風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

「春と修羅」「注文の多い料理店」刊行100年

2024-07-14 | 文化


宮沢賢治イーハトーブセンターの今年の企画展が
昨日から開催されています。
それぞれの専門家たちが研究の集大成ともなる企画展。
両作品の評価やバックグラウンドなども詳細に説明されており
再評価につながる展示会となっています。
ぜひ足をお運びください。
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紫陽花を包み込むものは

2024-07-10 | 文化

本とコーヒーとJAZZ。
切ってもきれない組み合わせ。
私という人間のかなりの割合を構成するものでもある。
JAZZは聴くだけだけどね。
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ローカル線の小さな駅

2024-06-29 | 文化

鉄オタと一口に言ってもいろいろなカテゴリーがある。
私はそんなに入れ込むほどのファンではないけれど
ローカル線の駅については心惹かれるものがある。
家々の軒先や線路脇の雑草に挟まれて
黙々と走るローカル線に乗るのも嫌いではない。
(だから田舎のローカル線のみならず
 例えば東京の東急世田谷線や都電荒川線も好きだ)
でも一番はそそられるのは小さな古い駅舎や草むしたホーム。
住んでいる花巻近隣では釜石線や北上線。


駅舎で言えば
古い駅舎に残っていることが多い改札用の木の柵や
屋根を支える添木が支える木の柱。


これまでいったいどれだけの人間が
それぞれの思いを抱きながらこの柱に寄り掛かっただろう。
そんなことを想像させるのだ。


ここは釜石線の似内(にたない)駅。
昭和20年8月10日の花巻空襲の日、
市街地に爆弾を落としたあとの米軍機は
この駅に停まっていた列車に機銃掃射を仕掛けた。
一時の休暇を終えて原隊に戻る途中の家族連れの兵隊や
実家に帰っていた教師など5人が犠牲となった。

これらの駅からどれだけの人たちが戦地に出ていったのだろう。
ささやかな生活を営んでいた人たちも
否応なく招集されたことを
ローカル線の小さな古い駅を見るたびに思い浮かべるのだ。
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使役表現

2024-06-05 | 文化
戦前や戦時中の、特に軍人や政治家たちの言葉を聞くたびに
殊更耳に残る言葉(というか表現)がある。
「●●せしめる(せしむる)」だ。
例えば
「敵に殲滅的打撃を与えて潰走せしめる」
「同法の趣旨及び内容を周知徹底せしめる」
要は「させる(さする)」という意味だが、
この表現についてちょっと考えてみた。

「せしむる」は動詞「す」と使役動詞「しむ」の組み合わせだが
本来なら終止形である「せしむ」となるところ
上記例文はなぜか連体形の「せしむる」になっている。
(そのあとに「事」などの名詞が来る場合は連体形でOK)
本当なら係り結びとして
「敵に殲滅的打撃を与えて潰走せしめる」とか
「同法の趣旨及び内容をなむ周知徹底せしめる」
となるべきところ、文語体を無理に口語として発する際
勢い余って連体形になったのではないかと思われる。
なお、これは「させる(さする)」も同じで
本来であれば係り結びにしなければならないルールだ。
そうでなければ「さす」になるべき言葉。

ところで、最近誤用が目立つ使役表現に「さ入れ言葉」がある。
「行かせる」「払わせる」「歩かせる」などだ。
「させる(さする)」は確かに使役表現で、
「受け(e)させる」「来(o)させる」みたいに
母音が「a」以外の場合は「させる(さする)」でいいのだが、
この「さ」の前の母音が「a」の場合は「さ」が抜ける。
(「行かせる」「払わせる」「歩かせる」みたいに)
現代においてはこの乱れがとても気になる。
かつて「スマップスマップ」というテレビ番組があったが
その中で、今から料理を作るという場面で
「作らせていただきます」と言っていたことを覚えている。
とても耳障りだった。

とはいえ言葉は生き物。
現代口語において「さす」などという人はいないだろう。
「させる」という言葉が終止形化してしまっているのだと思う。
もちろん最低限の文法は理解して欲しいが
時代によって表現方法が変わってくるのはある意味自然の摂理。
あまり目くじらを立てることではないのかもしれない。
言葉は世につれ。
「せしむ」を使う人がいなくなってしまったように。
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不定期連載 風屋の「正しい岩手弁講座」vol.15

