風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

満開

2006-04-30 | 風屋日記
ここは以前書いた、
母校の旧校舎跡である桜雲台。
やっぱり昨日と今日の陽気で一気に満開。
待たされたせいか、例年より色がキレイに感じる。
さっき雨がパラッときたけど大丈夫。
うまくいけば3日以降の後半までもつかな!?


ということで、岩手は今花盛りです。

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春祭り

2006-04-29 | 風屋日記
暖かくていい天気。
鳥谷崎神社での春祭りにはちょうどいい日和だ。
今、社殿での式を終えてきたところ。
市長や市議会議長、商工会議所、農協など
12人もの玉串奉納があって足が痺れたけど(笑
神楽奏上も無事終えた。

花見を兼ねて外で昼飯食って、
午後からは神楽奉納。
花見のお客がたくさん来てくれるといいな。

正午の合図に近くの市役所から流れてきた
宮沢賢治さん作曲の精神歌を聞きつつ。

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鳥谷崎神社奉納神楽

2006-04-28 | 風屋日記
開き始めたばかりの桜(at 盛岡)



鳥谷崎(とやがさき)神社は花巻の町の鎮守。
400年前に南部藩の南の守護城として
北愛親が城主となり、その子昭斉が町づくりをして以来、
花巻城があった高台に鎮座して町を見下ろしている。
7万人の旧花巻市の人口が3日間だけ30万人になるといわれている
400年続いてきた花巻祭も鳥谷崎神社の祭礼だ。

明日はその鳥谷崎神社での奉納神楽。
普段のフランチャイズである熊野神社での奉納とは違い、
いわば日本のプロ野球チームがメジャーへ行って試合をするようなもの。
格上の場所での対外試合は気も使うし気合いも入る。
まして明日は鳥谷崎神社の桜祭で、
市長や商工会議所会頭など市内のお歴々も参拝に訪れる。
中学生たちが体育祭だったり、高校生たちは試合などがあり、
参加できるメンバーも少ないのでちと大変だけど
できるものを精一杯やろう。

明日の演目は基本的に先週の中根子地蔵噂と一緒。
「翁舞」「三番叟」「岩戸開き」「八幡舞」「天王舞」に「権現舞」。
先週演ったばかりなので練習も特には必要無い。

明日、明後日は花巻市の合併を記念し、
姉妹都市である神奈川県の平塚市との関係で
首都大学野球リーグの公式戦が特別に花巻球場で行われる。
お陰で公式審判員をやっている神楽メンバーも来れなくて
「山の神舞」ができないし
私もすげー観に行きたいけれど仕方ないね。
明後日観に行くことにしよう。

花巻もあちらこちらで桜がほころび始めている。
今日の陽気で一斉に花開くことだろう。
明日の天気予報は曇りだけど、花曇りってのもまたいいものだ。
満開に近い桜の下での奉納、いい日になりそうだな。
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続・ホントに仲間?(いや、子分だろ)

2006-04-27 | 風屋日記
日本における米軍再編のための日本の予算負担が7千億ということで
一昨日憤慨してのエントリーだったんだけど、
昨日のアメリカ国防副長官の記者会見を見てたら、
7千億というのはグアムへの移転費用分だけであって、
再編全体での日本の負担が3兆円とのこと。

3兆円!!!???
ふ・ざ・け・る・な!!
呆れてモノが言えない。
保育園作るとか、第3セクター支援どころの金額じゃないじゃん。

要は防衛庁とアメリカ国防省との合意ってのはそういうことだったのね。
それでいて国内では7千億という話だけ発表したわけだ。
実際に支出する国民には何の説明も
いや、説明どころか事実すら隠してこっそりと
「3兆円払います」という合意を形成してきたわけだ。
そりゃそんだけ払えば合意するわなぁ。

アメリカ国防副長官の記者会見内容を受けた小泉さんの発言は
「アメリカ国内世論や議会を納得させるために言ったことだろう」
って・・・そんなん通用することなのかね。
「日本は3兆円払う」とテキトーなことを言った後で
「やっぱり払わないそうだ」じゃ
その方がアメリカ国内世論が黙ってないだろ。
かなり確実な話じゃないと記者会見で言わないと思うけど。
第一、小泉さんはどうして驚かないの?
普通はそんな途方もない金額を出されたらびっくりでしょ。
知ってたからだよね。はじめから。
それでいて「あのヤロー言いやがった」ってとこでしょ。

