風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

1枚、また1枚

2021-08-31 | 風屋日記
芽が出て花が咲く 春から夏へ
道ゆく人たちは涼しげに
1枚、また1枚 服を脱いでいく
軽やかに 1枚、また1枚
体は軽くなるけれど 背負うものは増えてゆく
1枚、また1枚

花が散って実がなる 夏から秋へ
ひんやりする風を避けて
1枚、また1枚 服を重ねいく
ゆっくりと 1枚、また1枚
服は重くなるけれど 背負うものは減ってゆく

1枚、また1枚 道端に荷物を下ろし
1歩、また1歩 足を踏み締める

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校クラスターの心配

2021-08-30 | 社会

北国の夏休みは短い。
岩手県内もお盆過ぎの8/20前後には終わり、
もう2学期に入っている。
お盆には家族や親戚が集まる機会が多いし
中には遠くから帰省してくる人もいるだろう。
そんなこともあってか、
2学期が始まって数日経った
先週あたりから県内の新規感染者発表に
学校関連クラスターが散見される。
もう少しこの傾向が続くのではなかろうか。

全国的には夏休みは8月いっぱい?
緊急事態宣言地域においても
一斉の休校は無いと聞いているのだが
比較的感染者が少ない岩手ですら
学校クラスターが起きている状況の中
都市部においては更に大変な状況が予想される。
まして関東圏ではパラリンピック観戦校もあるらしい。
2学期が始まった途端に
都市部各地で学校クラスターが発生すれば
もう歯止めが効かなくなるのではないだろうか。

新型コロナウイルスの潜伏期間は1週間から10日?
となるとクラスターが顕著になるのは
9月7日から12日ごろかな?
自民党総裁選直前のタイミングが
もしかしたら政局に大きな影響を与えるのではないか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「明治維新という過ち」

2021-08-29 | 読書

以前読んだ本の再読。


ミャンマーや香港、アフガニスタンにタイ・・・
暴力によってクーデターがあった国は世界中で今も多い。
かつて日本でもそれはあった。
果たして戊辰戦争は必要なことだったのだろうか。
無用の殺生(しかも直視できないような無残な)だったのは
どうしてもしなければならなかったものなのか?
徳川宗家も、土佐の山内容堂も、越前の松平春獄も、
新しい世を作ろうとしていたし
そのベクトルは薩長による明治の社会と変わらない。
単なる主導権争いのためにわざわざ戦を仕掛け
多くの血を流した新政府軍。
たぶん日本の近代化はあのやり方で大きく遠回りした。
本書を読んで、大河ドラマ「青天を衝け」を見ると
いろいろ思うところが出てくる。

ところで話は大きく変わるが、
私は靖国神社を祈りの施設としては認めない。
それはよく言われるような、第二次大戦時の戦犯合祀のせいじゃない。
戦犯基準は戦の結果によってどうにでも変わるし
無差別攻撃を仕掛けて婿の人間をたくさん殺したアメリカもまた
糾弾されるべき存在だと思うので。
それよりも靖国神社の成り立ちに対して疑念があるためだ。
元々は戊辰戦争における新政府軍(薩長土肥による、本当なら反乱軍)の
犠牲者たち(だけ)を祀った施設。
一方、同じように国を想って(仕掛けられて仕方なく)戦った佐幕側は
犠牲者を葬ることすら許さず野に朽ちさせた。
白虎隊の少年たちの遺体は野犬に持ち去られたらしい。
遺体の服を脱がせ、陰茎を切り取って口にくわえさせたり、
女と見れば手当たり次第に凌辱(中には8歳の子も)したりという
「新政府軍」の、およそ武士道や魂への畏敬の念が全く感じられない
そんな輩だけが神様として祀られているというのはいかがなものか。
そんな思いも本書で認識を新たにした。

「明治維新という過ち」原田伊織:著 毎日ワンズ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「風立ちぬ」

