いぶろぐ

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「本物」とは単なる「好み」のことであったりするが

2011-01-17 15:12:15 | 似非哲学の部屋
何気なくつけたヒストリーチャンネルの、「アメリカの食事」が面白い。
さっきはコーンフレークの歴史、今はピザの歴史をやっている。
「イタリア発祥のアメリカの国民食」であるところのピザは、
イタリア系の移民が持ち込んだ初期の形から、
いかにもアメリカらしくアレンジされ、
現在我々が知るさまざまな種類のピザへと枝分かれしていった。

その過程で、新しいピザのアイデアが出されるたび、
「こんなのピザじゃない」
という保守層との軋轢がやはりあったという。
トマトソースじゃなきゃダメとか、切ってしまったらダメとか、
薪のオーブンじゃなきゃ、いや石炭だ、電気は論外だ、などなど。
今思うと、なんで?と思うような点もあるし、
ああ、今でもそういうこと言う人っているよなー、てなものまで。

たいがい、言い分としては
「あんなの偽物だ、邪道だ」「こちらが本物だ、正統だ」となるわけだが、
その認定は非常に難しいというか、実際はどうでもいい。
守旧派が噛みつく理由はこんなところだろうか。

1)本当に自分の方が美味しい、品質がいい
2)自分が慣れている味わい、価値観から抜け出せない
3)新しいものの方が優れているのが悔しい
4)新しいものを推す人々に誇りやこだわりを感じない

1)は実は2)であったりもするのだが、
長い年月の間で評価が確立していけば証明される。
だから焦ることなく、そう信じるのなら貫いていればいいことだ。
3)4)はありがちだ。
特に自分たちが苦労している面を鮮やかに省力的に解決してしまったものは、
素直に認めにくいだろう。
手間暇かけないものは魂が宿っていないとか何とか言いがかりをつけるわけだ。
伝統的なピザ屋は宅配を批判し、宅配は冷凍ピザを批判する。
しかし、魂が宿っているものを選ぶかどうかは、消費者が選択するところだ。
生産者が適当に、手間をかけず、イイトコドリの、いわばコピペ感覚でつくったものでも、
売れていればそれが現実の市場の評価ということになる。
音楽でも商品でもそうだろう、
売れているものを安易に批判するのは、消費者の否定につながる。

しかし。

市場の評価が、消費者が、常に正しいとは限らない。
それは数々の歴史が証明している。
大量生産品がもてはやされた後、手作り文化に回帰するなんてのもありがちな話だ。
「売れているからいいものだ」なんてのは、
思考停止した極端な民主主義・市場主義の狂信者の決まり文句だ。
やはり、何が本当にいいものなのか、見極める目は必要だろう。
「売れているから」という基準でものの良し悪しを語るのは、
品質を見抜く目が自分の中になく、判断の根拠もまた自分の中にない証明だろう。

というと、必ずこういう反論に出くわす。
「何が本物かなんて一概には言えない」
「人それぞれイイと感じるものは違う」
だから…何だというのだろう。
そんなものは万事議論における前提であって、結論ではない。
すぐにこういう言い方で、それまでの議論の積み重ねを突き崩すのは、
おおよそ賢明とは言えない。

世の中が多様な価値観であふれているのは自明のことであって、
その前提のもとで自分は何にベースを置いて、
何を信じて生きていくのか、ということが求められているのではないか。
それはもちろん、何が正解と言い切れないし、
選択の結果損な生き方を強いられることもあるだろう。
しかしそれも含めて自分の選んだ人生なのだ。
そういう覚悟もなく、ただ自分が貧乏くじを引きたくないばかりに、
勝ち馬に乗ろうとする、大きな流れに身を寄せようとする、
そういう小賢しさは、僕は嫌いだ。
むしろ狭小の誹りを甘んじて受けながら、
自分のこだわりに邁進する人の方にカッコ良さを覚えてしまう。

それを僕は本当の意味での「ROCK」だと考える。
単なる音楽の一ジャンルを表すものでもなく、ファッションでもない。
精神性だ。
守旧ということとも違う。
自分のこだわりを大切にして、古くても新しくても、
いいものはイイと判断し、場合によっては採り入れ、
そしてここが一番大事な点なのだが、
その過程で人の評価なんか気にしないと言うことだ。
究極的に頑固であるが故に、無尽の柔軟性を備えると言おうか。
それが僕の考える「ROCK」の至高の境地なのだ。

決して難しいことではない。
自然体で生きればいいだけだ。
これは「ROCK」か、そうでないか、そんなことも考えなくていい。
一切の基準を気にせず、自分らしく生きるというだけのことだ。
自分に正直に生きればいいし、人になんと思われようが関係ない。
自分にとって最良の(=結果にかかわらず納得のいく)選択のために、
主観と客観のバランスを取りながら、自分の位置や置かれた条件をよく考えて、
その上で自分の判断に自信と責任を持って臨めるかということだ。

しかし、この表層だけをなぞっていると、とんでもないカンチガイ人間になる。
自分独りだけで突出した生産性や、高い付加価値を生み出せるのであれば問題ない。
だがほとんどの場合、人間は協調が前提となる。
個人よりは組織であった方が、効率の面でも成果においても、
大きなものが期待できるのが普通だ。
だから、本当に自分の真価を発揮させようと思うなら、
本当の意味で自由に生きようと思うのならば、
安易な孤立を選ぶよりは、難しい舵取りの妙味を味わいながら、
自分らしく周囲と協調できる方策を探るべきだ。

ここは世間で価値があると思われているものを携えていた方が、
人の評価を得ていた方が、後々自分を貫く上でも有利だと思えば、
それすらありだ。
それは決して妥協でも保身でもない。
大きな戦略の中での戦術だ。
僕にとっては学歴であったり、定時に出社して仕事に従事し、
求められる役割を演ずるということも、その一環に過ぎない。
いつでも絶えずピリピリチクチクやり合うのは得策ではないし、
第一生きていてつまらない。
普段は周囲と上手に折り合いをつけ、
いざというときに自分を主張し、貫けるようにしておく、
そのための陣地は堅固に構築しておきたいし、
武器や味方は無いよりはあった方がいいし、少ないよりは多い方がいい。
それだけのことだ。

だから僕は、自分のこだわりが強すぎて、
それをコントロールできずにやたらと発散し、
組織の中で浮いてしまう人間もまた、ダメだと思っている。
すべてを自分の主観の中だけで判断してしまうこともまた、
すべてを他人の影響のもとで与えられていくということと同じく、
レベルの低い生き方だと僕は思う。

世間の価値観、周囲の意見というものは非常に強力なものだ。
だからそれに易々と屈しないだけの強い自分も築く必要がある。
だから僕は、どんなに流行っていても、売れていても、
僕の目でいいと思わなければ絶対に評価しない。
お前ごときに何がわかると揶揄されても屈しない。
人の意見を参考にはしても、依存はしない。
最終的に僕は僕の感覚を信じる。

これを僕は僕だけの特別な生き方だとは思わない。
「本物の」人間の在り方だと信じている。
今後も僕は本物だと思えるものを選び抜き、
本物だと思える人間と付き合っていきたい。