「価値観は人それぞれ」
「自分らしく」
まったく、仰るとおりなのだが、
それが単なる言い訳に使われてるような感じが否めない。
自分の思うとおりにならない、
周囲が自分を(自分が期待するほどに)評価してくれない、
などなど、
自分が望むとおりに、自分に都合の良い言動をとってくれないと、
やれ
「所詮人間は孤独だ」
「私は何者にもとらわれない自由人だ」
「誰がどう思おうと関係ない、私は私だ」
とかなんとか言い換えて、自分をごまかしてしまう。
自分の弱さや身勝手さを、自分の個性だと言い張って、
(あるいは本気で勘違いして)
自分の納得のいくように言葉遊びを始めてしまう。
それは一見自己主張のようでいて、何のことはない、自慰行為に過ぎないのだ。
十代のノートの片端ならいざ知らず、
いい大人が公の場でそういうことを言い始めると始末に負えない。
てかさ、さすがに飲み会とかでもそういう自分語りって寒くてイヤでしょ。
ところが最近ではブログやMIXIなど、自由に発言できる場があるから、
飲み会で恥ずかしくて言えないような自分語りを、そこでしちゃう。
これは奇妙な構図だよね。
また、そういうことを書き連ねる人に限って、
実社会ではだいたい「使えない」「仕事が出来ない」部類に入るのだが、
本人はそれを自覚していないケースがほとんどだろう。
むしろ、自分では無能な周囲よりも抜きん出ていると思い込んでいるだろう。
だからこそ、人物評価の話になると大げさに自己卑下したり、極端な謙遜をしたりする。
それは内心、そんなことないよ、あんたはすごいよと言って欲しいだけなのだが。
だから、そういう面倒なタイプの人には、
「いや、本当にそうだね、君はまったく大したことないね」
「俺だったらそんなことはしないなあ」
「周囲と同じようにできないんだから、やっぱり使えないんだね」
とか何とか適当に挑発してみると、猛然と反論を始めるから面白い。
「いや、でも私はこういう所は人と違う」
「別に組織の中で評価されようとは思っていない」
「私はこういう日本社会・企業風土には合っていない」
「競争ばかりで疲れた、もっと私らしい色で勝負したい」
(競争はイヤなのに勝負したいというのがまたよくわからないのだが)
などなど、陳腐で身勝手な言い訳が次々出てくる。
もちろん、言うだけで何もなしえないのだが。
だいたい、競争しないで生きていくなんて、無理でっせ。
森の中で鹿さんや熊さんやウサギさんやリスさんたちと、
楽しく歌って踊って暮らしていたいと言うがごとし。
ディズニーですか。
喰って喰われて成り立ってるのが自然界でしょう。
人間社会だって似たようなもんだよ。
僕の知る限り、本当に仕事の出来る人や頭のいい人というのは、
そういった自分の内面の弱さを、まず人目にさらすことがない。
自己弁護、自己防衛の必要がないからだろう。
あるいはその格好悪さをよく知っているから。
だからこういうことを語る人というのは、要は言い訳したいだけ。
心のバランスをとっているのだろう。
昔思い描いたほどに輝けない自分、周りと差のない自分、
地位や収入など数値で残酷に表されてしまうショボイ自分、
実は大したことなかった自分を、受け容れながら生きていくのは辛いことだ。
それでも生きていくためには希望というヤツが必要で、
数値的に恵まれたヤツはそれを他者との比較に見いだし、
恵まれないヤツは感性とかキャラとか、主観的で曖昧な基準にそれを求めるしかないのだろう。
無理もないことだ。
生まれてきた以上は、死ぬまで生きなければならないわけで、
辛いこともいっぱいある。
その中でどうやって自分をラクにするかというのは色々だ。
だから批判するのは簡単だが、おそらくは当の本人も必死なのだろう。
(注:特定の個人を指しているわけではないよ!一般論だ一般論。最近はちゃんと断っておかないと勝手に勘違いする人出てくるからなあ…)
かくいう僕だって、いぶろぐを読み返してみれば解るとおり、
辛いときにはこういった「自慰症候群」に襲われたから、
その気持ちはわからないでもない。
しかしどこかで気づかないとね。
ああ、自分また同じようなこと言ってる。
この間全然進歩してない。
目先の苦楽でわかった風なクチきいちゃってる、てね。
じゃなきゃ、成長がないでしょ。
いぶろぐの記事は、今読み返して恥ずかしいなあというのも相当数あるけれど、