2021-08-28 | 映画・芝居・TV

この作品がジブリアニメの中で一番好きなのは
中学生の頃に堀辰雄の「風立ちぬ」「聖家族」を読み、
その世界に憧れていたこともあるし、
ささやかな幸せ、慎ましくも真剣な生への渇望、
そして飛行機を作るという大好きな仕事に没頭することが
そのまま優柔な武器を作ることになってしまうという矛盾など
生身の人間のリアルが描かれているから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょっと昔の花巻 写真散歩

2021-08-27 | 散歩
10年〜30年前の花巻のまちの写真を知人からお借りし
先々の資料のためにスキャンしてデータ化した。
個人的にも思い入れのあるほんの一部の写真を勝手にUP(^^;
今はすっかり変わってしまったものの
馴染みのある花巻のまちの姿がここにある。


花巻デパートの屋上(?)から見たかつての上町商店街。
賑やかだったころが窺い知れる。
今は時間限定で路駐できるようになっているが
このころはそうなっていなくてもたくさんの車が路駐中。
それだけ周囲の目もゆるかったのだ。
恐らく1980年代の写真じゃないかなと思われる。
ワタシが20代のころ。


若い人にはどこの写真かわからないと思うが
実はここは市役所からマルカンへ向かう館坂の風景。
かつてはこんなにも道路が狭く、家々が立ち並んでいた。
今はこの2倍ほどの広い道路となり、
右側には大きなマンションが建っている。


これは昔の税務署の写真。
今はマンション向かいの駐車場となっているところ。
当時は駐車場を広くとってある施設は少なかった。


この古い木造長屋はつい最近まであったので
若い世代も覚えている人が多いだろう。
市役所の北側で、ついこの前まで工事をしていて
今は道路が広くなり建物は少ない。
長屋の一角に有名な菱川お菓子屋さんがあった。


こちらは鍛治町。
渡辺商店やFURUKUMAさんはまだあるが、
その間に宮弥書店があった。
明るい雰囲気だった上町の誠山房や吹張町の芳文堂とは違い薄暗く、
こっそり大人の本を立ち読みする本屋として知られていた。

ここから先は、今はもうない同級生の家。


マルカン向かいの井形酒店。
今は1階にローソンが入っている復興支援住宅だ。
戦前からの建物で、蔵の壁に空襲時の火災の跡が残っていた。
ここの主人だった同級生は我々の神輿の幹部だったので
花巻まつりの時は毎晩神輿の打ち上げがここだった。
蔵の前の駐車場にブルーシートを敷き
売るほどある(笑)焼酎を大量消費したものだ。
メインストリートが真ん前なので
神輿の出番が終わった後は飲みながらよく山車を眺めた。
建物とともに、彼ももういない。


鍛治町の、正式には高喜電器?高喜楽器?
ギターなんかも扱っていたよねぇ。
店頭のビクターの犬の置き物が目印だった。
ここも老舗で、宮沢賢治が花巻農学校教員だった時代、
通勤途上にあるこの店でレコードを何度も買い、
発売元のビクターが田舎の店でそれだけ売れていることに驚き
様子を見にきたという逸話が残っている。
この同級生の家には、特に高校時代何度か遊びに行った。
実はその同級生が
今は花巻まち散歩マガジンMachicocoのカメラマン。
屋号を受け継ぎ、高喜写真事務所を名乗っている。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喫茶yae麩りん

2021-08-26 | 食べ物・お店

この春までコーヒーメーカーに勤め、
定年退職して帰京した中学高校時代の同級生が
実家を改装して喫茶店を開いた。
おしゃれなカフェではなく「喫茶店」ってとこが良いね。
応援も兼ねてちょくちょく顔を出している。

本職だったコーヒーのクオリティはもちろんのこと
ランチのビーフカレーも、5食限定の日替わりランチも
すべて自分で作っているとのこと。



この日の日替わりランチは唐揚げ。
酢豚に見えるのは、肉の代わりに麩が入っている。
店名にもなってるけど、おじいさんが焼き麩屋さんだったから。
さすが全国を転勤して歩き、自炊経験豊富な彼。
かき氷やスイーツ類などのメニューも喫茶店っぽく。


ケーキセットはこんな感じでゴージャス(^^)