おまけに自民党は消費税率のアップを来年計画しながら
来年上げるとすぐに選挙があって批判票で負けちゃうから
選挙が終わった再来年にしよう・・・って。
もう開いた口が塞がらない。
彼らは「主権在民」をどう考えているのか。
3兆円払うために「選挙後に」消費税を上げるってか?
それだって「景気が良くなった」とプロパガンダを続けて
「もういいかな?」ってタイミングなんでしょ。
景気が良くなったなんて私は全然体感してないけど。

こんな国を「愛せ」って言われてもなぁ。
「黙って言うことをきけ」って言われても黙って聞けない。
こんなに小馬鹿にされても
まだ「小泉自民党の改革に期待する」と言う人たちはいるの?
まだみんな黙って何も声を上げないの?

私はもう黙ってはいられない。
「色んな考えがある」と鷹揚に構えるレベルを越えている。
今日は申し訳ないけど、キツイことを言わせてもらう。
小泉自民党に投票し続ける有権者の方々に対してもだよ。
どこぞの宗教と一緒だね。
疑うことを知らずに騙されている。
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寂しい春

2006-04-26 | 風屋日記
私の父方の兄弟については以前書いたことがあったが、
実は2週間前、親父の最後の兄弟である
横浜に住む伯父が亡くなったとの連絡をもらった。
享年92歳。
心筋梗塞の再発作により突然の死だったとはいえ、
年齢を考えると大往生だ。
昨秋、久しぶりに横浜を訪ねて会っていたのだが、
その時にはわざわざ駅まで迎えに来てくれる程元気だった。
あっという間だね。
遺言により家族だけで葬儀を営むということで、
私は日を改めて訪ねていくことにしようと思っている。

父方に繋がる親族はみんな長寿。
結核で亡くなった親父の長兄、三兄と親父、
そして終戦直後のどさくさで満足なものも食べられず
悪食による腸閉塞で亡くなった祖母を除くと
みんな90歳以上まで生きたか、老衰で人生を終えている。
圧巻は東京に住んでいた親父の伯母。
5年程前に102歳で亡くなっているのだが
何しろ日露戦争に勝った日の提灯行列を覚えているという
とんでもない方だ(^^;
亡くなる1年前まで、大好物の鰻をモリモリ食べていた。
私が学生時代には偶然すぐそばに住んでいて
よく夕食などのお世話になったものだ。
その時、昔の思い出話をたくさん聞いた。
親父からもいろいろ聞いていたので、より興味深い話だった。

親父の両親も、兄弟も、そしてその伯母も
みーんないなくなった。
かつて笑い、泣き、怒り、話していた人たち誰もが
次々に打ち寄せる時間の波間に消えてしまった。
明治時代から続く、父方の摩訶不思議、複雑怪奇な系譜を
知っているのはもう私しかいない。
後の親戚達、従兄弟達は首都圏暮しで
昔々の物語は何も聞いていないらしいし、
第一人間関係、家同士の関係、地理的関係がわからないと思う。
書き残しておこうかとも考えるのだけれど、
私のように具体的にいろんな人と会った経験でもないと、
書いてあるのを見ただけじゃ歴史の勉強みたいだね。

昔のことを色々知っているだけなのに、
自分ひとりだけ生き残ってしまったような
何だか寂しい、春。
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ホントに仲間?

