やァ参った。
普段いい気になって駄文を撒き散らしている自分としては
久しぶりにこんな漢文調の名文を目にすると
矢鱈恥ずかしくなってくる。
「わたくしは下谷浅草の方面へ出掛ける時には
必ず思出して公園に入り池の縁に杖を曳く」
「つまり彼は真白だと称する壁の上に汚い種々な汚点を見出すよりも
投捨てられた襤褸の片にも美しい縫取りの残りを発見して喜ぶのだ。
正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちていると同じく
悪徳の谷間には美しい人情の花と香ばしい涙の果実が
却って沢山に摘み集められる」
うーむ美しい。
そしてこんな文章を読んで仕舞うとすぐ影響されている自分に嗤う(笑)
舞台は当時の向島区玉ノ井(現代の墨田区東向島)。
また旧玉ノ井辺りを散策したくなってきた。
ところでこの作品が書かれたのは昭和11年。
その年代の「現在」を面白く感じたのは2点。
まず、当たり前のことだが
「先の震災に・・・」「震災前には・・・」「震災後は・・・」
関東大震災がほんの10年ちょっと前のことであり、
壊滅的な打撃を受けた東京の町の復興ぶり、変化などを書いていたり
「明治33~4年頃には・・・」「明治に育ったものとして・・・」
明治時代が近い(笑)
ちなみに今年は明治144年かな?
明治は45年の7月までだからカウントしないこととすると
明治44年生まれは今年100歳になっているはず。
間もなく明治生まれはこの世から姿を消す。
もうひとつの興味は昭和11年当時の風俗。
銀座線工事が急ピッチで進み、
市電(今の都電)やバスが交通手段として確立し、
繁華街には円タクが流しているという近代東京の姿がそこにあった。
電車は日付が変わる頃まで走り、人々は夜更け過ぎまで飲み歩き、
夜中の12時ともなると終電に急ぐ人や客待ちの円タクで混雑・・・
今と変わらないじゃないか。
(ただし荷風先生はこの風潮を「震災後の新風潮」と嘆いている)
本書に併載されている「作後贅言」にあった1文が目を引いた。
「(今の東京の風潮について)この現象には現代特有の特徴があります。
それは個人めいめいに、他人よりも優れているという事を人にも思わせ、
また自分でもそう信じたいと思っている・・・その心持ちです。
優越を感じたいと思っている欲望です。
明治時代に成長したわたくしにはこの心持ちがない。
あったところで非常にすくないのです。
これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ」
それこそ平成の現代と同じじゃないか。
最近の一部の若者達のいうような
「戦後の民主主義教育が個人主義を産み、社会が崩壊しつつある。
戦前の教育に戻らなければダメだ」
というのは事実・歴史誤認であることがよくわかる。
日本人(だけではないが)は近代~現代への流れとともに
そして文明、文化、生活の「進歩」「改善」とともに
その倫理や理念、哲学がそのスピードについていけず、
変遷しつつあるのだ。
「濹東綺譚」永井荷風 著 角川文庫
※タイトルの書体では「濹」の字が出て来ないので代わりに「墨」を使った。