同い歳だからこそのBGMの選曲も懐かしくてツボだったり、
昔話ができたりと、個人的にはなかなか居心地がいい。
実家だから家賃かからないし、
ひとりで切り盛りしてるから人件費もかからない。
オープンから間もないので、まだまだ緊張の営業だけど
慣れてくれば良い雰囲気になる気がする。
こんな人生もいいなぁ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お盆の話 続き2

2021-08-25 | 風屋日記
ちょっと間が空いちゃったけど(^^;
亡父たちが家族同然だったという父方祖母の従兄弟の話。

父方曽祖母は盛岡市上田に住んでいた盛岡の士族出身。
住宅地図を見ると、今も曽祖母の旧姓を名乗る家が数軒あるから
たぶん遠い親戚なのではないかと思う。
その関係で、私も数年前まで本籍は盛岡市上田だった。

曽祖母は長じてNと結婚し、夫婦でOという家に養子に入った。
Nとの間に3人の子を持ったあと(その中のひとりが祖母)、
離婚してOから籍を抜き、子ども達を連れてYと再婚。
そこでもまた子どもを何人か持った。
一番上の子だった祖母は私の祖父と結婚して家を出た。
3番目の娘は大学在学中に早世。
2番目が馬太郎という男の子で、籍を抜いたOの名字を継ぐこととなった。
北海道の土地を払い下げしてもらって養父の財産にするなど
なかなかのやり手だったと聞く。

馬太郎は結婚し、源太郎という男の子をもうけるが、
源太郎3歳の時に病没し、母親は源太郎を置いて東京の実家に帰ってしまった。
幼い源太郎は祖母(私の曽祖母)の家で育つこととなった。
Y家では義理の家族ながらとても可愛がり、大切に育てたらしいが
幼くして両親を亡くした源太郎を花巻に住む伯母(私の祖母)も哀れに思い
源太郎と同い歳の自分の四男(私の伯父)と兄弟のように接した由。
「了ちゃんと源ちゃんお揃いの着物を作ったよ」とか
「夏休みは花巻に遊びにおいで」とか。
祖母と馬太郎には父親が違う兄弟もY家にいたが
やはり同じ両親の元で生まれ、一緒に連れ子となった2人は絆で結ばれ
馬太郎亡き後、祖母は甥を大切に思っていたのだろう。
長じて源太郎はY家の商売をら手伝うこととなり、
なかなかの才覚を発揮することとなる。
昭和50年代に天寿をまっとうした。

そんなこともあり
私の祖父母が大正12年に伯父の墓を建てる時には
源太郎が家長を務めるO家の墓がある正傳寺に決めたと思われる。
源太郎の娘さんたちや私たちの世代となった最近は
O家ともあまり行き来しなくなったが
私だけは今も年賀状のやりとりなど続けている。
次の代になればどうなるかわからないが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホテル花城 閉店

2021-08-24 | 社会


コロナ禍の影響がここにも。
温泉ホテルがたくさんある花巻において
市街地では貴重なバンケットを受けられるホテルだった。
実はもう1軒の市街地でのバンケットを受けられるホテルの
グランシェール花巻も経営が変わっている。
老朽化もあったろうが、厳しい時代だ。

個人的にはいろんな思い出がある場所。
パーティーや、冠婚葬祭、会議に講演などなど。
でも特に思い出に残っているのは大学時代と結婚前、
そして結婚直前のさまざま。
忘れられない出来事の舞台がここだった。
そういう意味でも感慨深い。
お疲れ様でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新聞連載小説

2021-08-23 | 読書
最近、新聞の連載小説を読んでいる。
毎日読む新聞は朝日新聞と岩手日報だが
どちらもなかなか面白い。

岩手日報の方は
作家買いするほどファンの村山由佳さんによる「星屑」。
スター歌手を目指す少女の話で、実際にありそうなストーリーだ。
今過去の秘密が明るみに出てきたところで、たぶん佳境。
毎日の新聞が待ち遠しい。

朝日新聞の方は池澤夏樹さんの「また会う日まで」。
戦時中の話で、海軍の事務方にいる将校たちが主人公だ。
先日掲載された一節に、ちょっと引っかかる部分があった。


「国民は何かおかしいと思いながらも
 勝ったと言われると喜ぶ」

まるでコロナ禍のオリンピックじゃないか。
キリスト者を取り上げていたりして、
今まで読んだことのある戦時ものとは視点が違う。
表面的だけじゃない当時の雰囲気もよくわかって面白い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今できること