基本的には敢えて、残してある。
これは人前でものを言うことの重さを自覚するのと共に、
かつての自分の言動を振り返ることで、今の自分を検証するためでもある。
最近は誰もがブログやMIXIを書いているが、
その人の一面であるかのようでいて、実は通底する深層心理というか、
その人の限界をも描き出しているようで、興味深い。
何年か過ぎても同じことを書いている人、
周期的に自慰記事を書いている人というのは、
あまり面白くない人であることが多いのだ。
だいたい、飲み屋でどんな話題になるか想像がつく感じ。
世俗の価値観や常識から逃れたいと思うあまり、かえってそれにとらわれてしまっている人とか、
無理に「変わってる人」をやろうとして、かえってお寒い人とか、
心がどうの、人間としてどうの、どうしようもなく抽象的な理想論しか語れない人とか、
まあそんな手合いだ。
言わせてもらえば、単純につまらないし、
だいいち、語るにしても勉強が足りない。
言葉がチープ。
論の展開に飛躍も多い。
喩えがつまらない。
自分がそれを吐き出すことに夢中で、どう伝わるかを考えてない。
要は、言うだけで気持ちよくなっちゃって、聞く方のことを考えない、
たとえて言えば風俗のような、自慰目的中心の対話といおうか。
ここが、僕はたまらなくイヤなんである。
偉そうなこと言うんなら、もっともっと勉強してから。
勉強ってのはあれですよ、知識を詰め込むという意味じゃないですよ。
たくさんの人や、それに代わりうる本や映画と出会って、
人生経験を積む、それに学ぶということですよ。
そうじゃないと、面白くないでしょ。
どうせ生きるなら、面白く生きたいじゃないですか。
それはやりたいことだけやって、遊んで暮らすなんて言う、
低レベルな話じゃないんですよ。
しっかり人生に学んでこそ、実現できるんだよ。
ここを勘違いしてる人、多いからなあ。
いい大人が、恥ずかしいですよ。
ま、とりあえず、わかりやすい基準で言うと、
飲み会で面白くない人は、ダメですね(笑)。
一滴も飲めない俺にこんなこと言われてるようじゃ、ダメなんですよ(笑)。
「自分らしく」
まったく、仰るとおりなのだが、
それが単なる言い訳に使われてるような感じが否めない。
自分の思うとおりにならない、
周囲が自分を(自分が期待するほどに)評価してくれない、
などなど、
自分が望むとおりに、自分に都合の良い言動をとってくれないと、
やれ
「所詮人間は孤独だ」
「私は何者にもとらわれない自由人だ」
「誰がどう思おうと関係ない、私は私だ」
とかなんとか言い換えて、自分をごまかしてしまう。
自分の弱さや身勝手さを、自分の個性だと言い張って、
(あるいは本気で勘違いして)
自分の納得のいくように言葉遊びを始めてしまう。
それは一見自己主張のようでいて、何のことはない、自慰行為に過ぎないのだ。
十代のノートの片端ならいざ知らず、
いい大人が公の場でそういうことを言い始めると始末に負えない。
てかさ、さすがに飲み会とかでもそういう自分語りって寒くてイヤでしょ。
ところが最近ではブログやMIXIなど、自由に発言できる場があるから、
飲み会で恥ずかしくて言えないような自分語りを、そこでしちゃう。
これは奇妙な構図だよね。
また、そういうことを書き連ねる人に限って、
実社会ではだいたい「使えない」「仕事が出来ない」部類に入るのだが、
本人はそれを自覚していないケースがほとんどだろう。
むしろ、自分では無能な周囲よりも抜きん出ていると思い込んでいるだろう。
だからこそ、人物評価の話になると大げさに自己卑下したり、極端な謙遜をしたりする。
それは内心、そんなことないよ、あんたはすごいよと言って欲しいだけなのだが。
だから、そういう面倒なタイプの人には、
「いや、本当にそうだね、君はまったく大したことないね」
「俺だったらそんなことはしないなあ」
「周囲と同じようにできないんだから、やっぱり使えないんだね」
とか何とか適当に挑発してみると、猛然と反論を始めるから面白い。
「いや、でも私はこういう所は人と違う」
「別に組織の中で評価されようとは思っていない」
「私はこういう日本社会・企業風土には合っていない」
「競争ばかりで疲れた、もっと私らしい色で勝負したい」
(競争はイヤなのに勝負したいというのがまたよくわからないのだが)
