメリカの宿痾は解決したわけじゃなかった。
ニューヨークの片隅で差別と極貧の中、必死に生きる人々。
その中から生まれる社会性を孕んだサブカルチャー。
瓦礫の中での子ども達のストリートバスケットボールとジャズ。
写真と共にルポされた本書を夢中になって読んだものだった。
サーフブランドのパーカを着ながら。
合掌
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哲学者

2024-06-01 | 社会


在京花巻ふるさと会の機関紙が送られてきた。
その中にあったこの記事に注目。
1980年代には現代に至る政治状況を見通し、
社会的理念の上に立って一刀両断。
まさにその通りだ。
この人は政治家というより哲学者だと思う。
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定額減税

2024-05-23 | 社会

これが今年度導入された住民税の定額減税。
この他に所得税が年間(!)4万円の減税となる。
12ヶ月の月割で計算すると、所得税が3,333円、住民税が833円。

「デフレ脱却を確実なものとする一時的な措置として、
 国民の可処分所得を直接的に下支えし、
 賃金上昇が物価高に追いついていない国民の負担を
 緩和することを目的といたしております」
「賃上げが実現されるタイミングに合わせて
 税負担の増加を軽減することで、
 国民の皆さんに所得の向上を
 より強く実感していただくことができるものと考えています」
            (どちらのセリフも鈴木財務大臣)

「物価高の影響を受けている国民生活を思い切って下支えする
というこの方策で物価高における国民の負担を緩和するのだそうだ。
そしてこのぐらいの減税で
所得の向上を実感しなくてはいけないらしい。
おまけに「給与明細への減税額の明記を会社に義務付け」で
企業の事務作業煩雑化を施行前月に指示するという「丁寧な」指導。
「たった」というと語弊があるかもしれないが
この程度の減税でこれから1ヶ月間の人事担当者の事務量が増える。
「減税額の見える化」という考え方もセコい。
誤魔化しているような気がしてならない。
「月約4千円年貢を免除してやるからありがたく思え」ということか。
これでどれだけの国民がありがたく思えるだろう。

例えば1億人の国民が年間一律5万円減税となると
単純計算で国庫的には5兆円の減収。
世界一の借金王国である日本で
そりゃ思い切った施策のつもりなのだろうが
その根底には「税金も国民のお金」という考え方が欠如している。
「こっちは我慢するから」と、まるで政治家のお金のようだ。
5兆円の国庫減収は間接的に国民生活に影響を及ぼす。
そしてどうやら並行して社会保険料負担額を上げる議論もある。
「国民を舐めるな」という言葉を飲み込んで、
(そして裏金で懐を満たしている連中を横目で見ながら)
シモジモの我々は耐えるしかないのか?
本当にこんな政府でいいのか?
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大正時代

2024-05-21 | 社会
我が家のルーツ本を作っていると
明治や大正が歴史上の時代ではなく、
とても身近な時代に感じる。
特に大正時代は江戸時代と欧化の明治を過ぎて
現代につながる「近代のピーク」的時代。
薩長土肥の元老政治から政党政治の時代へ。
軍部が牛耳る前の、割と民主的な時代と感じる。
第一次世界大戦による空前の好景気とデモクラシー。
和装から洋装へ、和食から洋食へ。
「富国強兵」から民本主義へ。
一方で都市と地方の格差が広がった時代だ。

米騒動や疑獄事件も起きている。
悪名高き治安維持法が制定されたのもこの時代だが
当時はロシア革命や中国の赤軍の脅威があり
しかも普通選挙が施行されようとしている中で
国内の革命論議を抑えようとした経緯もあったようだ。
いわば民主主義に至るための緩衝的法律だったのだろうが
昭和に入って軍部が主導権を握るようになると
それを悪用して言論統制の道具として使われたとのこと。
法律というものは、
制定当時の精神がいつまでも生きるわけじゃない。
現代においてもそれを肝に銘じないと後悔することになる。
消費税だって、導入当時の竹下さんは
「自分の目が黒いうちは福祉目的以外に使わない」
と言ってたんだけどね(あ、もう泉下の人か)。

