恥ずかしながら、僕にも大いに経験があることなので、
自戒を込めて書くが、
「仕事がかなり忙しいとき」
「仕事しすぎて疲れているとき」
は、SNSやブログの類を「一切書かない」に限る。
どんなに自分が忙しくしているか、だけど頑張っているか、
またどんなに自分が身体壊しているか、だけど頑張っているか、
書き方をどんなに工夫したつもりでも、
「忙しい自慢」と「かまってちゃん」が滲み出てしまうからだ。
これは書いているときには気づかないが、
あとあと心の平穏をとり戻したときに
読み返してみるとかなり恥ずかしい。
かくいう僕も消したくなるような過去のエントリがいくつかある。
忙し過ぎてストレスたまると、ついつい書きたくなってしまうのだ。
それはわかる。
でも、よく考えたら
「そんなに忙しいなら夜中にこんな余計なこと書いてないで早く寝ろよ」
が大正解なのだ。
身体のあちこちが痛い、変な咳が出た、いつも熱っぽい、
そういうのも「不治の持病」気取って自己演出してないで、
さっさと病院行けよって話なのよね。
「身体はボロボロだけど、それでもガンバル私の責任感」
なんて痛々しいだけ。
治す気ないくせに心配だけはして欲しいのかな?
あるいは結局単なる自己アピールなのか?…と勘ぐりたくなる。
「公共の場だから明るく前向きなことだけ書け」だなんて
くだらないことを言うつもりではない。
かなり主観的で微妙な境界線だけど、
「仕事に不満があるときその愚痴を書く」
「体調不良、病気診断の不安を書く」
のは個人的にアリだと思う。
書くことで不安やストレスを整理して緩和できる、
明らかな効用があると思われるから。
もちろん頻度にもよるけど。
なんだろね、素直に不安や不満を書いたり、
SOSを求めるのは人間らしくていいと思うんだけど、
「苦しんでるフリをして実はただの自慢」
とか
「困ってる体だけど誰の助言も聞かない」
≒「みんなに構って貰えるそのシチュエーションだけが欲しい」
というのに抵抗があるのかな。
まあ、あくまで感覚的なもので、線引きは難しいのは言うまでもないけど。
そもそも「仕事が忙しすぎて何もできない」なんてのは
タダの思い込みなんだよね。
人間にはそれぞれキャパってもんがあって、
それを越えたら絶対うまくいかないしどこかに迷惑かけるんだから、
そうならないように人を増やしてシェアするとか、
そういう工夫も仕事のうち。
「私じゃないとできない(からシェアしない)」なんてのも、
単なる思い込み。
人を育てる手間を面倒がっているか、
そんな自分に酔っているかのどちらか。
一種の共依存だと思うんだよね。
「自分にしかできない仕事」は確かにあると思うけど、
それだらけなんてのは明らかにおかしい。
「全部私がやらなきゃ」という強い思い込み、
それ自体がアイデンティティになってしまっていて、
また一種の快感にも連なっているというか。
依存されることに依存する。
依存されないともの足りないから、自分でわざわざそういう状況をつくる。
もしくは敢えて改善しない。
自分が自分を依存する。
だから、SNSとかに書いちゃうんだよ。
本当にやむを得ず忙しい人は、
その状況を何とか変えたいと思っているはずだから、
あまり人に話したいような場面ではないはずなんだよね。
そこを敢えて人目にさらすんだから、やはり目的はそこだよね。
(物理的に不可能という意味で)
できもしないことを反省点としてつらつら書き連ねてみたって、
何の進歩も期待できない。
ちゃんと休んで、心に余裕を持って、
人も育てて、うまくシェアして、イイ仕事しようぜ。