風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

私の系譜 2

2004-11-30 | 風屋日記
私の親父は5人の男兄弟の末っ子。
とはいっても長兄とは20、すぐ上の四男とも8つ違うので、
物心ついた頃には兄達はすでに家を出ていて一人っ子のようだったらしい。

長男は県下でも秀才の誉れが高かった人だったらしいが、
旧制中学時代に結核を病み、卒業後代用教員を何年か務めた挙げ句22で亡くなった。
大正14年、親父が2歳の頃だ。
親父が65年後に結核の再発で死んだのは小さい頃の感染が原因じゃないかと思う。
死期が近づいた頃、長男が当時苦労していた母親(私の祖母)に
「母さんも一緒に行かないか?」と尋ねたという。
母親はしばらく考えた後で、静かに言ったらしい。
「一緒に行きたいけど、私がいなくなったら誰があんたの供養をするの?」
すごい、そして悲しい会話だと思う。

次男は豪傑だった。
旧制中学卒業後、青雲の志を抱いて家出同然に中国へ渡り、上海の学校に進学。
1年後には連れ戻されて旧制高校に入り直している。
東京市役所福祉課勤務時代は死んだ浮浪者の遺骨を「引き取り手がいないのは可哀想だ」
と自分の下宿に積んでいたこともあったらしい。
2.26事件が勃発した時は、戒厳令の中、現場を野次馬に行ったという。
戦後は長いこと政治に関わったが、贅沢な暮らしや黒塗りの車に見向きもしなかったり、
何度も叙勲の話を持ちかけられながら知らん顔を決め込んだり、
90歳を過ぎた晩年はアパートで一人暮らしをしていて、
心配する周囲に「軍隊時代に自炊をしていたから料理は得意だ」とあきれさせたり。
2年前に96歳で亡くなるまで、おもしろい伯父だった。

三男の話はさらに小説じみている。
なにしろ旧制中学時代、下宿の押し入れに一升瓶が並んでいたという人だ。
長じて、つきあっていた女性と北海道に心中をしに行き、
自分だけ助かったら、こんどは別の女性と駆け落ち。
九州から連れ戻されて見合い結婚したが、その1年後に結核で亡くなっている。
亡くなった時にはまだ30台はじめだったらしいが、
他の人の何倍もの密度の濃い人生だったのではないだろうか。
実は私の顔はこの伯父によく似ているらしい。
私がもっともその人生に興味を持ったのもこの伯父だ。

四男は暴れん坊。
中学時代、同級生の警察署長の息子をぶん殴り、家に帰ったら
「何も言わずにこの荷物を持って今晩の汽車で東京へ行け」と父親に言われ、
東京で待ち構えていた次兄の下宿に転がり込んで以来の東京ぐらし。
今もこの兄弟の中では唯一健在だ。
90間近だが、周囲の心配をよそにいまだに自転車で出掛けていると言う。

末っ子の親父にしても、旧制高校入学に向けて8浪!!
もちろん終戦前後を挟んでの事なので純粋な浪人ではないが、
その後は名古屋の親戚に婿入りすることを条件に大学へ入学。
親戚の家と大げんかして飛び出し、苦学の末帰郷して教員になったと思ったら結核発病。
ストレプトマイシンと手術法ができたばかりだったために命拾いをしたものの、
それから教員に復帰して結婚するまでまた8年ほどかかっている。

昔の事とはいいながら、波乱万丈の人生を歩んだ家族。
平凡な人生を歩んでいる私だが、小さい頃から大好きな物語だ。
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私の系譜 1

2004-11-29 | 風屋日記
昔の人達は、今では想像もつかないような激動の人生を送っていることがある。
私の父方、母方双方の祖父母や父方の伯父たちも
ヘタな小説やドラマどころじゃない人生を送っている。
だいたい、4人とも今私が住んでいる町の出身ではない。
どうして私がここに住んでいるのか・・・というのも偶然の重なりによる。
・・・がしかし、それら全てを知っているのは、もう私だけになってしまった。