健在の大正生まれの人はもう100歳以上。
まもなくいなくなるだろう。
戦場を体験した世代の人がどんどんいなくなる。
だからこそ歴史を学ばなければ。
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はやちね蚤の市

2024-05-18 | 社会

結成からまだ半年の大迫未来会議が
さっそくアクション開始。
大迫のまちを盛り上げようと若者が集まった。
メンバーは移住者やUターン者に地元の若者たち。
レトロな街並みを活かしての「蚤の市」はベストマッチイベントだ。
よくあるような単なるおしゃれマルシェではなく
「蚤の市」としたことが素晴らしい。
第1回目は明日と来週日曜に開催される。
このイベントを今後年4回程度開催したいとのこと。
そのほかにもいろいろアイデアが出ているらしいから楽しみ。

イノベーションはよそ者、若者、馬鹿者によってなされるという。
まさにそれを体現するグループの活動に注目!
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経済

2024-05-12 | 社会
10年前までは、一応企業の役員として
財務や経営企画を担当するなど、経済人の端くれだった。
毎期営業利益を注視しながら成長を図っていた。
それは新たな設備投資のためだったり
人員増や賃金UPのための人件費増の対応するためだった。
結果はどうあれ、成長率2桁%を目論んでいた。
そして今も、たったひとりだけど
とりあえず法的に会社と呼べるものを経営している。

でもね、以前とはまるで考え方が違う。
もちろん業態も違うし、従業員もいないから
以前と違うのは当たり前なんだけど
以前の考え方にギモンが湧いてきていることも事実だ。

どこの企業も業績UPによる成長を目指す。
しかし根本的に、
成長ってしなくちゃいけないものなのかな。
というより、永遠に成長し続けるって可能なの?
もちろん現状維持するためにも
それまで以上の業績を挙げなくちゃいけないとはわかる。
同じままでは下降線だろう。
でも毎年2桁成長し続けるってのは永遠にできる?
安定した利益を挙げ、従業員も役員も幸福であるなら
それはそれで優良企業じゃないの?

これは企業ばかりじゃなく、国にも言える。
少子高齢化が喫緊の課題とされる。
人口減少に警鐘が鳴らされる。
しかし振り返って見ると、江戸時代の人口は3千万人ほど。
それでちゃんと経済は回っていたし人々も暮らしていた。
今はその4倍もの人たちがいて、消費量もその分拡大している。
どんどん新たな産業も生まれていて雇用もできる。
もちろん江戸時代にはなかった輸出も盛んだ。
そういう現代社会で何が問題なのだろう。

去年より今年、今年より来年、
企業は業績を、国は経済を、より発展させ続けようとし、
それを担う従業員や国民は追い立てられる。
ひと休みする余裕すら無くなっている。
そんなことを追い求め続けることで
果たしてみんな、より幸福になっているのだろうか。
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当世学生気質

2024-05-04 | 社会
♪ 朝間は大根漬け 昼間は煮豆
  時には魚の頭も食わせる
  痩せだ 痩せだ 痩せだ 痩せだ
  痩せだ 痩せだ 痩せだ〜 ♪

早稲田大学の校歌の替え歌を
昔親父から教わった。
訛った歌詞なので岩手限定だと思うが
昭和40年代〜50年代ごろの学生生活イメージだと
妙にリアリティがあって面白かった。

学生気質が当時と今とでは全く違って感じる。
四畳半か六畳一間の風呂なしアパートで
(部屋にトイレがついていたら贅沢な部屋だった)
さすがに学生服+学生帽ではなかったものの
着古したセーターにジーンズが制服だった。
とにかくいつでも金がなく、
アルバイトに精出す輩でも慎ましく暮らしていた。
私が学生時代もそんな感じで
ちょっと贅沢するのは本を買う時ぐらいなもの。
実家暮らしの附属校出を羨ましくみていた記憶がある。
慶應や立教、青学のようなお洒落な大学はわからないけれど
(私の同級生でそういう大学に行った人間は少なかった)
早稲田や明治、法政、日大、東洋大あたりの大学に
地方から行った同級生たちはほぼそういう生活だった。
まだまだそれらのマンモス私大に地方出身者が多かった時代だ。