2006-04-25 | 風屋日記
6千億円あれば何ができるだろう。
全国に公立の保育園を作って働くお母さん達を応援したり、
高校や大学、専門学校へ進学する若い人たちのための
幅広い奨学金の基金にもなるだろう。
公共交通手段に乏しい地方に住む人たちの貴重な足である
JRから切り捨てられた第三セクターの赤字路線への補助や、
産婦人科医、弁護士がいない地方にそれらの方々を配置して
生活バックアップ体制もとれるだろう。
破損、壊滅の危機に瀕している文化遺産の保護にも使えるし、
アジア・アフリカへの様々な支援を行っている
NGOへの補助も、ODAとは別な形の世界貢献になるだろう。

特別減税を廃止し、配偶者特別控除枠も縮小し、
医療費の本人負担を増やすだけでなく、老人保険の特別枠も取っぱらい、
老齢年金支給開始年令を引き上げ、地方交付税をカットし、
そんなこんなで無理矢理作り上げたお金が
米軍の基地移転費用に飛んでいく。
国民には何の具体的な説明もなしに。




実際にいじめられたわけでもないのに、臆病な日本くんは
ガキ大将のアメリカくんにいつも守られていた。
でも日本くんが大きくなり、
いじめられる心配がなくなってきたにもかかわらず、
アメリカくんは
「アフガニスタンくんが人を使って攻撃してきたので
 こっちから仕返ししに行く電車賃を出せよ。仲間だろ」
と言ってきたり
「言うことを聞かないイラクくんをとっちめに行くから
 一緒に来いよ。来なきゃ仲間じゃねーぞ」
と言ってくるようになってきた。

一緒にいると窮屈だし、アメリカくんを怖がって友達もできないので、
「ボクから少し離れてくれないかな」
と日本くんが思いきってアメリカくんに言ったら
「じゃ引っ越してやるから、引っ越す金を出せよ」
とアメリカくんはごねはじめ、
一生懸命説明して、何とか半分にしてもらったものの
家族にどう説明しようかと日本くんは困ってしまいましたとさ。
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乗り遅れの春

2006-04-24 | 風屋日記
まずは訂正。
昨日の記事で「母ちゃん初登場」と書いたけど、
以前の記事に登場していたことをka@さんにメールで指摘された。
2度目でしたね、すんません(^^;

さて、今日は雨。
桜の開花も「もうちょい」ってとこでひと休み?
東京で生まれ育ち、縁あってうちの会社の社員となったヤツから
「東京で桜が終わると、もうニュースにならないですね。
 こっちじゃまだこれからなのにね」
と言われた。
「そうそう、台風も東京を通り過ぎるとニュースでは取り上げないよね。
 よほどひどくて、犠牲者でも出れば別だけどね」
と答えたら
「こっちのことでまっ先にニュースになるのは雪ぐらいかな!?」

そうだね・・・(^^;


なお、その彼はすっかり岩手が気に入ってしまい、
小岩井農場のそばに家を建てて、薪ストーブの生活を楽しんでいる。
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地蔵堂での奉納

2006-04-23 | 風屋日記
そして、
例年ならば満開の桜の下での春の奉納神楽も
今年はつぼみの下で。
でも暖かい日だったので、たくさんの人達が集まって、
ともに春の訪れを喜び合うことができた。

開花は明日あたりかな?
GW前半はちょうど満開だな。

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花見?

2006-04-23 | 風屋日記
それでも花巻の桜の名所鳥谷崎公園では
「つぼみ見」のお客がいっぱい。

手前の後ろ姿は、うちの母ちゃん初登場。

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2006-04-23 | 風屋日記
花が開くまであと少し。

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春の日

2006-04-23 | 風屋日記
今日は暖かい、こんな春の一日。
遠くに見えるのは、
賢治さんの作品「なめとこ山」に出て来る西の山々。
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こんな季節だった 2

2006-04-22 | 風屋日記
そしてその頃の私はといえば、
高校でも野球を続けようか迷いながら高校の門をくぐっていた。
対面式の日、どこからか調べてきた野球部の先輩達に囲まれ、
その場は「考えてみます」とだけ答えたものの
中学時代に忙しかった部活のせいでできなかった
読書やバンドにもかなり興味があったのだ。
そんな時、歌詞指導と応援歌練習が始まった。

初日の応援歌練習が終り、春休み中に予習していた私も
「これは真剣に覚えないとかなりヤバいぞ」という気になっていた。
帰りがけ、昇降口のすぐ隣にあった音楽室の扉をふと見ると
「応援歌教えます」の貼り紙が。
声楽部による応援歌練習対策指導だった。
テンパっていた私は当然その扉を開いてみることになる。