父方の祖父は山口県の出身(だから私の名字はここいらでは珍しい)、
その系譜は、父が生前山口県から戸籍謄本を取り寄せたりして、
祖父のさらに祖父「寅吉」までは名前や生年が分かっている。
ちょうど明治維新という名の長州人達によるクーデターが起きた前後だ。
山口市近郊の郷士だったとも、宇部の網元だったともいわれる寅吉一族については
今も詳しいことはよく分かっていない。
判明しているのは寅吉の孫であるK家跡取りである少年(祖父)が出奔、
東京へ出ていってしまってからの物語だ。

東京へ出てもあてのない少年は、とりあえず食うために陸軍に入隊したらしい。
それでも近衛連隊へ配属になったのは長州出身者への配慮だったのだろう。
当時の陸軍のエライさんはみんな薩摩か長州だったと思うので。
その後の配転により岩手連隊へ・・・というあたりから舞台はようやくこっちに来る(笑)
これまた数奇な人生を歩んだ祖母と、この頃に知り合い、結婚したようだ。
結婚後すぐに除隊し、秋田の鉱山の管理人(花輪?)をやったりしたらしいが、
何を思ったか、今度は今私が住んでいる町の奥地(今はダムに沈んだ集落)で炭焼き指導を始める。
何年かして、ある程度教えたところで市街地へと引越してきた。
要は集落の人達が作った炭を首都圏で売るのに、自分が仲買をしようという魂胆だったらしい。
これがこの町との縁の始まり。
ここまで約5年毎に仕事も住む場所も転々としている。

それから10年ほどは炭の卸屋という仕事も落ち着いていたらしい。
子ども達を旧制中学、旧制高校に入れる余裕もあった。
朴訥な東北人の中にあって、弁説鮮やかな長州人気質とヤマ師な性格を生かし、
町議会議員などもやっていたとのこと。
暗転は、5人の男兄弟の末っ子である私の父が生まれた大正12年。
関東大震災によって東京に出荷した炭を全て焼いてしまい一文無しに。
その後はなんとか木炭協会の理事などの仕事で細々と食いつないだとのこと、
昭和20年には空襲で焼け出されたりもしているが、
そんなこんながあっても凹む祖父ではなかった。
なにしろ次男の嫁さんの実家に嫁さんの着物を担保に持っていって借金をし、
実家の両親が娘を可哀想に思ってその晩のうちに着物をこっそり返すと、
翌日また同じ着物を持って金を借りに行ったという豪傑の祖父(笑)。
その辺のエピソードは、小さい頃から父や伯父達からたくさん聞かされてきた。

私はその祖父に会ったことはない。
私が生まれる8年も前、昭和27年に老衰で亡くなっているからだ。
父が生まれたのは祖父が40台の後半の頃。
私が生まれたのは父が37の時。
祖父とはいいながら、結構遠い昔の人の物語なのだ。
私が祖父から受け継いだものがあるとすれば、
相手の肩書きがどうであれ、まったくびびることのない性格かも知れない(笑)。
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未来

2004-11-28 | 風屋日記
どうやら頚椎のヘルニアらしい。
こうやってパソコンに向かっていると首から背中が苦しく、
パンパンに張ってきて、左手が痺れてくる。
先日医者で握力を測ったら右は58、左が27。
左手に力が入らないというのは、これでけっこう不便だ。

おまけに健康診断で引っ掛かった肝機能検査について、
先日二次検査を受けたらさらに数値が上がっていて、とうとう「要治療」。
アルコールと激しい運動がドクターストップとなった。
ま、どっちもなければないで過ごせる私なので大して苦痛はないけれど・・・。
近頃とみに気になり出した遠視と合わせ、
「寄る歳並」ということばが目の前にちらつく。

しかし、今朝の朝刊に載っていた某社の全面広告を見て、
「歳はとりたくねーな」という気分が少し和らいだ。
中学・高校時代の私から見て、
あるいは大学時代・就職して結婚したばかりの頃の私から見て、
今の私は「未来」だ。
もしかしたら息子達も、自分の未来を私に重ねて見ているかもしれない。
そう考えたらくたびれてなんかいられないな。
若い頃の自分に向かって「未来は楽しいよ。これで結構輝いている」
と言ってやれるような毎日を送らなくちゃいけないんだね。

