一昨日の日曜日、ふと思い立ってひとりで盛岡へ。
名須川町の曹洞宗正傳寺には私の父方祖父母、伯父たちの墓がある。
本堂の反対側には亡父の従兄弟たちの墓もある。
南大通りの久昌寺には同じく父の従兄弟で、
私自身が大変お世話になり薫陶を受けた方が眠る墓がある。
7〜8年前、まだ盛岡の会社に勤めていた頃は
毎年「盛岡ツアー」と称してお盆には墓参りと家々を訪問していたが
会社を辞め、独立してからは盛岡が縁遠くなってしまい、
とんとご無沙汰だった。
本来祖父母の墓を管理すべき東京に住む従姉妹から
「墓仕舞いをしたい」と昨年連絡をもらっっていたので
今どうなっているのか気にもなっていた。
祖父は明治8年に山口県に生まれた。
物心つく頃の日本は薩長による藩閥政治の真っ只中。
長男ながら郷土の先人たちに続くべく、
青雲の志をいだいて上京した当時の祖父の気持ちはわかる。
法律を学んだらしいが、詳しいことはわからない。
陸軍に入隊し、近衛兵から盛岡連隊に異動して岩手にやってきた。
そこで士族だった祖母と結ばれたようだ。
昔伯父に聞いた話では、近衛兵時代にとある財閥経営者に見込まれ
軍を除隊して秋田の花岡鉱山で管理の仕事をしたとのこと。
伯父たちはそこで生まれているらしい。
明治44年ごろ、今度は花巻の奥地、豊沢にある桂沢金山経営に。
そこで豊沢の集落の人たちに炭焼きを教え、
鉱山を辞めたあと花巻のまちに出てきてその炭の出荷を仕事にした。
亡父はその頃、大正12年に生まれている。
父が2歳の頃、20歳離れた長兄が22歳で結核のため亡くなった。
墓を建てなければならない。
そこであちこち転々としてきた祖父は考えたに違いない。
「これまで同様、自分もこの先どこへ行くかわからないし
恐らく残った4人の息子たちも同様だろう。
それなら家族同然に付き合ってきた妻(祖母)の従兄弟の墓がある
盛岡の正傳寺に墓を建てれば、少なくとも彼らが拝んでくれるだろう」
その時点では、祖父的には花巻は仮の居場所だったのだろう。
なぜ盛岡の父の従兄弟が家族同然だったのかはまた別に記すこととする。
そちらもなかなか心に残る話だ。
かくして正傳寺に、将来的には自分たちも入る墓を建てた。
墓の表書は祖父自身が書いたようだ(写真参照)。
なかなかの達筆で、私の父が入っている花巻の墓にもこの字をもらった。
昭和17年に父の3番目の伯父が結核で亡くなりここへ入った。
昭和20年の大晦日には祖母が、昭和27年には祖父が
平成2年には2番目の伯父の妻の伯母が、
そして平成14年には2番目の伯父がここに入ったのだった。
2番目の伯父が一応本家ということになっているが
なにしろ祖父自身がデラシネ、本家も何もあったものではない。
伯父の娘たちも東京と千葉にそれぞれ住んでいるし
その子たちはすでに花巻や盛岡とは縁もゆかりもなくなっている。
正傳寺の墓には小さい頃から両親に連れられて、
長じてからは、まだ元気だった頃の親父を連れて、
親父が亡くなってからはまだ小さかった息子たちを連れて、
息子たちが大きくなってからは私ひとりで、
毎年お盆には墓参してきた。
何しろ4番目の伯父も横浜で、近くに住んでいるのは我が家のみ。
一番墓参してきたのは父と私だったのだ。
私の場合、父の墓は花巻に別にあるし、盛岡の墓仕舞いも仕方ない。
とはいえ、自分のルーツが消される気がして
ちょっと寂しい気持ちであることもまた確かなこと。
祖父も、まさか末っ子の息子たちが花巻に土着するとは
思ってもいなかったんだろうね。