声楽部の部員は2・3年合わせて4・5人だったろうか。
細々と活動を続けていたらしい。
私は結局、数日間通って指導を受けることになった。
その先輩達の中に見覚えのある顔が・・・。
数年前から岩手県内ではFMラジオなどを通して有名だった
花巻市内のアマチュアフォークグループ「アマリリス」。
そのメンバーのひとりのSさんだった。

アマリリスといえば、同じ花巻ということもあり
またメンバーはほとんど中学時代の先輩ということもあって
われわれ音楽好きにとっては憧れの的。
そのSさんが目の前で応援歌を教えてくれているのだ。

応援歌を完全に覚えてしまった後も
私はその後しばらく放課後の音楽室に通うことになる。
そんなある日、Sさんから「声楽部に来ないか?」と誘われた。
・・・断る理由なんかない。Sさんからのお誘いだし(笑)
そんなことで私は野球部から声楽部へと華麗な転身を図ることになる。

2・3年生の部員は数名しかいない。
ここ一発男気を見せなければならないとばかり、
私は中学時代からの友人たちや、新たに知り合ったヤツらに声をかけた。
自ら入ってきた部員も合わせ、何と1年生だけで30名。
合唱なんて柄じゃないヤツも含め、未経験者が多数派となったが、
それでも先輩達は大歓迎してくれた。

運良く、当時の顧問の先生も
県内の合唱界では重鎮であった岩手大教授の弟さん。
人数が揃い、そのアツい指導にも熱が入った。
ターゲットは5月にあるNHKコンクール。
基本的に体育会のノリの我々はかなり気合が入った。

県南大会をクリアし県大会へ。
合唱の世界についてはまったく知識がなかったためもあろうが
われわれは負ける気がしなかった。
ピシッとした制服姿の強豪校に混じって
われわれは堂々と(笑)裸足で腰に手拭いを下げてステージに上がった。
結果は優秀校。
東北大会へ出られる最優秀賞こそ逃したものの
当時のわが校にとっては画期的な結果だったはずだ。

なーんて、
体育会系のノリとバンカラ姿でNHK音楽コンクールに臨んだ
30年前の、今日はオチもない思い出話。

※なお、当時Sさんとともにアマリリスの主要メンバーだったのが
 いま大地座で一緒にバンド活動をしているshishiさんです。
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こんな季節だった

2006-04-21 | 風屋日記
何度か書いたように、私の母校はバンカラ高。
入学した後の最大関門は応援歌練習と歌詞指導だった。
それは卒業して30年経った今でも同級生達の話題となる。

最近はコワくて学校へ来れなくなる新入生もいるとかで(^^;
学校にも慣れたGW明けにそれらを行うようになったらしいが、
私の頃は入学式翌日が対面式と応援団入団式。
そしてその翌日から何の前触れもなく始まったものだ。

応援団入団式は大騒ぎする上級生達の前で
新入生達がひとりひとり壇に登って挨拶する儀式。
事前知識のないヤツは入団式で初めて応援歌を聞くことになる。
そしてその翌日・・・

早速始まる授業も4時間めが終了。
先生は意味ありげな視線を残して教室を出ていく。
「ねぇ、どこ中出身?」などと三々五々弁当を広げようとすると
ドスドスドス、ガラッ!! バンッ!! バシッ!!
「全員、席について目ぇつぶれぇーっ!!」
教壇上にはボロボロの学生服で竹刀を持った応援団幹部の姿。
教室内はみんなのドキドキが聞こえる程の静寂に包まれる。
震えているヤツの机がどこかでカタカタ鳴っている。

「全員、起立っ!! 校歌っ!!」
みんな初めてだ。揃って歌える訳がない。
「やめぇーいっ!! なんだぁ!? その歌は」
その瞬間から地獄の歌詞指導が始まった。

かくして新入生達は、入学後4日目にして早弁を覚える。
2時間めが終わるとソッコーで弁当を食い、
昼休みを目一杯使って行われる歌詞指導に備えるのだ。
クラス全員で歌わされるのは最初だけ。
あとはひとりひとり歌うことになるか、歌詞を諳んじることになるか。
いずれにせよ怒号と竹刀で机を叩く音に包まれる1時間を
新入生は耐えることになる。