そんなことを考えながら鏡を見たら、
いつもはヤな気分にさせられる皺も、たるみも、
頭髪の間から透けて見える地肌も、
なんだか愛しく思えてくるから不思議だ(笑)
「いい歳こいてそんなことやってんのか」と言われそうなことでも、
自分がしたいことをしよう。
今朝の朝刊でみうらじゅんも言ってたじゃないか。
「『またやっている』じゃダメ。『まだやっている』じゃないと。
 濁点が付くか付かないかで、意味が大きく違います」

さて、今日は特別何も予定のない日曜日。
ギターの練習でもしようか。
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雨と 風と 虹と

2004-11-27 | 風屋日記
夜中から猛烈な風と雨。
2時、3時、4時と、1時間毎に風の音で目が醒めた。
台風が来ても、勢力がすでに衰えていることが多いので、
どちらかというと冬から春にかけての風の方が強い当地だが、
昨夜のはまた特別。
音で判断するに、私の体験の中でも5本の指に入る強さだと思う。
案の定今朝のNHKニュースでは、盛岡の最大瞬間風速35mとのこと。
さもありなん。
発達中の前線が強烈な冬型をもたらしたことによるこの風。
これが1月なら、視界が10mもない程の猛吹雪になるところだった。

さっき高速道路を通ってきたが、
乗用車でさえも突風のたびに左右にふらついていた。
ましてトラックは軒並みスピードダウン。
1台のトレーラーが私を含め、数台の車を追いこしていったが、
突風に煽られ、私の前で中央分離帯に激突した。
あわててブレーキ & 後続車へハザードで知らせたが、
風で事故ったのは初めて見た。

心に残った風景をひとつ。
夜明けとともに、風に乗ってきた雨の中で日が射し、
見事な虹が出た。
7色すべて判別できるほど、太くくっきりとした虹だった。
その虹の、地面に近いところを見てびっくり。
ほんの100mほど向こうにある家の手前に虹がかかっている。
虹の科学的な根拠は理解しているつもりでも、
漠然としたイメージで、
虹ってのは山の向こうの遠くにかかるものだと思っていた。
実際、頭の上の虹はスケールが大きいせいもあって遠くに見える。
でも、大きく見える虹もほんのすぐ目の前にかかるものなんだ。
その事実を初めて知ってちょっとした感動を味わった。
まるでメーテルリンクの「青い鳥」じゃないか。
遠く憧れていたものが、実はほんのすぐ目の前にあるなんて。
案外世の中そんなものなのかも知れない。
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blog学校

2004-11-26 | 風屋日記
blogを始めてから、
関連話題のblogを探したり、コメントをいただいたりして、
結構いろいろな方のBlogを拝見した。
様々な考え、様々な人生がそこにはある。

風俗嬢をしている人達のblogも3つ程覗いてみた。
そのうち2人にはコメントも入れ、レスももらった。
職業差別する訳ではないが、正直言ってみんな予想外の人柄だった。
みんなしっかり人生を考えながら、男性観察も冷静に行っている。
そして何より意外に素朴で、不器用な生き方をしている。
これまで風俗に行ったこともないし、これからも行くことはないと思うが、
少なくとも彼女達には、以前よりも親近感を感じている自分がいる。
もちろん風俗の中にいるのはそういう人達ばかりじゃないだろうが、
それは風俗に限ったことじゃないだろう。
どこの世界にも親しみのわく人達もいれば、そうじゃない人達もいる。

普段コメントをいただいたり、私からコメントしたりしている方々からも
これまでに色んなことを教わり、たくさんの事を学んだ。
私のこんなつまらないblogに、わざわざ遊びに来て下さる方々なので、
考え方の近い人達が多く、私も共感できるblogばかりだ。
みんな一生懸命生きている。
あえて偉そうに書くと、健気に生きる市井の人達を心から愛したいと思う。

blogを始めて3ヶ月。
今は楽しむよりも、学ぶことのウエイトの方が高いかな。
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弱い者いぢめ

2004-11-25 | 風屋日記
今日は別なことを書こうと思っていたが、
今朝のニュースを見て腹が立ったので急遽変更。

地方自治体の自治力を高めるために地方交付税を増やすとのこと。
「自治体毎に自由裁量で運用せよ」とは理想的な言葉だが、
その代わり、現在国から出ている補助金を削減するとのこと。
要は「ひも付きの金をひも無しにする」だけでしかない。
では、どの補助金が減らされるのか・・・。