今は地方から首都圏の大学に進学するにはお金がかかるので
どうやら首都圏出身者の割合が多くなった由。


今では地方からの進学者は
みんな風呂付きの瀟洒なアパートやマンションに住み、
実家から通う者はもちろん「貧乏学生」という呼び名ではない。
麻雀するか、安酒を飲む程度の遊びから
新卒社会人よりお金をかけた遊びをする学生が多いと聞く。
だいたい服装からしてオシャレだよね。
それが良いとも悪いとも言うつもりはないけれど、
就職することによって、お金だけじゃなく心の余裕的にも
生活レベルが下がることをどう感じるんだろう。
昔は就職すればアルバイトや仕送りよりも生活が安定するので
どんな仕事でも嬉しかったものだったけど。

学生気質が劇的に変わったのはバブルの頃なのかな。
この風潮、都市部と地方の格差にも繋がっている気がするのだが。

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コミュニティ

2024-04-26 | 社会
PTAとか、町内会とか、同窓会とか、社員会とか
営利や損得を目的としない社会的コミュニティがいくつかある。
無きゃ無くてもすぐに困ることがないせいか
最近は「時間がとられて面倒」と敬遠する傾向があると聞く。
でもそれは、それらの目的がわかっていないからだろう。

PTAは家庭と学校が協調するためにある。
子どもたちを伸び伸びと育てたいが、外には危険がたくさんある。
保護者と先生が手を繋ぎ、子供達を守りながら
その輪の中で自由に過ごさせるためにPTAはあると考える。
輪が大きければ大きいほど子どもたちは伸び伸び過ごすことができる。
子どもは家庭だけで、あるいは学校だけで育つものではない。
家庭と学校と地域の三位一体が必要。
それでこそ社会性も身につくというものだ。
PTAは決して行事を行うためにあるわけではないので
参加しやすい活動にしていく努力も必要。

町内会は同じ地域の共通課題を共に解決するためにあるのだが、
地域住民同士の親睦もまた大事な役割だ。
お互いの生活をカバーしあったり、災害時には助けあったり。
実際、東日本大震災時は地域の備蓄力が力を発揮した。
個々人で備蓄しようとするから買い占めや物資不足になる。
ひとりでは対応が大変な状況下で、地域は大事なバッファとなる。

同窓会はひとつの価値観の元で学んだ者たちのコミュニティ。
単なるノスタルジーだけではなく、
母校で学ぶ後代たちへのサポートも大事な役割だ。
自分が学んでいる時には気づかないが
実はその時から影に日向に先輩たちのサポートがある。
卒業してからも、先輩たちの存在はとてもありがたいものだ。

社員会は同じ目的を共有する者たちの集まり。
同窓会同様、目に見えない形で先達からのサポートがある。
そして町内会同様、何か問題が起きた時にカバーし合えるよう
親睦を深めておくことも大切だ。
生産性を上げる作戦とか、コスパ、タイパを考えるより
チームワークの強化の方がよほど業績に結びつく。
会社は売上や利益だけじゃない。
社会に役立つものをチームで生み出せるかどうか。
哲学があって初めて売上や利益につながるものだと思う。

学生時代に友達とダベるとか、仕事の合間に一服するとか、
目的地に行く途中寄り道するとか、仕事と関係ない人と付き合うとか、
「ムダなこと」と切り捨てられる傾向があるけれど、
一見ムダに見えることこそ実は大事なのではなかろうか。
人を機械のように縛り付けることで
現代社会が抱える問題の多くが発生している気がする。
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国語教育

2024-04-25 | 社会


先週行われた全国学力調査の
小学校、中学校の国語問題を新聞で見て驚いた。
文芸作品の長文読解問題がない。
登場人物の心情や表情の裏の隠された言葉を
これでどうやって推し量る能力が身につくだろう。
こういうテスト問題ばかりになったら
どうやって読書習慣を身につけさせられるだろう。