放課後は暗くなるまで校庭の隅で応援歌練習。
先生方も心得たもので、この時期にはまだ課題は出さない。
帰宅後も翌日に備えて応援歌の歌詞を覚えるのに必死だからだ。

いつ果てるともなく続く暗黒の日々は2週間ぐらいだったろうか。
とうとう最終日がやってくる。
その日の歌詞指導はいつもと様子が違った。
「全員、起立っ!! 心を込めて校歌斉唱っ!!」
歌う・・・「だめっ!!もう一回!!」歌う・・・



「よし、座れ」
クラス担当幹部のいつになく静かな声。
「一人前の花高生を育てるのが俺の仕事。
 お前らに黒橋魂を叩き込むという責任を果たせるのか、
 俺自身も伝統というプレッシャーと戦っていた。
 だが、今のお前らの歌を聞いて安心した。
 もうお前らは立派な花高生だ。
 永遠にこの精神を伝えることをお前らに託すことにする。
 来年、これで安心して俺も卒業できる。
 今日までつきあってくれてありがとう」
気がつくとクラス全員が感動で泣いていた。

その日の応援歌練習もみんなで校歌を斉唱して終わり。
その後応援団幹部10人と1年生みんなが草地で車座になり
コンパと称する懇談会が開かれた。
応援団幹部たちは昨日までの鬼のような表情ではなく、
優しい、そしていかにもまじめそうな先輩の顔になっていた。
聞いてみると、幹部はみんな成績も上位者ばかりとのこと。
同級生達にも一目置かれる人間じゃないと応援団幹部になれない
ということも後から知った。
生徒会役員よりもっとシビアな選挙で選ばれる人間なのだ。

コンパが終わると、夕闇の中を
昨日まで練習していた逍遥歌を歌いながらみんなで校舎へ帰った。
気がつくと、学校が建っている桜雲台と呼ばれていた丘全体が
いつの間にか満開の桜で飾られる季節となっていた。


これは30年前の思い出だが、
3年前の長男、去年の次男も、ほぼ同じ体験をしたはずだ。
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触れ合い・交流

2006-04-20 | 風屋日記
昨日の通勤時のラジオでだったと思うけど
世界中の子ども達がお互いに知り合い、交流することを目的とした
NGO「パンゲア」という団体の存在を知った。
9.11のテロを偶然免れた方が、
こういう争いごとをなくすためにはお互い理解しあうことが大事
と設立したものだという。
その主旨には心から全面的に賛同。

以前NHKで見たのだが、確か浜松辺りのことだったかな?
イスラエルとパレスチナの青少年達を10名ずつ日本へと招き、
それぞれ1人ずつ2人1組で日本の家庭にホームステイさせる試みがあった。
お互いに傷つけあっている民族同士でもあり
最初は口すら利かなかったんだとか。
そりゃそうだよねぇ、家族や親戚、友人が殺されているんだもんねぇ。
でもホストファミリーの力もあり、日が経つにつれて
お互いにポツリポツリと話し始めるようになり、
ある時期を越えると泣きながら自分の思いを吐き出すようになるのだとか。
そうなってしまえばもう友達。
自分のことだけではなく相手の痛みも知ることができるし、
相手のことを気遣えるようにもなる。
帰国時「国同士が仲良くなれるよう自分にできることを考えたい」
と口々に言い、帰国後の再会を誓いあって帰ったという。
これまたとても素晴らしい取り組みだ。

どちらもカタツムリの歩みのような地道な活動であり、
すぐには効果は表れないのかも知れない。
でも子ども達、青少年達が大人になるにつれ、
じわりじわりとその意識が拡がっていくだろう。
私の息子達やその神楽仲間達が経験したアジア子ども文化祭(ACCF)
それが目的のひとつだと考えている。
生活環境改善や教育支援などもNGOとして大切な活動だが、
私は「お互いに触れ合い・交流し・理解し合い・認め合う」活動がしたい。
出会った時の子ども達の目の輝きとその後できる強い絆は
何ものにも代えがたいものだと思うから。