まず俎上に挙げられたのが教職員の人件費。
これまでは公立学校教員の給与の半額は国からの補助金で賄われていた。
「それはいらないから、自由裁量の金を」と知事会が答申した訳だ。
極端な言い方をすると
「センセ(またはセンセの給与)を減らして公共事業を増やす」
ことを意味している。
知事会では「現実問題として先生の数は減らせないから、影響はない」
と宣うが、だったら補助金のままでもいいじゃないか。
将来の国や郷土を作る先行投資である教育費を削って、今手に入る金に変える。
そういうことがこの国ではまかり通っている。

今朝のニュースによると、教員給与に対する補助金に加えて、
国民健康保険の国庫負担金も減らして自治体に賄わせる方針が打ち出され、
おまけに生活保護のための補助金も削減とのこと。
自分達の票にならない、あるいは声の大きくない人達のところに、
様々なしわ寄せが行く。
「勝ち組・負け組」で済む話じゃないだろう。
高速道路だって、医療や福祉や教育が整備されていない以上、
地方にこそ存在意義があると思うのだが、
「採算がとれない」の一言で切り捨てられる時代だ。
いったいこの国は、どこに向かっているのだろうか。
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アーカイヴ

2004-11-24 | 風屋日記
さっき同い歳の同僚と、思い出のテレビ番組の話をした。
私にとってもっとも懐かしいのは「NHK特派員報告」。
ベトナム戦争も、第三次中東戦争も、カンボジア内戦もこの番組で知った。
16mmフィルムの少しぼやけた、しかし緊迫感のある映像で、
編み笠を被って逃げまどうベトナムの農民達の姿が印象的だった。
世界的に若者が既成社会に反旗を翻し、アメリカやドイツの反戦運動の姿も見た。
もう一度復活して欲しい番組だとは思うが、
現代では最先端のデジタルビデオとITを使った、
不必要なほどリアルな映像にしかならないと思うと腰が引ける。
しかもデジタル映像はいかようにでも作ることができる。
TV画面に遷る映像が真実なのかどうか、疑ってかかるのも少し悲しい。

同じNHKの「新日本紀行」も懐かしい番組だ。
今のような都会の文化がスタンダード化する前の
全国に存在した昔からの生活や文化が映像になっていた。
リアルタイムで見ている時も登場する人や景色は暖かく、懐かしく、
市井の人々の笑顔や生きる力や誇りが満ちあふれていた。
近頃一部の政治家や声高な人達が言うような、
「日本の文化」は終戦後、民主教育によって失われたのではない。
まして平和憲法や人権社会がそれらをなくしたのでもない。
現に昭和40年代が終わるまでは「新日本紀行」は生きていた。
それらを消しさったのは高度経済成長に伴う、
消費社会と中央資本と都会の文化だと思うのだが・・・。

「ステージ101」も懐かしい。
これは恐らく、私位の年代から10歳位上までしか知らないかも。
アメリカのショー番組をモデルにして作られたこの番組は、
「ヤング101」と名付けられた若者達が
外国で流行の曲やオリジナル曲を歌って踊る構成だった。
ミュージカルに近いものだったように思う。
当時としては画期的な番組で、
ここから田中星児や太田裕美などがメジャーデビューしていった。
当時まだ中学校入学前後だった私と妹はこの番組に憧れ、
ビートルズやS&G、ボブ・ディラン、カーペンターズを知り、
自分でも歌ったり踊ったり、作曲の真似事もしたものだ。
ベトナム戦争に反対するヒッピー文化もここで知った。

ジーンズが「ナウなヤング」の制服になりつつあった時代の話。
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感謝祭

2004-11-23 | 風屋日記
アメリカにおける今年の感謝祭は11/18だったとのこと。
どういう意味のイベントか定かではないが、
いわゆる「Thanks giving day」というヤツだ。

今日は日本の「Thanks giving day」。
勤労感謝の日になったのは割と最近のことだ(戦後?)。
元々は新嘗祭(にいなめさい)と言い、
今年の収穫を神様に感謝する日。
その証拠に
今晩のNHKでは皇居の新嘗祭のニュースが流れるはずだ。
田畑に収穫をもたらしてくれる山の神は、
春に里へ降りてきて、秋の感謝祭が終わると山へ帰っていく。
その山の神を見送る儀式でもある。