2024-05-29 | 文化
不定期連載にもほどがあるけれど😅
約1年半ぶりのネタ。
今回は自省をこめて人への批判言葉を挙げてみようか。

●おべだっぷり
「覚えたふり」の音便形。 
いわゆる「知ったかぶり」という意味になる。
たまにここで政治や経済、視界情勢などに苦言を呈するけれど
要は本や新聞などからの受け売りばかりだったりする。
まさに「おべだっぷり」の自分💦

●けねやづ
たぶん「食えねぇ奴」の音便。
「たいしたことない奴」とでもいう意味になろうか。
そこそこ歳は重ねてきたけれど
じゃあこれまで何をやってきたのだ?と問われると
苦笑いでごまかすしかない。
イメージよりも「けね」人間だったりする。

●くぐつね人
これは語源がわからないけれど
「面倒くさい人」とか「絡んでくる人」みたいな意味。
俗に「とぐろを巻く人」的な使い方をする。
ごめんなさい。
ワタシも調子に乗るとついくぐつねぐなる。
自覚してます。
以後気をつけます😅
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理想の車

2024-05-28 | 文化

車ってのは時代によってそのスタイルに流行り廃りがある。
特にこの10年、20年ほどは、
ひとつのデザインが流行るとみんな一斉に右倣え。
どの車も同じように見える。
近未来的なデザインなどは「勘弁してくれ」と思う。
個性あふれるシンプルな車こそが、個人的には理想だ。

テクノロジーは素晴らしく、確かに便利だけど
中身がみーんなコンピューターになってしまうと興醒め。
要らんものまでいろいろ付いてきて
その分金額に転嫁されてどんどん手が届かなくなる。
「千万人といえど我行かん」って車はなかなか出てこないのかな。
開発時点で臆病になっているのかな。

1500ccぐらいのディーゼルエンジン、
ボックスタイプの4WDでベンチシートにコラムシフト。
4人が余裕で座れて荷物も多少は詰める。
そんな車が理想なんだけどな。
スタイル的には初代のTOYOTA Bbみたいなやつ。

ところで、古今東西目にしてきた車の中で
一番惹かれるのがスバル360だ。
コンパクトで可愛いエクステリアとシンプルイズベストの内装。
前開きのフロントドアもなかなかの個性だ。
2ドアだから後席への乗り降りは面倒なんだけど
ひとりで使う分には問題ないだろう。
空冷リアエンジンはオーバーヒートが心配だから
せめて水冷にしてもらえるとありがたい。
ついでに最近のテクノロジーとして便利なバックモニターが付けば
自家用車として充分に検討に値する。

ワタシが子どもの頃だった昭和40年代。
まだ各家庭に自家用車がそんなに普及していなかった頃
(もちろん我が家にも無かった)
近所の同級生の家ではこのスバル360を持っていた。
時々乗せてもらった懐かしい思い出の車でもある。

かつてのオート三輪の名を受け継いだ
ダイハツミゼットが1990年代に売られていて
これも惹かれる車だ。


ひとりかふたりしか乗れないから実用的じゃないけど
こんな車でキッチンカーやったら話題になりそうだよね。
これも乗ってみたい。
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花魁道中

2024-05-10 | 文化

桜の季節は終わったが、おそらく満開だったころ、
全国の桜まつりアトラクションとして
花魁道中が行われただろう。
桜の季節だけじゃなく、集客アトラクションとして
花魁道中はその華やかさから人気かもしれない。
でもさ・・・

当時実際にいた花魁たちはどんな人生だったのか。
そんなことを慮る人はいるのだろうか。
貧しい家に生まれて売られ、
多額の借金を抱えてその世界から抜け出せない人生。
吉原などでは逃げ出せないよう堀まであった。
体を張って、その狭い世界の中だけで生きるしかなかったから
その中で1番になることは目標だったかもしれないが
それは花街の中でだけのヒエラルキー。
一方で人間扱いしてもらえず単なる商品で、
年をとったり病気になれば打ち捨てられる存在だった。
花魁道中だって、本人のためというより
遊郭における宣伝目的だった。

かつての花魁たちを思うと
現代において花魁道中をありがたがる気になれない。
簡単に扱っていいことではないと思う。
泉下の彼女たちはどう思っているだろう。
そういう歴史まで踏まえた上で
集客のためにあえてに行っているとしたら
遊郭の主人たちと動機は一緒だ。
簡単にそういうアトラクションを行う発想に
個人的にはおぞましさすら感じる。
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2024-04-29 | 文化
時々思うこと。
明治維新の時に新政府を作ったのは薩長土肥と言われる。
その内訳は「薩摩」「長州」「土佐」「肥前」と
言い表されることが多い。
薩摩藩は薩摩国、大隅国、日向国を統治していた。
長州は萩藩が中心ながら、
基本的に周防国、長門国の2国を統治していた。
土佐藩は土佐国を統治。
肥前はいくつかの藩を合わせた国の名だ。

