何日か前の朝日新聞の片隅に
長野県松本市にあるという旧制高校記念館のことが
コラムとして紹介されていた。
見出しは「自由な気風を育んだ学生ら」。
旧制高校といえば大学予科的な存在でいわば教養課程。
(今の大学には教養課程そのものが無くなったようだが)
学生たちは大学で専門を学ぶ前の教養と語学を身につける。
当時専門を学ぶということは、原書を読む必要があったから。
朴歯の高下駄に弊衣破帽、マントを羽織って高歌放吟、
寮生活の中で酒を飲み、タバコを燻らし、夢を語り、
哲学書を読み、議論を戦わせていたという。
自由を謳歌しつつ、高度な教養や思考を身につけていった。
この本は1978年(私が高校3年の頃)に買った宝物。
後の国のエリートたちの青春群像が描かれている。
とある、数学嫌いの学生が
「文科に数学の時間は不必要だ。
その分をドイツ語に振り当ててもらいたい」
と校長に直談判した時、当時の校長は
「人生は長い。若い時には無駄だと思うことでもやっておき給え」
とただひと言答えたという。
その簡単な言葉こそ、旧制高校の核心をついていたと思う。
私の母校である岩手県立花巻北高はバンカラの伝統がある。
今でも応援団幹部は弊衣破帽に腰手拭い、高下駄を鳴らして歩く。
私が現役の高校生だった頃は一般生徒もそうだった。
それは「漢と書いておとこと読む」的な硬派ではなく
その頃にはもう歴史上の存在だった旧制高校への憧れからだった。
バカバカしいことも、無駄なことも、先生への直談判もやった。
それが今自分の血肉になっていると感じている。
現代の高校生たちは、旧態依然とした応援歌練習や伝統を
「無駄なこと」として捉えがちと聞いた。
人の人生は効率的では決してない。
うまくレールに乗れたとしても、様々な紆余曲折がある。
その時生きる力となるのは若い頃の「無駄なこと」ではなかろうか。
本書には旧制八高と山形高が掲載されている。
旧制八高はうちの父が浪人してまで目指した学校。
(戦況悪化のために浪人中断念)
山形高は私の伯父が盛岡中から入学した学校だ。
確か亀井勝一郎や神保光太郎と同級で仲がよかったと聞いた。
神保光太郎先生は私が入った大学で、当時教授を務められていて
伯父の紹介で一度お目にかかったことがある。
教科書にも作品が載っていた、有名な詩人に会ったことは
まだ20歳前の私にとっては僥倖だった。
当時もう60代の国会議員と著名な詩人で学者・・・
それでも2人は青春時代そのもののような付き合いのようで
私の旧制高校生たちへの憧れがさらに増した経験だった。
教育に効率は必要ない。
いかに無駄な経験をするか、いかに様々な知識や体験に触れるか。
それによって人格が形成されていく。
かつての旧制高校のようなリベラルアーツを学んだエリートは
保身のための公文書改竄や虚偽答弁などはしないだろう。
現代の諸問題は、教養を身につける時期がなくなったことで
顕著になってきている気がするのは私だけだろうか。