しかも何?メール文の読解?
そんなもの、ある程度のコミュニケーション能力があれば
別にテストには必要なくなるものだろう。
そのコミュニケーション能力を身につけるためにも
文芸作品の長文読解が必要なんじゃないの?
ちょっと呆れてしまった。
こういう国語教育のもとで育った子たちの時代
社会は一体どうなってしまうのか。

現代社会が抱える問題はほとんどが
哲学やコミュニケーション能力の欠如によるもの。
こういう、いわゆる「実学」ばかりの教育が
現代社会の問題をより一層深刻化させている気がしてならない。
何不自由無く、受験術を身につけて
最高学府を出たような文部官僚の方々にはわからないか。
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レジリエンス

2024-04-18 | 社会
テレビドラマ「不適切にもほどがある(ふてほど)」で
昭和と令和の価値観の違いが描かれ、話題となった。
私はどちらの時代も体験していて
なんと小学生時代から教師によるビンタを経験している。
中学時代はグーでも殴られたし、野球部ではバットケツもあった。
見えない形での陰湿ないじめはなかったが、
面と向かっての罵倒や大っぴらな仲間外れはあった😅
決していい時代とばかりは言えない。
(なんなら先生から「今日は●●くんと話してはいけない」も)
一方で、令和の時代の〇〇ハラスメントだらけの窮屈さも疑問に感じている。
あまりの価値観の違いに笑うしかないのだが😅
どちらがいいとは(どちらが悪いとも)言えないとは思う。

少なくとも「人の痛み」を慮って配慮する令和の感覚は
決して悪いことではないし、いい時代だと思う。
何があろうと、人は暴力を振るわれるべきではない。
でもね、最近の風潮として
レジリエンスの力が不足している気がするんだ。
昭和の時代は(良し悪しは別として)上下関係や体罰などが
結果として個々のレジリエンス力を育んだ気がする。
だから受験、就活の失敗や仕事上のミス、意見の対立などにより
困難な状況に陥っても、その程度で心が折れるということはなかった。

しかし現代はどうだろう。
体罰や上下関係による圧力、理不尽な罵倒などは減ったが
それでも学校生活、仕事などにおいて理不尽さは必ず起きる。
災害も、思いもよらない事故も、思うようにいかないこともある。
現代はそれを「親ガチャ」「配属ガチャ」「パワハラ」などの言葉で
甘え、逃げてはいないか?
受験に失敗しただけで「人生終わった」「詰んだ」、
保育園の抽選に外れただけで「日本死ね」、
仕事上、少し壁にぶつかっただけで早期退職・・・。
貧困で受験すらできない人、妊活しても子どもに恵まれない人、
就職がうまくいかず不正規雇用に甘んじている人などは
それらの言葉や行動をどう感じるか思いが至っていない。
あるいは「自己責任」で切り捨てる。
ならば受験の失敗も仕事の壁も自己責任じゃないの?
他人は切り捨て、自分は流行りの言葉に逃げる。
そこで踏ん張る力(レジリエンス)が働いていない。

岩手県の旧制中学時代からの伝統校では
入学すると厳しい応援歌練習が義務付けられている。
私の母校では入学式のすぐ後に
新入生ひとりひとりが上級生の前で挨拶する応援団入団式がある。
数年前に週刊誌で、そういう慣習が「パワハラ伝統」と報じられた。
体罰はない。
厳しいのも応援歌練習中のせいぜい1週間だ。
それが終われば、仲の良い上級生と下級生の関係になる。
レジリエンス力(母校で言えば「黒橋魂」「不撓不屈」の理念)を育む
訓練的イベントだと理解してほしいのだが
令和の時代には「パワハラ」の一言で片付けられるのだろうか。
それではレジリエンス力はどこで育まれるのか。

昭和な男から令和の時代へのささやかな疑問。
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