…と呼ばれる年齢になってみて、実感すること多々。
何も変わらないような気でいても、やはり心身共に確実に年齢は重ねているし、
何より周囲と自分との社会的な関係性も年齢相応に変化している。
その自覚なしに昔と同じままにふるまうのは「若さ」と呼べるだろうか。
成長や進歩がないというだけではないだろうか。
外見ばっかり意識した「アンチエイジング」はやたらもてはやされるが、
見た目がどんなに若々しくとも、
年齢相応の思慮・分別の備わっていない人を尊敬できるだろうか。
この点、心の上手なエイジングは必要なのではないだろうか。
ふと周囲を見ていて思うのは、他人からの注意や叱責に対する耐性、
これはとても大事だなということ。
これがないまま歳とっちゃうと、
謝るより先に言い訳やら反論やら、グダグダやってしまう。
しかも本人にはまるで自覚がない。
正当な言い分のつもりでいる。
すると、周りはもう何も言いたくなくなっちゃうんだよね。
だからタダでさえ年齢を重ねて、忠告してくれる人は数少なくなってるのに、
自分の弱点を改善する機会にも恵まれなくなるし、
何より周りから敬遠されちゃうので、だんだん孤独に陥っていく。
すると悪循環でまずますコミュニケーションがとれなくなって、
誰の目にも見苦しい「老害」が完成していく。
しかし、ここに至ってもおそらく何の自覚もないまま。
恐ろしいことだ。
実際、誰も人のことなどそんなに構ってられないんだから、
他人からどう見えているかには、誤解が混じっているのがデフォルト。
自分の真意はどうとか、事実はこうだとか、
その証明とか説明とか、周囲にとってはどうでもいいことがほとんど。
だからいちいち気にしないで、
「ハイわかりましたーすんませーん」
で済ませちゃえばいい話。
それを難しい顔して、いかにも不服ですって態度に出しちゃうのは、
やっぱり「メンドクサイ人」になっちゃうよなあ。
自尊心のつもりが尊大さや傲慢さになって表れていないか。
何でも言うのが自分流だとか誠意だとか、
勝手な言い訳しながら、一方的に理解を要求する態度になっていないか。
そんな風に自分を客観的に省みる視座を担保していないとね。
まだまだ不惑の境地にはほど遠いけれど、老害にだけはなりたくない。
あくまでも自戒として。
何も変わらないような気でいても、やはり心身共に確実に年齢は重ねているし、
何より周囲と自分との社会的な関係性も年齢相応に変化している。
その自覚なしに昔と同じままにふるまうのは「若さ」と呼べるだろうか。
成長や進歩がないというだけではないだろうか。
外見ばっかり意識した「アンチエイジング」はやたらもてはやされるが、
見た目がどんなに若々しくとも、
年齢相応の思慮・分別の備わっていない人を尊敬できるだろうか。
この点、心の上手なエイジングは必要なのではないだろうか。
ふと周囲を見ていて思うのは、他人からの注意や叱責に対する耐性、
これはとても大事だなということ。
これがないまま歳とっちゃうと、
謝るより先に言い訳やら反論やら、グダグダやってしまう。
しかも本人にはまるで自覚がない。
正当な言い分のつもりでいる。
すると、周りはもう何も言いたくなくなっちゃうんだよね。
だからタダでさえ年齢を重ねて、忠告してくれる人は数少なくなってるのに、
自分の弱点を改善する機会にも恵まれなくなるし、
何より周りから敬遠されちゃうので、だんだん孤独に陥っていく。
すると悪循環でまずますコミュニケーションがとれなくなって、
誰の目にも見苦しい「老害」が完成していく。
しかし、ここに至ってもおそらく何の自覚もないまま。
恐ろしいことだ。
実際、誰も人のことなどそんなに構ってられないんだから、
他人からどう見えているかには、誤解が混じっているのがデフォルト。
自分の真意はどうとか、事実はこうだとか、
その証明とか説明とか、周囲にとってはどうでもいいことがほとんど。
だからいちいち気にしないで、
「ハイわかりましたーすんませーん」
で済ませちゃえばいい話。
それを難しい顔して、いかにも不服ですって態度に出しちゃうのは、
やっぱり「メンドクサイ人」になっちゃうよなあ。
自尊心のつもりが尊大さや傲慢さになって表れていないか。
何でも言うのが自分流だとか誠意だとか、
勝手な言い訳しながら、一方的に理解を要求する態度になっていないか。
そんな風に自分を客観的に省みる視座を担保していないとね。
まだまだ不惑の境地にはほど遠いけれど、老害にだけはなりたくない。
あくまでも自戒として。