2021-08-22 | 社会
医学的知識がないので
新型コロナウイルスに対してワクチンがどう効くのか
その仕組みは説明を聞いてもよくわからない。
接種したにも関わらずブレークスルー感染があるし、
ワクチンによる抗体がどの程度効果が続くのかもわからない。
インフルエンザの例を見ても
ワクチンだけで元の生活が完全に戻るとも思えない。
たぶんタミフルのような特効薬ができない限り無理だろう。

でもね、飲食店や宿泊業、観光業、小売業、エンタメ業界を中心に、
このままでは日本経済や文化が崩壊してしまう。
そして影響はそれら特定の業界だけにとどまるわけではない。
飲食店や宿泊施設へ食材の納入する業者、農業、漁業。
観光業を支える交通関係や小売店へ商品を納入する卸業、製造業。
エンタメを支えるメディアや劇場、制作スタッフまどなど。
GDPや株価などのマクロ経済数値では測れない傷が拡がっている。
この状況を、ほんの少しでもなんとかしなければ。
そのために、今打てる策はワクチンしかない。

ワクチンの効果は7割とも9割とも言われるが
仮にそれが1割しか無かったとしても、
1日の全国の新規感染者2万人のうち2千人に効果がある。
大阪府の1日の新規感染者がほぼいなくなるなる割合だ。
たったそれだけでも大きな効果。
喧伝されるように7割の効果が出るなら新規感染者2万人が6千人に。
9割なら2千人になる。
前述のように、おそらくその効果は一時的なものだろうが
それでもただ手をこまねいているよりはいい。
そのうちに特効薬が出始めるだろう。

副反応が怖いという声も聞く。
病気になると熱が出るが、
それは体内の免疫機能が炎症という形で病原体と闘っている証拠。
ワクチンも体内に免疫機能ができる過程で熱が出るのだから
それが体調不良につながったわけではない。
逆にワクチンがうまく効いている証拠だろう。
頭痛も然り。
腕が痛いのは、筋肉注射だから仕方ない。
インフルエンザのワクチンも同じだ。
もし腕や肩が痛いのが嫌なら、子どものようにお尻に打てばいい。
(子どもの頃、大人は肩に注射だから早くそうなりたいと思っていた)
私の父は肺の病気で、最後は肺炎で亡くなった。
その時の父の苦しみ方を考えれば
発熱や頭痛や痛みなんざどうってことない。


とにかく、このままではいけない。
今できることを。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晩夏

2021-08-21 | 音楽

荒井由美としては最後の曲。
独身最後のアルバム「14番目の月」のラストナンバーになっている。
大好きな歌だし、今の季節にぴったりだ。
過去はもう過去でしかなく、今夕暮れに佇む。

私ももう人生の晩夏(ってか晩秋か?😅)。
静かに曲に耳を傾けよう。
今日で61歳。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メガネ

2021-08-20 | 生活の風景
40代までは両眼とも2.0。
もしかしたら、視力検査の表がそれ以上あったら
2.0以上あったのかもと思うほど視力には自信があった。
さすがに40代半ば過ぎから本や新聞を遠く離して読むようになり、
50歳も近くなってリーディンググラスが手放せなくなった。

50歳で東京に赴任。
通勤の行き帰り、電車の中で本を読むのが日課となり、
いちいちリーディンググラスをつけたり仕舞ったりが面倒に。
常にかけたままでいられるように、下部だけ遠視レンズとなっている
伊達メガネを買おうと、生まれて初めてメガネ屋さんに。
視力を測ってみてびっくり。
遠視はともかく、視力が0.8〜1.0で乱視も入っているという。
老眼よりも、そちらの方がショックだった。
視力の良さがある意味アイデンティティだったのに。