私の地域の鎮守でも今日は朝から感謝祭があり、
式の手伝いをし、権現舞を奉納してきた。
直会(なおらい)でさんざん飲んで帰ってきて、
さっきまでひっくり返っていたところ。
ようやく復活・・・って、もう夕方だし・・・_| ̄|○
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長男

2004-11-22 | 風屋日記
昨日我が家に来客あり。
子ども達の話などを色々している中で、
「長男ってのんびりしているとよく言われますが、
 お宅のKくんは野球やら外国のことやら積極的ですよねー」
と言われた。
家内曰く
「ええ、実は我が家の長男はこの人(と私を指差す)なので、
 Kは次男、Dは三男なんです」
はいはい、その通り。
ついでに四男は表につながれて吠えてるし・・・。

息子達と私は野球の話や神楽の話、
それに私の若い頃の話などで結構会話がある。
たまに家内から
「テスト近いんだからいい加減にしたら?
 お父さんがつきあってるからしょーがないよねー」
と、男3人がいっしょくたに叱られたりもする。
それでも、息子達とこれだけ話ができることを嬉しく思う。

この前は
「大事な話も成績表を見せるのもお父さんにはするけど、
 私が知らないでいること多いよねー」
と言われて反省・・・。
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恐い話・驚く話

2004-11-21 | 風屋日記
小泉首相が「行政改革をうたって首相になりながら何もやっていない」
という声が野党にも巷にもあるが、それは間違いだ。

愛国心をうたう憲法改正論議が具体的となり、
社会保障制度の改正をちらつかせて、制度の根幹をゆるがせ、
戦後初めて戦争当事国へ自衛隊を派遣し、
そして今、憲法9条とともに「平和な国日本」のもう一方の旗印である
「武器輸出禁止原則」をもないがしろにした武器輸出緩和策を打ち出した。
10年前までは想像すらできなかったことを次々実行に移し、
戦後の首相の中では「出色の働き」だ。

1年前のイラクへの自衛隊派遣承認採決の時、自公ともに派遣へのベクトルを示す中で、
自民党の重鎮であった野中広務・古賀誠両氏が反対の意思表示をした。
11/19(金)の朝日新聞に「三者三論」というコーナーがあり、
「延長? 自衛隊イラク派遣」と題して、その古賀氏の意見が載っていた。
自民党の中でも最も保守的とされる日本遺族会系の議員のトップとして、
同会会長を勤める古賀氏の意見の中で特に目を引いたのは、
 ~あの大東亜戦争は、政治の貧困というか、
  国政に携わる1人ひとりの責任が明らかにされない中で引き起こされたと思う。 
  「いつか来た道」には、極めて臆病でなければならない。
  ひとつ風穴が通るとずるずると押し流される。
  既成事実を積み重ねた結果、大きな犠牲につながっていくのではないか。
  非常に恐いことだ。~
という部分だった。
首相はこれをどう読んだのだろう。

一方「三者」のうちのもう1人である、元防衛施設庁長官の宝珠山昇氏は
「テロリストを勇気づける以外の何ものでもない」
から自衛隊の"撤収"(撤退ではないそうだ)は論外だという。
そして
 ~陸上自衛隊の数万人規模の人員削減案が検討されているようだが、
  派遣された隊員が「オレたちのやっていることは評価されていないのか」
  と不安になり、士気低下につながることが心配だ~
と述べている。
たった(とあえて言うが)それだけの理由?
たったそれだけのために何百億もの税金を投入しろと言っているのか?
隊員1人の人件費がざっと500万円とすると(間接人件費を含めればそれ位にはなろう)
10人で5000万円、100人で5億円、1000人で50億円だ。
「数万人」が、最低ラインの1万人だとすると、ざっと500億円の税金が
人を雇うだけに使われていることになる。
もちろん制服や使用武器、食費などもあわせればその費用は倍にも膨れる。
500億円の支出は、いったい何人の所得税を集めると賄えるのだろう。
それをたった「士気低下」のためだけに使えと言っている。
尋常な感覚ではないように感じるのは私だけ?

