昔、高校の頃、漠然とだけど、
神様は「ドーナツの穴」のようなもんだな、と思ったことがある。
何も「ない」ところを指して、穴が「ある」と言うところからね。
輪(=自分・人間)を食べてしまうと何も残らないし、
穴を埋めてしまうとそれはもはやドーナツとは呼べないし、
けれど「あんドーナツ」という生き方もありだし、
果たして穴なしのそれがドーナツらしいかどうかも含め、
穴をどれくらいの大きさで持つか、
あるいは持たないかは自分次第、自由だな、と。
穴という形で対象化している「無」について、
存在・非存在を論じてもしょうがないかな、ということだね。
穴の形は人間の在り方によって変化するだろうし、
倫理や道徳の基準としてもだけど、
時に盲目的な背徳や不正義の原動力にもなるから、
まさしく宗教の有り様は人間そのもの。
神や宗教というわかりやすい形でなくとも、
替わりうる「信じる何か」は人それぞれ必ずあるしね。
まあ、これくらいのことは高校生ぐらいまでに、
考えてみてもイイテーマではあるね。
神様は「ドーナツの穴」のようなもんだな、と思ったことがある。
何も「ない」ところを指して、穴が「ある」と言うところからね。
輪(=自分・人間)を食べてしまうと何も残らないし、
穴を埋めてしまうとそれはもはやドーナツとは呼べないし、
けれど「あんドーナツ」という生き方もありだし、
果たして穴なしのそれがドーナツらしいかどうかも含め、
穴をどれくらいの大きさで持つか、
あるいは持たないかは自分次第、自由だな、と。
穴という形で対象化している「無」について、
存在・非存在を論じてもしょうがないかな、ということだね。
穴の形は人間の在り方によって変化するだろうし、
倫理や道徳の基準としてもだけど、
時に盲目的な背徳や不正義の原動力にもなるから、
まさしく宗教の有り様は人間そのもの。
神や宗教というわかりやすい形でなくとも、
替わりうる「信じる何か」は人それぞれ必ずあるしね。
まあ、これくらいのことは高校生ぐらいまでに、
考えてみてもイイテーマではあるね。