昭和41年、
大学に入ったばかりの青年と繊細な女性が出会った。
徐々にお互い惹かれ始め、2人の仲は恋に育っていった。
「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」(河野)
「いだきあうわれらの背後息あらく人駈けゆきしのち深き闇」(永田)
逢う毎に、触れ合う毎に熱くなっていく気持ち。
「今刈りし朝草のやうな匂ひして寄り来しときに乳房とがりぬ」(河野)
「きまぐれに抱きあげてみる きみに棲む炎の重さを測るかたちに」(永田)
大学を卒業後まもなくして2人は結婚、
2人の子どもたちにも恵まれる。
熱い恋は穏やかな愛となり、
夫の仕事の大変さや子育ての中での悩み、苦労など経て
家族の日常は情愛とともに流れていくようになる。
「米研ぎて日々の飯炊き君が傍にあと何万日残つてゐるだらう」(河野)
「たった一度のこの世の家族寄りあいて雨の廂に雨を見ており」(永田)
子どもたちが育っていく間に
若々しい生き生きとした日々は徐々に穏やかに流れるようになる。
これまでの自分たちの軌跡を振り返りつつ
ぼんやりとこの先のことにもいろいろと思いが湧く時代。
「広すぎる歩幅と思ひ並びゆくわたしは今も小さすぎるか」(河野)
「君が歩幅を考えず歩きいたる頃せっぱつまりしように恋いいし」(永田)
「晩年におそらくは居ない君のこと既視感のごとく復習ておかねば」(河野)
「君のおかげでおもしろい人生だったとたぶん言うだろう
わたくしがもし先に死ぬことになれば」(永田)
やがて子どもたちは独立し、
また2人の静かな生活がやってくる。
「灯ともさぬ階段に腰かけ待ちてをり今日は君だけが帰りくる家」(河野)
「ふたりよりやがてふたりにもどるまでの時の短さそののちの長さ」(永田)
その日は突然やってくる。妻の発病。
「あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて」(河野)
「ポケットに手を引き入れて歩みいつ嫌なのだ君が先に死ぬなど」(永田)
お互いに忙しい仕事に追われ、
それまでは何気なしに「夫が先に逝くだろう」と
冗談半分に言い合っていた夫婦には青天の霹靂のことだった。
一度は手術で快癒してようにも見えた病だったが、
やがて再発が告げられる。しかも手の施しようもない状態で。
妻は取り乱し、夫は何とかそれを支えようと試みる。
「わたしよりわたしの乳房をかなしみてかなしみゐる人が二階を歩く」(河野)
「昔から手のつけようのないわがままは君がいちばん寂しかったとき」(永田)
そして徐々に2人ともその運命を受け入れ始める。
お互いがお互いに正面から向き合い、思いやる日々。
「笑窪がかはいいと言はれてよろこぶ私に私より単純に夫がよろこぶ」(河野)
「馬鹿ばなし向こうの角まで続けようか君が笑っていたいと言うなら」(永田)
「一日に何度も笑ふ笑ひ声と笑ひ顔を君に残すため」(河野)
「一日が過ぎれば一日減ってゆく君との時間 もうすぐ夏至だ」(永田)
「この家に君との時間はどれくらゐ残ってゐるか梁よ答えよ」(河野)
「あっという間に過ぎた時間と人は言ふそれより短いこれからの時間」(永田)
妻は徐々に衰弱していく。
諦観しつつもなお胸をかきむしる夫がそばにいる。
「俺よりも先に死ぬなと言ひながら疲れて眠れり靴下はいたまま」(河野)
「きみがゐてわれがまだゐる大切なこの世の時間に降る夏の雨」(永田)
「生きてゆくとことんまで生き抜いてそれから先は君に任せる」(河野)
「悔しいときみが言ふとき悔しさはまたわれのもの霜月の雨」(永田)
「見苦しくなりゆくわたしの傍に居てあなたで良かつたと君ならば言ふ」(河野)
「いい夫婦であつたかどうかはわからねど
おもしろい夫婦ではあつたのだらう」(永田)
そして妻が息を引き取る前日。
「あなたらの気持ちがこんなにわかるのに言ひ残すことの何ぞ少なき」(河野)
「さみしくてあたたかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ」(河野)
「八月に私は死ぬのか朝夕のわかちもわかぬ蝉の声降る」(河野)
「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」(河野)
絶唱は「われは忘れず・・・」
その後の夫の歌はリアルに真っ直ぐに心を突いてくる。
これはエレジーでもレクイエムでもない。
悲痛な心の叫びだ。
「亡き妻とどうして言へようてのひらが覚えてゐるよきみのてのひら」(永田)
そして
「わたくしは死んではいけないわたくしが死ぬときあなたがほんたうに死ぬ」
2人の思い出は2人だけのもの。
お互いのすべては相手しか知らない。
2人ともこの世から姿を消せば、
すべての2人の軌跡は誰にも知られることなく
2人の体とともにこの世から消えていってしまう。
そんな当たり前のことが改めて衝撃。
たまたま歌人として名を成した夫婦の相聞歌。
でも、歌にならなくてもこれらの思いはどの夫婦も抱くものだろう。
これは歌集ではない。
とあるひと組の夫婦の、出会いから別れまでの軌跡。
「たとへば君~40年の恋歌~」河野裕子、永田和宏:著 文春文庫