もっとも、為政者のためのモノサシであるはずの憲法に「愛国心」を盛り込んだり、
憲法9条があるのに武器を持った自衛隊を他国へ派遣したりしていることを考えれば、
宝珠山さんの意見は驚くほどのことでもないかもしれないが・・・。

いずれにせよ、小泉さんは選挙にさえ勝てば官軍だと思っているかもしれないが、
賢明な国民が、いつまでもぶつくさ愚痴を言っているだけだと思ったら大間違いだ。
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不思議な話2

2004-11-20 | 風屋日記
皇居の園遊会の時、
「私の仕事は全国の学校に国旗と国歌を云々」と言った東京都教育委員に対して、
天皇が「強制にならないように・・・」と答えた話は有名だが、
そのことに関し、文部科学大臣と法務大臣が口を揃えて
「自ら進んでやれという意味だ」と答えたらしいが、
彼らはホントにそういう意味に受け取っているの?
だとしたら、その程度の人を大臣にしている国もいかがなものかと思うし、
わざと曲解させているとしたら、そういう姑息な人達が大臣というのも・・・。
だいたい天皇&国民に対する失礼だとおもうが。

憲法改正論議が始まっているが、
はたして本当に現憲法は「占領国アメリカからの押し付け」なのだろうか。
だってアメリカ自身が「金だけじゃない国際貢献を」(要は「俺を手伝え」)
と言ったんでしょ?
だいたい、戦後60年近くにわたる民主教育は何だったのよ。
終戦直後にそれまで使っていた教科書を墨で消した時のように、
それまでの教育を全否定するものでしょ。

都立高校生に奉仕活動を義務付けるという話がある。
なんで都立の生徒だけ?
毎日国旗を掲揚し、ことあるごとに国歌を流す学校で、
一斉に奉仕活動・・・って、冷静に考えてみてどっかおかしくないか?
それも、そういうことに関しては全国の中で東京だけが突出してるのに、
全国的な風潮のように報道するマスコミ・・・。
地方から見た今の東京は、世界の流れに逆行して盲目的にブッシュを支持する
アメリカ中南部の保守層のように見える。

企業とは経済活動を通して社会に貢献する存在であるはず。
利潤を上げることにより、税金を納める義務を果たしつつ、
雇用という形で地域に利益を還元するのが企業であると思っている。
経営に最も大切なことは、利益ではなく哲学だろうと思うし、
それがあるからこそ人も社会もその企業に付いてくる。
・・・偉大な経営者たちはみんなそうだと思っていたけど、
堤さんの事件や今回のプロ野球騒動を見ていてがっかりした。
金さえ稼げれば何やったっていいのか?
社会への貢献ではなく、ごく一部の人達への貢献のために企業はあるのか?
そのごく一部の人達というのが、どういう方々かは知らないけれども。
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NET上の人間関係

2004-11-19 | 風屋日記
今日はココを見て下さっている方々や、
コメントをお寄せいただいている方々へ敬意を込めて・・・。

NETは基本的に匿名の世界。
だからこそ本音が書ける場合もあるし、他人への攻撃も簡単だ。
見栄や建前や道徳や倫理など、普段抱えているものを脱ぎ捨てて、
生身の本性が垣間見える場であるとも言える。
悲しくなる本性を見たこともあるし、嫌悪感を持ったものもある。
一方で心から共感できる本音や、気持ちが暖かくなることばも沢山みた。
ココに書いた中にも直接面と向かっては人に言えないものもある。
ただ、生身の本音に共感することによって、
もしかしたら通常のコミュニケーション以上の結びつきを
得ることもあるのかも知れないと考えている。

NETへの書き込みはあくまで能動的なものだから、
単純に表現すると、NET上の関係が嫌になったらシャットダウンすればいい。
人と人との葛藤の中で、努力して人間関係を築くことがNETの関係では必要ない。
それはものすごく楽なことかも知れないけれど、
人と人とのつながりはそれでいいのかな・・・と思う。
もちろん、両方がバランスよく存在していれば問題ないが、
NET上の人間関係しか持てないってどうなんだろう。
同じ部屋の中にいながら、メールで会話しあう夫婦がいるらしい。
私の知人にも「家中にLANを張ったから娘とも会話があり仲がいい」と言っている人がいる。
NET上の人間関係しか築けなかった結果として(もちろん原因は他にもあるだろうが)
佐世保の事件があったような気もしている。
やっぱり顔を合わせた人間関係の構築や、コミュニケーションは大切なものだと思うが。

