いぶろぐ

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こういう感覚の人たちとどう向き合うか

2016-06-01 23:54:54 | 超・いぶたろう日記
三流タレントが「母の遺骸とのツーショット」をfacebookに投稿したとかで、物議を醸している。

橋本志穂、FBに「母の亡骸」写真が大批判 その行動は「言語道断」なのか?

「亡骸を囲む遺族の写真」に象徴されるのは、
何でもかんでもSNSに載っけて「感動」「感情」を共有しなきゃ、
という一種の無意識な強迫観念だろう。
「遺骸との自撮り写真」にこびりつくのは、
ごまかしようのない自己愛の腐臭と言うべきだろう。
「こんなに〇〇な私」を過剰演出して、
大好きな自分を見せびらかしたくてたまらない。

いずれも思いついたらブレーキがかからない。
それが毎日の当たり前の営みとなると、
載せるべきものと載せるべきでないものの境目が、
だんだん麻痺して自覚されなくなるのだろうか。
怖いことだ。
この人も何が問題なのか、実のところはわかってないはずだ。

僕も親しい人が亡くなったときに、
その悲しい気持ちをSNSやブログに書くことはある。
書かずには気持ちの整理ができないからだ。

でもそのときはものすごく慎重に言葉を選ぶ。
人の死にかこつけて、感動的なキレイゴトを並べて、
「自分をいい人に見せたい」「自分の生活をドラマチックに見せたい」という、
品性の下劣なものに映らないかどうか、細心の注意を払う。
人の生死というのはそれほど厳粛なものだ。
然るべき重みをもって受け止めるべきだ。

葬儀での遺骸の撮影は、賛否両論あるだろうけど、
これは論理というよりも感覚的なものだ。
わからないひとにはわからない。
それでも、まだ家族や近親者がというならまだ話はわかる。
でもそれは見せびらかしていいようなものでは決してない。

僕も大好きな祖父が亡くなったとき、
本当に別れがたくて、撮りたいと思った。
が、控えた。
何だか祖父の尊厳を冒してしまうような気がしたからだ。
でもお通夜の晩、長年連れ添った祖父を心から愛していた祖母が、
最後に一緒に寝てやるんだと、祖父の横たわる隣に潜り込んで寝た。
そしたら何だかもうたまらない気持ちになって、
どうしても二人の姿を自分の手元にとっておきたくて、
一枚だけ撮ったことがある。
もちろん誰にも見せるようなものじゃない。
祖父に心の中で謝りながら一枚だけ許してもらった。
それでも逡巡した。

ましてや、それをSNSで公開しようなどとは微塵も思わなかった。
本当に故人を偲ぶ気持ちがあるのなら、
元気だった頃に一緒に撮った写真とか、
そういうものを選ぶのが自然だろう。

かつて、ある知人が、
彼の祖母が亡くなったことをブログで書き、
加えて病室で撮ったと思しき「脳波計・心電図」の写真を
「最後の証」などという陳腐なキャプションと共に載せたのを見かけ、
絶句したことがある。
意味がわからなかった。
長い付き合いだったが、正直人格を疑った。
「祖母が生きていた目に見える最後の証を掲載することで、これから先は、僕の思い出の中で祖母の生きた証を消さぬよう大切にしていこうという、それだけの思いです。」
というコメントからもうかがえるとおり、
やはり本人にはこの何が問題なのかは、まるで自覚できないのだ。

いい悪いとか、どうしてとかいう問題じゃない。
何の疑問もなくそれをやれる感覚は、やはりちょっとどうかしている。
SNSが日常に深く食いこむ社会では、
これからこんなことも当たり前になっていくのだろうか。
歯止めの利かない自己愛に、公共心や人間性が蝕まれていくようで、ちょっと怖い。