何に引っかかっているかというと
薩摩、土佐はそれぞれ国の名に「藩」を付けて、
肥前は国の名で言われるが
長州だけは「長門」ではなく「長州」と呼ばれること。
長門と周防の2国を総称するつもりで長州と言っていると考えたが
それでは薩摩も3国を納めているので薩州になる。

「州」とは律令制上の行政区画の一種とwikipediaにあった。
武蔵国なら武州、甲斐国なら甲州、奥羽なら奥州。
越州や備州のように、前、中、後がついた国も「州」で総称されるし、
9つの国があるからと、九州は一把一絡げ😅

薩長土肥のなかで、肥前は九州全体ではないので肥前でいいだろう。
ならば他はなぜ薩州や土州ではなく薩摩、土佐なのか。
いや、逆に、なぜひとつだけ長「州」なのだろう。
というか、ひとことで薩長土肥というけれど
藩の名だったり、国の名だったり、「州」だったり
いろんな呼び名の基準がごっちゃになっている。
テキトーだなぁ・・・。
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葬儀

2024-04-20 | 文化

昨日は、宮沢賢治さん弟の静六さんの娘(賢治さんの姪)で、
林風舎主宰の宮沢和樹さんのお母さんである
宮沢潤子さんの葬儀があった。

ことあるごとにお声がけいただき
賢治さん関連のイベントに出席時には
隣に座って小声でいろいろお話ししたこともあった。
和樹さんが林風舎をオープンさせた頃に
「本人は花巻にはあまり友人も多くないので、
 よろしくお願いします」
とも言われていた。
昨年、入院されていると聞いていたが
突然の訃報でびっくり。
まだまだお元気で
いつものメガネの笑顔を見せてくれると思っていた。
向こうでご主人や清六さん、賢治さんとともに
うちの親父とも旧交を温めてください。
ご冥福をお祈りいたします。

合掌
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大学で学ぶこと

2024-04-13 | 文化

私の大学受験時、
行きたかったのは日本大学芸術学部の文芸科か
早稲田大学第二文学部の文芸科。
「そんなところに行って何になる気だ」と父に言われ
結局受験すらさせてもらえなかったのだが
当時もの書きになろうと思っていた私が考えていたのは
日大は芸術学部に集まるクリエーターの卵たちに
刺激を受けつつ自らも学びたかったのと
早稲田では夜間部に通いつつ
どこかの出版社のアルバイトに潜り込んで
編集などを実践で学びたかったから。
何よりも、専門で文芸そのものを学びたかった。
残念ながら、教員になることを望む両親の意向のもと
折衷案で国語か教員免許が取れる(そして教員輩出実績ある)
国立と私立数校を受けることとなり
『浪人して来年こそ行きたいところへ」
という希望も虚しく2校に「合格してしまい」、
心ならずもそのうち1校に入学することとなった。
入学直後、カリキュラムを見てがっかりしたことを思い出す。
国文学コースは重箱の隅つつき大会に思えたので
途中から国語学コースへ。
それなりに面白かったのは、もともと言語学や社会学的なものに
興味があったからだっだのだろうと思う。

ところで、ちょっと気になって
母校の国文科の現在のカリキュラムをHPで覗いてみた。
面白そうだなぁ。
こんなカリキュラムだったらがっかりすることも無かった。
今高校生だったら積極的に志望校にするのになぁ。
受験の仕方も含め、今の学生が羨ましいなぁ。
ここは通教もあるので、今からでも学ぼうと思えば学べるが
すでにこういう仕事でメシを食っている立場で
今さら1から学ぶってのもどうなのかと思ってしまう。
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1979年〜1984年

2024-04-06 | 文化

渋谷にパルコができたのは1973年。
Part2は1975年。
そしてPart3は1981年。
公園通りやスペイン坂などの通りの名前がついたのも
最初のパルコができた時。
私が大学入学で上京したのは1979年なので
ちょうどリアルタイムでパルコ文化が花開いた時代だ。
とはいえ貧乏学生にはパルコどころか
渋谷のまちもキラキラ眩しすぎて縁遠かった。
今考えるとまだまだサラリーマンの街だったのにね。
渋谷に行ったり、
パルコ(特にPart3)に出入りするようになったのは
大学4年でテレ朝のADをやるようになってから。
多少まとまったお金をもらえたからね。