それと、例えば8月からほぼ毎日更新しててきたココが、
ある日突然ぷっつり更新が途切れてしまったらどうだろう。
自分の意志でやめる時には宣言するが、そうでない場合どう思われるのだろう。
飽きたんだろうとか、勝手なヤツだと思われるかも知れない。
でも、例えば突然の入院、事故、急死・・・。
可能性はなくはない。
時折コメントを下さっている方の中では、
私の周囲も含めた人間関係があるということから
rwwaさんとbertさんは私の消息をすぐ掴めるだろう。
地元新聞に載るくらいの事故なら
まつたけさんやお色気さん、midcatさんたちもわかるかも知れない。
でも通常はNET上でどんなに親しくても、相手の死を知らないこともある。
それってちょっと悲しい。

NETで知り合った人達とお会いしたことが何度かある。
定期的にオフ会を開いているHPメンバーの飲み会に参加したこともある。
そういう中で思ったことは、
「なーんだ、みんなイメージ通りの人達じゃないか」ということ。
もちろん会う前にはNET上で結構コミュニケーションしているのだが、
生身の本音で書く考え方や表現に親しみを感じるからこそ会いたくなるわけだ。
「暖かい人だなぁ」「キリっとした人かな?」「楽しそうな人」
というNET上でのイメージが、直接会ってもそのままなんだなぁ(笑)
もちろんこれまで会った人達は
「会ってよかった。知り合えてよかった」と思える人ばかり。
それってちょっと嬉しい。
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三位一体

2004-11-18 | 風屋日記
昨日の昼食はタイ料理のレストランへ行った。
食べたのは、鶏肉と野菜をオイスターソース(とナンプラー?)で炒め、
パクチーで香りをつけたおかずに、ごはん、スープ、サラダ。
ココナツミルクのデザートもついて850円。
ごはんとスープはおかわり自由だから、ランチメニューとはいえリーズナブル。
しかも、もちろんおいしい。
味とその国の歴史と文化が三位一体で溶け込んでいるタイ料理。
チャンスを見つけてまた行きたい。
昨日発見したベトナム料理店にも、そのうち行ってみなくちゃ。

ということで昨日午後は、その店の近くのホテルでセミナーに出席。
同じく出席していた県の教育委員会の方と知り合った。
民間機関主催のセミナーに県職員が出席というのはめずらしい。
しかも当方は、ついこの間までPTA会長&市P連副会長をしていた身。
帰りは県庁まで歩きながらいろいろと話をした。
教員の教育と評価に関することから始まり、
(社員教育に関するセミナーだったので)
子ども達よりも父母への教育が必要なこと。
そして最後は子ども達を育てるには学校、家庭の他に地域が欠かせないこと。

学校は知識を教える場所だ。
もちろん集団生活や達成感を学び、身につけることもできる。
クラブ活動や文化祭、体育祭も学習のひとつになっている。
しかし、基本的には「知の修得」の場所だ。
家庭は心を育てる場所だと思う。
価値観を形成し、他への思いやりを体感し、
愛情を育む「心の形成」の場所だ。
地域は社会性を身につけるところだと思う。
様々な仕事、立場、年代の違う人達の中で、
家族以外の他人とのコミュニケーションをそこで学ぶ。
先生や家族以外の人から認められる経験というのは、
一生記憶に残るのではあるまいか。
逆に、近所付き合いや地域社会の希薄化が孤立した個人を生む。
昨今ニュースに目立つ、若い人による実感の伴わない殺人事件などは
まさに個人の孤立が生んでいるように思う。
事件にならなくても、やはりコミュニケーションが苦手で、
社会の中で弱者となっていく人達も多い。

私の住む地域ではコミュニティーが残っている。
子ども達へ野球やソフトボールを教えたり、
神楽を伝える活動をしたり、
自分の子どもや孫がその中にいなくても、
みんな自分の子どものようにつきあってくれる大人達がいる。
近頃ニュースで「三位一体」という言葉をよく聞くが、
これが本当の三位一体の教育ではないだろうか。
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こんなはずじゃ・・・