で、結局50歳から遠近両用メガネをかけることと相なった。
それからはずーっとメガネ生活。


一番下が最初に買ったメガネ。
とにかく目立たないものを選んだ。
2年ほどして買い替えたのが真ん中のメガネ。
その頃毎日頭痛に悩まされており、
もしかしたら眼鏡が合わないのかもというのと
少し遊び心が欲しかったので、黒いセルフレームに。
スカイツリー下のソラマチにあるZOFFで安く買ったもの。

安かったからなのか、セルフレームのウイークポイントなのか
3年ぐらいでフレームが曲がってきた。
直そうと手で曲げているうちにポキッと折れてしまった。
瞬間接着剤でくっつけて誤魔化し
数日使ってから新たに買ったのが一番上のもの。
それなりの高いものを買ったためか、これが一番長く使えた。
ここ5〜6年に知り合った方々は
私の顔といえばこのメガネをかけているイメージが強いだろう。
ところが、ここ数ヶ月ズレが気になってきた。
かけていてもすぐに落ちてくる。
買った店で調整してもらおうと思いつつ時間が取れなかったが
先日最初に買ったメガネを見つけた。
かけてみると、これまでのものより軽いし、
2年しか使っていなかったからフレームもまだしっかりしている。
ということで3日ほど前からこちらをかけている。
これまでのものとパッと見あまり違いはわからないかな。

ところで、3つのメガネは遠近ともに数値は同じだが
少しずつ微妙にレンズを変えてもらっている。
2番目のものは最初のものより遠視部分を狭くしてもらった。
遠視部分は電車内の読書のためがほとんどであり
いつもの仕事は人と会ったり、会議したりが多かったので。
2番目から3番目に変える時は遠視部分を逆に広くしてもらった。
フリーで編集するようになってから原稿を読んだり、
スマホやPCでデータを確認したりすることが増えたため。
そしてブルーライト対応にもしてもらっている。

近視と遠視の割合は最初のものと変わらないので
ここ数日かけ替えてみても違和感はない。
ブルーライト対応ではないのでPC使用時は疲れるかもだけど
両方持って都度かけ替えれば問題ないだろう。

ってことで、ほんのちょっとだけ見た目のマイナーチェンジ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神社教室

2021-08-19 | 神楽・芸能

北国の夏休みは短い。
ここいらの小学生たちはそろそろ2学期?
ちょっと遅くなっちゃったけど、その夏休み行事について。

例年なら海や山へ出かけたり、キャンプしたり遠出したり
そんな小学生の夏休みの地区行事もコロナ禍で軒並み中止になった。
それではかわいそうだし、何かできることを・・・と
上根子熊野神社の宮司の発案により夏休み神社教室を初めて実施した。

当日は拝殿で神社のこと、参拝のこと、神様のことを説明。
(といっても、難しい神道についてのことではなく、
 地域における神社の存在意義や神楽のことなど)
その後神楽の練習に来ている小学生による三番叟と大人の権現舞鑑賞。
そして境内巡りで石碑の説明や残っている古墳の説明。
最後は境内探検で終了。
一緒に参加した親たちからも概ね好評だったようだ。
こういうイベントで神社を身近に感じてもらえたらいいね。
我々保存会はお手伝い参加だったが、とてもいい取り組みだったと思う。
来年以降も続けたいと宮司も言っているし、
参加した子たちの中から神楽の練習会に参加してくれる子が出てきたら
我々としても一石二鳥(笑)
初めてのことで手探りだったけど、それなりに楽しかったなー。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風音土香

2021-08-18 | 風屋日記
このブログを始めたのは2004年の今日。


ということで、昨日で17年、今日から18年目に入る。
小休止は何度かあるものの、ほぼ毎日更新での17年ということで
確かにそれなりの時間や労力は取られるものの
貴重な文章修行の場になっている。
ここを続けていたおかげで、書く仕事は苦にならないし
割と書くのも早い方だと思う。

プライベートも仕事もここでさまざま吐露しているが、
仕事に絞った形でnoteも書いていて


こちらに統一しようと考えてたりした時期もあった。
今は、そんなに重荷にならない程度に気楽に考え、
このまましばらく続けてみようかと考えているところ。
意外に自分のスキルアップになっていると思っているからね。
野球で言えばフリーバッティングみたいなもの。
練習していれば本番でも結果を出せる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お盆の話の続き