上京した頃の原宿は竹の子族が花開いていた。
とはいえそれは代々木体育館前から原宿駅前あたりまで。
明治通りから表参道にかけては大人の街だった。
その辺りにあったJAZZ喫茶に時々行ったりしたものだ。
表参道駅近くのハナエモリビルの地下にあったアンティーク街は
高価で買えず、見るだけのために訪れたものだった。
ハナエモリビルからちょっと路地を入ると
落合恵子さん経営のクレヨンハウス。
大学1〜2年のころは絵本に凝っていたので
ここもよく行ったものだ。

六本木はもっと大人の街・・・
というより他の繁華街とはちょっと違う
スノッブな雰囲気の街だった。
表参道もそうだったけど、
有名人が歩いているのに気づいても知らん顔するような
そんな外国のようなというか、個人主義的空気。
牛丼チェーンやそば屋チェーンなど
どこの繁華街にもありそうな店は見当たらず
ちょっとおしゃれな店が軒を連ねていた。
とはいえ、六本木交差点周辺をちょっとそれると
麻布方面まで下町っぽい商店街。
テレ朝時代はルート246沿いにあった
インドネシア料理店「ブンガワンソロ」がお気に入りだった。

歌舞伎町は飲み屋街。
今のような風俗店が並んでいた街ではなかった気がする。
ここもPONYや木馬などの老舗JAZZ喫茶に通った。
花巻から上京した友人たちと飲むのは
西武新宿駅近くのキリン館。
足を踏み入れるのに臆するような歌舞伎町ではなかった。
新宿駅前のアルタは待ち合わせにもよく使った。
大画面映像は人待ちの間のヒマつぶしに都合よかった。
新宿は駅ビルMY CITYや駅前のミツミネに通ったものだ。
パルコ辺りと比べるとリーズナブル。
貧乏学生にはありがたかった。

当時はまだバブル前。
1970年前後の高度経済成長を経て、
戦争の時代はもちろん、その後の「The戦後」の気配もなく
それでも大正生まれや昭和ヒトケタ世代向けの
赤提灯中心のサラリーマンの街だった。
ガサツな街、下世話な街、雑多な街が多かった。
八百屋、米屋、酒屋が普通に営業していた。
肉屋でコロッケを買って食べながら歩いたりもしていた。
そんなゆるい雰囲気がどこか心地よかった記憶がある。
同じ東京の街。
現代は40年前当時とはまったく違う街という感じ。
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「岩手と東北アジア」

2024-03-20 | 文化

岩手日報の毎週日曜日に掲載されている
このシリーズがとても面白い。
著者は岩手大学准教授で東アジアの新現代史が専門とのこと。
初めて知った県人の活躍、よく知られた人の知られざる話、
歴史的事件や紛争のウラ話、意外な人間関係などなど・・・。
特に、これまでよく知らなかったシベリア出兵の話が興味深かった。
時系列で連載が続いているので
現在のネタを考えると、この先はそんなに長く無いのかな?
見逃した回もあるので書籍化して欲しいな。
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桃の節句

2024-03-03 | 文化
今日はひな祭り。
昨日、孫娘を連れて石鳥谷は八日市のつるし雛へ。
我が家は息子たちだけだったし、
上の孫たちも男の子なので、
こういうイベントがいちいち珍しい初体験だ😁





干支である辰も。


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春の気配

2024-02-18 | 文化

水仙の和菓子でお薄を。
まだ2月半ばというのに、
雪が全くなくて日差しがもう春。
これでいいのだろうかと疑問に思いつつ
それでも春は嬉しい。



お茶タイムは茶寮かだんさんにて。
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岩手三山伝説

2023-12-20 | 文化

岩手山と姫神山、早池峰山が
恋の鞘当てをしたという岩手三山伝説。
岩手山と姫神山が結ばれた結果
盛岡から早池峰山が見えなくなったという結末だ。
岩手山が男、姫神山が女というのが定説だが
それでは早池峰山はどうなのだろう。

もし男なら岩手山と争って敗れたことになる。
潔く姿を消したというところか。
しかし考えてみれば、
早池峰山の守り神は瀬織津姫。
ということは、岩手山を巡って姫神山と争った?
あるいは、女として姫神山を巡り
岩手山との争いだったのかも知れないなー。
果たして真相は?

盛岡人の心の山は岩手山(巌鷲山)。
花巻人の心の山は早池峰山。
各校の校歌に歌われている山々だ。
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