などなど、陳腐で身勝手な言い訳が次々出てくる。
もちろん、言うだけで何もなしえないのだが。
だいたい、競争しないで生きていくなんて、無理でっせ。
森の中で鹿さんや熊さんやウサギさんやリスさんたちと、
楽しく歌って踊って暮らしていたいと言うがごとし。
ディズニーですか。
喰って喰われて成り立ってるのが自然界でしょう。
人間社会だって似たようなもんだよ。
僕の知る限り、本当に仕事の出来る人や頭のいい人というのは、
そういった自分の内面の弱さを、まず人目にさらすことがない。
自己弁護、自己防衛の必要がないからだろう。
あるいはその格好悪さをよく知っているから。
だからこういうことを語る人というのは、要は言い訳したいだけ。
心のバランスをとっているのだろう。
昔思い描いたほどに輝けない自分、周りと差のない自分、
地位や収入など数値で残酷に表されてしまうショボイ自分、
実は大したことなかった自分を、受け容れながら生きていくのは辛いことだ。
それでも生きていくためには希望というヤツが必要で、
数値的に恵まれたヤツはそれを他者との比較に見いだし、
恵まれないヤツは感性とかキャラとか、主観的で曖昧な基準にそれを求めるしかないのだろう。
無理もないことだ。
生まれてきた以上は、死ぬまで生きなければならないわけで、
辛いこともいっぱいある。
その中でどうやって自分をラクにするかというのは色々だ。
だから批判するのは簡単だが、おそらくは当の本人も必死なのだろう。
(注:特定の個人を指しているわけではないよ!一般論だ一般論。最近はちゃんと断っておかないと勝手に勘違いする人出てくるからなあ…)
かくいう僕だって、いぶろぐを読み返してみれば解るとおり、
辛いときにはこういった「自慰症候群」に襲われたから、
その気持ちはわからないでもない。
しかしどこかで気づかないとね。
ああ、自分また同じようなこと言ってる。
この間全然進歩してない。
目先の苦楽でわかった風なクチきいちゃってる、てね。
じゃなきゃ、成長がないでしょ。
いぶろぐの記事は、今読み返して恥ずかしいなあというのも相当数あるけれど、
基本的には敢えて、残してある。
これは人前でものを言うことの重さを自覚するのと共に、
かつての自分の言動を振り返ることで、今の自分を検証するためでもある。
最近は誰もがブログやMIXIを書いているが、
その人の一面であるかのようでいて、実は通底する深層心理というか、
その人の限界をも描き出しているようで、興味深い。
何年か過ぎても同じことを書いている人、
周期的に自慰記事を書いている人というのは、
あまり面白くない人であることが多いのだ。
だいたい、飲み屋でどんな話題になるか想像がつく感じ。
世俗の価値観や常識から逃れたいと思うあまり、かえってそれにとらわれてしまっている人とか、
無理に「変わってる人」をやろうとして、かえってお寒い人とか、
心がどうの、人間としてどうの、どうしようもなく抽象的な理想論しか語れない人とか、
まあそんな手合いだ。
言わせてもらえば、単純につまらないし、
だいいち、語るにしても勉強が足りない。
言葉がチープ。
論の展開に飛躍も多い。
喩えがつまらない。
自分がそれを吐き出すことに夢中で、どう伝わるかを考えてない。
要は、言うだけで気持ちよくなっちゃって、聞く方のことを考えない、
たとえて言えば風俗のような、自慰目的中心の対話といおうか。
ここが、僕はたまらなくイヤなんである。
偉そうなこと言うんなら、もっともっと勉強してから。
勉強ってのはあれですよ、知識を詰め込むという意味じゃないですよ。
たくさんの人や、それに代わりうる本や映画と出会って、
人生経験を積む、それに学ぶということですよ。
そうじゃないと、面白くないでしょ。
どうせ生きるなら、面白く生きたいじゃないですか。
それはやりたいことだけやって、遊んで暮らすなんて言う、
低レベルな話じゃないんですよ。
しっかり人生に学んでこそ、実現できるんだよ。
ここを勘違いしてる人、多いからなあ。
いい大人が、恥ずかしいですよ。
ま、とりあえず、わかりやすい基準で言うと、
飲み会で面白くない人は、ダメですね(笑)。
一滴も飲めない俺にこんなこと言われてるようじゃ、ダメなんですよ(笑)。
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