2021-08-17 | 生活の風景

一昨日の日曜日、ふと思い立ってひとりで盛岡へ。
名須川町の曹洞宗正傳寺には私の父方祖父母、伯父たちの墓がある。
本堂の反対側には亡父の従兄弟たちの墓もある。
南大通りの久昌寺には同じく父の従兄弟で、
私自身が大変お世話になり薫陶を受けた方が眠る墓がある。
7〜8年前、まだ盛岡の会社に勤めていた頃は
毎年「盛岡ツアー」と称してお盆には墓参りと家々を訪問していたが
会社を辞め、独立してからは盛岡が縁遠くなってしまい、
とんとご無沙汰だった。
本来祖父母の墓を管理すべき東京に住む従姉妹から
「墓仕舞いをしたい」と昨年連絡をもらっっていたので
今どうなっているのか気にもなっていた。

祖父は明治8年に山口県に生まれた。
物心つく頃の日本は薩長による藩閥政治の真っ只中。
長男ながら郷土の先人たちに続くべく、
青雲の志をいだいて上京した当時の祖父の気持ちはわかる。
法律を学んだらしいが、詳しいことはわからない。
陸軍に入隊し、近衛兵から盛岡連隊に異動して岩手にやってきた。
そこで士族だった祖母と結ばれたようだ。
昔伯父に聞いた話では、近衛兵時代にとある財閥経営者に見込まれ
軍を除隊して秋田の花岡鉱山で管理の仕事をしたとのこと。
伯父たちはそこで生まれているらしい。
明治44年ごろ、今度は花巻の奥地、豊沢にある桂沢金山経営に。
そこで豊沢の集落の人たちに炭焼きを教え、
鉱山を辞めたあと花巻のまちに出てきてその炭の出荷を仕事にした。
亡父はその頃、大正12年に生まれている。

父が2歳の頃、20歳離れた長兄が22歳で結核のため亡くなった。
墓を建てなければならない。
そこであちこち転々としてきた祖父は考えたに違いない。
「これまで同様、自分もこの先どこへ行くかわからないし
 恐らく残った4人の息子たちも同様だろう。
 それなら家族同然に付き合ってきた妻(祖母)の従兄弟の墓がある
 盛岡の正傳寺に墓を建てれば、少なくとも彼らが拝んでくれるだろう」
その時点では、祖父的には花巻は仮の居場所だったのだろう。
なぜ盛岡の父の従兄弟が家族同然だったのかはまた別に記すこととする。
そちらもなかなか心に残る話だ。

かくして正傳寺に、将来的には自分たちも入る墓を建てた。
墓の表書は祖父自身が書いたようだ(写真参照)。
なかなかの達筆で、私の父が入っている花巻の墓にもこの字をもらった。
昭和17年に父の3番目の伯父が結核で亡くなりここへ入った。
昭和20年の大晦日には祖母が、昭和27年には祖父が
平成2年には2番目の伯父の妻の伯母が、
そして平成14年には2番目の伯父がここに入ったのだった。
2番目の伯父が一応本家ということになっているが
なにしろ祖父自身がデラシネ、本家も何もあったものではない。
伯父の娘たちも東京と千葉にそれぞれ住んでいるし
その子たちはすでに花巻や盛岡とは縁もゆかりもなくなっている。

正傳寺の墓には小さい頃から両親に連れられて、
長じてからは、まだ元気だった頃の親父を連れて、
親父が亡くなってからはまだ小さかった息子たちを連れて、
息子たちが大きくなってからは私ひとりで、
毎年お盆には墓参してきた。
何しろ4番目の伯父も横浜で、近くに住んでいるのは我が家のみ。
一番墓参してきたのは父と私だったのだ。
私の場合、父の墓は花巻に別にあるし、盛岡の墓仕舞いも仕方ない。
とはいえ、自分のルーツが消される気がして
ちょっと寂しい気持ちであることもまた確かなこと。
祖父も、まさか末っ子の息子たちが花巻に土着するとは
思ってもいなかったんだろうね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする