風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

壁と卵

2009-02-20 | 風屋日記
 「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵」を思い浮かべた時、
 「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、
  私は卵の側に立つ」
 「壁は私たちを守ってくれると思われるが、私たちを殺し、
  また他人を冷淡に効率よく殺す理由にもなる」
エルサレム賞を受賞した作家村上春樹さんの受賞スピーチの一部だ。
村上さんが同賞を受賞し、スピーチしたことについて
酔流亭さんはじめ様々な意見があることについて承知している。
曰く「イスラエルによるガザ攻撃に抗議するため辞退すべきだった」
「受賞してからイスラエルを戒めるスピーチというのはいかがか」
「自分だけ表彰を受け、何を言っても他人事じゃないか」
「『壁が正しく、卵が悪くても』とは何事だ」云々・・・

私の意見を言おう。
熟慮した結果だと言う村上さんの行動は正しかったと思う。
ガザ攻撃について考える論点は2つあると思うのだが
巷の意見はその2つをごっちゃにしてしまっていると思うのだ。

まず第一に暴力の問題。
これに関してはイスラエルは責められて当然。
というより国際社会全体が猛然と糾弾すべきことだと思う。
もちろんハマスのロケット弾攻撃も同じだ。
”いかなる理由があろうと” 私も暴力を許すことができない。

もうひとつは「正義はどこにあるか」という問題。
わかりにくければ「どっちの主張が正しいのか」ということだ。
これは誰にも答えることはできない。
かつてのヨーロッパ各国の植民地政策もそうだが、
それより昔、それこそ有史前からの様々な感情が行き交い、
それぞれの信仰が絡み合って今の中東を形作っている。
そんな中で遠く離れた机上で「どっちの言い分が正しいか」なんて
討論し合うのはナンセンスだ。

村上さんの行動は後者の考え方を基本とし、
まずはイスラエルにわたったのだと私は思う。
この賞がパレスチナの賞だったとしても行っただろう。
スピーチにあった「○○が正しく、○○が悪くても」というのは
どっちに壁が入っても、卵が入っても同じ意味だ。
(ってか、もし悪いのが卵だったらその後の言葉が続かないけどね。
 そうなるとまるで日本語じゃない ^^;)
彼が言いたかったのはその文章の前段ではなくて
「卵の側に立つ」という講談であることはどう読んでも明らかだ。
彼は暴力のみを糾弾しているし、
それはとてもニュートラルで正しい姿勢だと思う。
そしてその主張は
イスラエルから遠く離れた地からのメッセージではなく
彼の地の国民の中に入ってのメッセージでなくてはならない。
敢えてイスラエルの人々の囲まれながら村上さんは主張したのだ。

願わくは彼の国のジャーナリズムが
「ムラカミ特有の何だかわからない表現」などと言わず
メッセージの本質を国内に伝えて欲しいと思う。
「壁」はイスラエルとパレスチナの間にだけ存在するものじゃない。
かつては彼の国の人々も「壁」に囲まれていた筈だ。


※ところで、ちょいと仕事で突発的なことがありドタバタしてます。
 明日の東京行きもキャンセルになる可能性も多分にあります(^^;
 (四季のチケットはキャンセルできない方法で買ったので
  母ちゃん一人で行くことにして、1枚ムダにするかも T_T)
 もちろん日曜も引き続きなので、
 久しぶりに風屋日記を数日お休みすることになるかも知れません。
 悪しからず、ご了承下さい。
コメント (4)
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