2004-11-17 | 風屋日記
1ヶ月程前の話。
眼鏡を買いに行きたいと言うお袋を眼鏡屋に連れて行った。
選んでいる間、店内をぶらぶらする。
ちなみに私はこの4○年間眼鏡やコンタクトには、
ついぞ縁のない生活を送っている。
・・・ということはとりもなおさず、
私にとって眼鏡店そのものが珍しいということになる。
「うむ、このフレームは割と似合うかも」
などと思いながら、いろいろ手に取ってかけてみたりした。

老眼鏡のコーナーがあった。
「近眼の眼鏡と、見え方がどう違うのだろう」
と思いながら試しにかけ、近くの文書を読んでみた。

・・・よく見える・・・

考えるてみると、近頃新聞を読む時も少し離し気味になっていた。
やばい。

確かに親父も伯父も若い頃は視力2.0ながら、
40代半ばで老眼鏡のお世話になっている。
私もずーっと視力2.0を誇ってきた。
・・・要は遠視の家系なのね。

眼鏡に縁のない生活だったはずなのに・・・
老眼鏡を使うようになるまで、カウントダウンが始まった。
「オヤジ」から「ジジイ」になる日も近いか?
コメント (5)
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歌は世につれ

2004-11-16 | 風屋日記
タイトル試してみたけど、たいしてpv伸びなかったな(笑)

さて、うちの次男は中三の受験生。
部屋に隠って勉強しているらしいけど、音楽がガンガン聞こえてくる(笑)
「おい、集中できてるのか?」と声をかけてはみるけれど、
考えてみりゃ私もラジオをかけての「ながら勉強」だったな。

私は中学入学と同時に吉田拓郎を聴き出した。
それまで耳にしていた歌謡曲とは全く違う音楽だった。
アイドルにキャーキャーいう女の子達を尻目に
「これこそ大人の歌」とばかり、私達は夢中でギターを弾き出した。
かぐや姫や井上陽水に流れていく奴らもいた。
ギターテクニックを追求したり、より感傷的な歌が好きな奴らだ。
私達はそいつらとも決別した。
泉谷しげるは爆発力があり、何人かがなびいていったが、
私は粗暴な振る舞いの端々に見隠れする彼の「照れ」が苦手だった。
当時の私はよりイデオロギー性の強いもの、メッセージを込めたものが好きで、
岡林信康や加川良にも傾倒していった。
どこまで理解していたか疑問だが・・・(笑)

私が次男と同じ歳の頃、ラジオから中島みゆきの「時代」が流れていた。
それまで観念的に音楽に接していた背伸び中の私は
自分が置かれた状況や、
自分の心情に寄り添ってくれる音楽に初めて出会った。

 ~あんな時代があったねと いつか話せる日が来るわ
  こんな時代があったねと いつか笑って話せるわ
  だから今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょう~

苦しい受験勉強(という程勉強してたわけじゃないが)や
受験を控えた閉塞感のある生活を歌ってくれているような気がした。
今でもこの曲を聴くと、あの頃の情景が目に浮かぶ。

高校2年の頃、今の高校生には想像もできない程(笑)淡い恋をした。
夜、自分の部屋でひとり彼女の面影を追っている時、
ラジオから流れていたのは八神純子の「思いでは美しすぎて」。
ゴツイ外見とは裏腹に敏感で感傷的な心に、澄んだ声がしみ込んでいった。

よく聴いていた番組は「コッキーポップ」。
かつてニューミュージック系のミュージシャンを目指す者達が
こぞって目指した「ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)」。
その入賞曲を流していたのが「コッキーポップ」だった。
ポプコンはたくさんのミュージシャンや数々の名曲を生んだ。
NSP、中島みゆき、円広志、長渕剛、チェッカーズ・・・。
オフコースやサザンもポプコンを目指した人達だ。
その中で特に私の耳に残ったのは、あまりメジャーにならなかった人達の歌。
八神純子「さよならの言葉」、佐々木幸男「君は風」、大友裕子、下成佐登子・・・。
どの曲も聴いて目に浮かぶのは、自分の部屋、机、参考書、教科書。
記憶と音楽がぴったりシンクロしている。

「コッキーポップ」のCDセットが売られているらしい。
10枚組のそのCDセットを買おうかどうしようか、今迷っている。
コメント (13)
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