大学に入ったばかりの青年と繊細な女性が出会った。
徐々にお互い惹かれ始め、2人の仲は恋に育っていった。
「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」(河野)
「いだきあうわれらの背後息あらく人駈けゆきしのち深き闇」(永田)
逢う毎に、触れ合う毎に熱くなっていく気持ち。
「今刈りし朝草のやうな匂ひして寄り来しときに乳房とがりぬ」(河野)
「きまぐれに抱きあげてみる きみに棲む炎の重さを測るかたちに」(永田)
大学を卒業後まもなくして2人は結婚、
2人の子どもたちにも恵まれる。
熱い恋は穏やかな愛となり、
夫の仕事の大変さや子育ての中での悩み、苦労など経て
家族の日常は情愛とともに流れていくようになる。
「米研ぎて日々の飯炊き君が傍にあと何万日残つてゐるだらう」(河野)
「たった一度のこの世の家族寄りあいて雨の廂に雨を見ており」(永田)
子どもたちが育っていく間に
若々しい生き生きとした日々は徐々に穏やかに流れるようになる。
これまでの自分たちの軌跡を振り返りつつ
ぼんやりとこの先のことにもいろいろと思いが湧く時代。
「広すぎる歩幅と思ひ並びゆくわたしは今も小さすぎるか」(河野)
「君が歩幅を考えず歩きいたる頃せっぱつまりしように恋いいし」(永田)
「晩年におそらくは居ない君のこと既視感のごとく復習ておかねば」(河野)
「君のおかげでおもしろい人生だったとたぶん言うだろう
わたくしがもし先に死ぬことになれば」(永田)
やがて子どもたちは独立し、
また2人の静かな生活がやってくる。
「灯ともさぬ階段に腰かけ待ちてをり今日は君だけが帰りくる家」(河野)
「ふたりよりやがてふたりにもどるまでの時の短さそののちの長さ」(永田)
その日は突然やってくる。妻の発病。
「あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて」(河野)
「ポケットに手を引き入れて歩みいつ嫌なのだ君が先に死ぬなど」(永田)
お互いに忙しい仕事に追われ、
それまでは何気なしに「夫が先に逝くだろう」と
冗談半分に言い合っていた夫婦には青天の霹靂のことだった。
一度は手術で快癒してようにも見えた病だったが、
やがて再発が告げられる。しかも手の施しようもない状態で。
妻は取り乱し、夫は何とかそれを支えようと試みる。
「わたしよりわたしの乳房をかなしみてかなしみゐる人が二階を歩く」(河野)
「昔から手のつけようのないわがままは君がいちばん寂しかったとき」(永田)
そして徐々に2人ともその運命を受け入れ始める。
お互いがお互いに正面から向き合い、思いやる日々。
「笑窪がかはいいと言はれてよろこぶ私に私より単純に夫がよろこぶ」(河野)
「馬鹿ばなし向こうの角まで続けようか君が笑っていたいと言うなら」(永田)
「一日に何度も笑ふ笑ひ声と笑ひ顔を君に残すため」(河野)
「一日が過ぎれば一日減ってゆく君との時間 もうすぐ夏至だ」(永田)
「この家に君との時間はどれくらゐ残ってゐるか梁よ答えよ」(河野)
「あっという間に過ぎた時間と人は言ふそれより短いこれからの時間」(永田)
妻は徐々に衰弱していく。
諦観しつつもなお胸をかきむしる夫がそばにいる。
「俺よりも先に死ぬなと言ひながら疲れて眠れり靴下はいたまま」(河野)
「きみがゐてわれがまだゐる大切なこの世の時間に降る夏の雨」(永田)
「生きてゆくとことんまで生き抜いてそれから先は君に任せる」(河野)
「悔しいときみが言ふとき悔しさはまたわれのもの霜月の雨」(永田)
「見苦しくなりゆくわたしの傍に居てあなたで良かつたと君ならば言ふ」(河野)
「いい夫婦であつたかどうかはわからねど
おもしろい夫婦ではあつたのだらう」(永田)
そして妻が息を引き取る前日。
「あなたらの気持ちがこんなにわかるのに言ひ残すことの何ぞ少なき」(河野)
「さみしくてあたたかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ」(河野)
「八月に私は死ぬのか朝夕のわかちもわかぬ蝉の声降る」(河野)
「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」(河野)
絶唱は「われは忘れず・・・」
その後の夫の歌はリアルに真っ直ぐに心を突いてくる。
これはエレジーでもレクイエムでもない。
悲痛な心の叫びだ。
「亡き妻とどうして言へようてのひらが覚えてゐるよきみのてのひら」(永田)
そして
「わたくしは死んではいけないわたくしが死ぬときあなたがほんたうに死ぬ」
2人の思い出は2人だけのもの。
お互いのすべては相手しか知らない。
2人ともこの世から姿を消せば、
すべての2人の軌跡は誰にも知られることなく
2人の体とともにこの世から消えていってしまう。
そんな当たり前のことが改めて衝撃。
たまたま歌人として名を成した夫婦の相聞歌。
でも、歌にならなくてもこれらの思いはどの夫婦も抱くものだろう。
これは歌集ではない。
とあるひと組の夫婦の、出会いから別れまでの軌跡。
「たとへば君~40年の恋歌~」河野裕子、永田和宏:著 文春文庫