NGO「パンゲア」の活動はネットを通じて行う分、
直接触れ合うことはできない。
でもまず知り合うことが大事なのだから、第1歩と考えれば良い。
その活動を通じて他国、他文化、他民族に興味を持ってくれる子ども達が
次々に出てきてくれることを願って止まない。
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天然芝が似合う男

2006-04-19 | 風屋日記
1985年の阪神タイガースの優勝をはさみ、
長いこと4番サードの座を守っていた掛布が衰え、引退。
それとともにタイガースの凋落が始まったように思う。
そんな時、カモシカのような初々しさで彼が登場してきた。

それまでのサードベースマンにはいないタイプの
長い手足で俊足、強肩。
細みの体で目一杯のフルスイング。
ボディーバランスの良さはTVを通して見ても充分わかる。
確か1軍デビューは派手なホームランだったような気がする。
そしてお立ち台で見せた笑顔の真っ白い歯。
新しい時代のヒーローの誕生だった。

阪神ファンは総じて彼に夢中になった。
皆のアイドルだった。
残念ながらどう考えても内野手のスローイングではなかったので、
サードやショートを経たあとにセンターへ。
それまでのバッターヒーローと言えばサードやファーストが多く、
どちらかといえば外野手は地味な存在だったが
彼の場合はこれがまた絵になった。
猫科の動物が走るような柔らかく俊敏な動き、
そしてバックホーム時のレーザービーム。
かくして、恐らく史上初めてのアイドル外野手が誕生した。
外野の守備で観客を魅了したのはイチローより早かったのだ。

彼の不幸は阪神タイガースの泥沼期のメンバーだったこと。
普通の若手なら7番あたりの気楽な打順から育っていく。
そうでなくともどう考えても1番か3番タイプ。
しかし当時のタイガースは打てなかった。
ヒーローもいなかった。
トレードで取得した選手に翌年FAで逃げられたり、
せっかく呼んできた大物助っ人が途中帰国したりと、
かなりみっともない場面も多々あった。
球団は新しいヒーローを急に持ち上げ、戦力としても重宝した。
その結果彼は若くして4番を打ち、チームの成績の責任を背負う立場に。

伸び伸び自由に自己表現したいタイプの選手にとって
そういう立場は重すぎる・・・というよりミスキャスト。
何人かの監督の下で苦悩の表情を浮かべながらプレーし、
とうとうメジャーへと去っていった。

彼の名は新庄剛志。
爽やかな笑顔と観客を楽しませるパフォーマンスで人気だが、
そういう彼というキャラを生かせる立場にようやく立つことができて3年。
あっという間の引退宣言だ。
「いかにも彼らしいパフォーマンス」と受け取る方も多いだろうが
彼としては精一杯の自己表現だろう。
彼は彼なりに苦労してきたし、今も左足の故障を抱えて
ファンが求める「Shinjoのプレー」ができなくなったことを自覚し
考え抜いた結果の宣言だと思う。

デビュー時から彼のキャラクターを生かすことができれば
もしかしたら今のようなピエロ的な立場に立たなくてもよかったかも。
もしかしたら歴代プロ野球選手の中でも最も優れた素質だったのではないか
とまで言われた能力を、はたして彼は生かしきることができたのだろうか。
何しろ入団当時の首脳陣は
バッターとして育てるか、ピッチャーとして育てるか悩んだという程の選手。
にもかかわらず、記録的には平凡な成績に終わってしまうのだから。
それが残念でならない。

彼がまだデビューしたてだったころのスポーツ雑誌ナンバーを持っている。
新庄がグラビア特集だったやつだ。
甲子園の緑の天然芝の上で、伸びやかなカモシカは笑顔を見せていた。
土の匂いを嗅ぎ、芝の感触を楽しみ、
彼は走り、転げ、生き生きと動き回っていた。
私にとって、新庄剛志という選手はいつまでもそんなイメージなのだ。
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