いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

不惑

2015-12-30 14:34:23 | 超・いぶたろう日記
…と呼ばれる年齢になってみて、実感すること多々。
何も変わらないような気でいても、やはり心身共に確実に年齢は重ねているし、
何より周囲と自分との社会的な関係性も年齢相応に変化している。
その自覚なしに昔と同じままにふるまうのは「若さ」と呼べるだろうか。
成長や進歩がないというだけではないだろうか。
外見ばっかり意識した「アンチエイジング」はやたらもてはやされるが、
見た目がどんなに若々しくとも、
年齢相応の思慮・分別の備わっていない人を尊敬できるだろうか。
この点、心の上手なエイジングは必要なのではないだろうか。

ふと周囲を見ていて思うのは、他人からの注意や叱責に対する耐性、
これはとても大事だなということ。
これがないまま歳とっちゃうと、
謝るより先に言い訳やら反論やら、グダグダやってしまう。
しかも本人にはまるで自覚がない。
正当な言い分のつもりでいる。

すると、周りはもう何も言いたくなくなっちゃうんだよね。
だからタダでさえ年齢を重ねて、忠告してくれる人は数少なくなってるのに、
自分の弱点を改善する機会にも恵まれなくなるし、
何より周りから敬遠されちゃうので、だんだん孤独に陥っていく。
すると悪循環でまずますコミュニケーションがとれなくなって、
誰の目にも見苦しい「老害」が完成していく。
しかし、ここに至ってもおそらく何の自覚もないまま。
恐ろしいことだ。

実際、誰も人のことなどそんなに構ってられないんだから、
他人からどう見えているかには、誤解が混じっているのがデフォルト。
自分の真意はどうとか、事実はこうだとか、
その証明とか説明とか、周囲にとってはどうでもいいことがほとんど。

だからいちいち気にしないで、
「ハイわかりましたーすんませーん」
で済ませちゃえばいい話。
それを難しい顔して、いかにも不服ですって態度に出しちゃうのは、
やっぱり「メンドクサイ人」になっちゃうよなあ。

自尊心のつもりが尊大さや傲慢さになって表れていないか。
何でも言うのが自分流だとか誠意だとか、
勝手な言い訳しながら、一方的に理解を要求する態度になっていないか。

そんな風に自分を客観的に省みる視座を担保していないとね。
まだまだ不惑の境地にはほど遠いけれど、老害にだけはなりたくない。
あくまでも自戒として。