いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

うーーーーん。

2011-09-11 15:01:19 | 超・いぶたろう日記
早いもので、震災から半年。
ということで被災地では午後2時46分にサイレンが鳴り、黙祷が行われたらしい。
このこと自体は個々人の心の問題だと思うので、
どうのこうの言ってもしょうがないと思う。
しかしそれをテレビがいかにも神妙な顔で採り上げることには、
やはり違和感を覚えてしまう。
「まもなく午後2時46分、震災から半年」
なんて字幕がおどり、お通夜みたいな顔したキャスターが無難なコメントを発し、
そして被災者たちの今後への思いをフリップに書かせ、紹介する。
もちろん抽象的で前向きなコメントばかりだ。

NHKと日テレがそれをやったわけだが、
なんて言うんだろう、
どうも節目好き、記念日好き、アニバーサリー好きの第三者が、
半ば義務感先行でやっているようにしか思えないのだ。
だって半年だよ。
節目と言うには短すぎるんじゃないか。
だいたい日付も違うし、その時刻に焦点あてるのはちょっと強引な感じもする。

そもそも、僕はこうやってセレモニー的に振り返るのは、
もっとずっと先でいいじゃないかと思っている。
記念日というものは、例えば原爆の日や終戦記念日がそうであるように、
過去の犠牲や被害や過ちが色あせないように、
それらを忘れないために、節目の日にみんなで振り返るというものだ。
震災の被害はまだまだ現在進行形で、苦しい思いをしている人も多いはずで、
中にはまだ過去のこととして振り返れない人もいるはずだ。
午後2時46分にサイレンなんて、まだ早いんじゃないか。
あの瞬間の恐怖とか、心が締め付けられるような感じが蘇る人もいるのでは。
まだまだ、一律にやれるような段階ではないと思うのだ。

振り返るな、と言うのではない。
ああ、もう半年も経ったのか、という感慨の下に、
個人個人がどう行動するかはまだ一律でなくていいと思うだけ。
被災者がそっと胸の内であの日を、亡き人を偲ぶ、
周囲はそれをそっと見守る、
それで充分じゃないかと思うのだ。
まして被災者でもない人間が、イベントみたいに騒ぐのはどうかと思うのだ。
それを話題にしないといけないかのような同調圧力もどうかと思う。
敢えて振り返らず、ただ与えられた日常を懸命に生きるのだってありだ。
忙しい日々に埋没することで、気持ちに折り合いをつけている人もいるはずだ。
まだまだ誰も一括りには出来ないのだ。

そしてもうひとつ。
震災発生時刻は象徴的なところだから、そこで黙祷を捧げるのはいいのだけど、
気持ちのやり場という意味ではともかく、
その時刻だけに話題の焦点を絞るのはどうかと思う。
だって、その時刻にはまだ、生きている人がほとんどだったはず。
その後の1時間が、生死の境目を無情に引いた。
その明暗を分けたものは何だったのか、午後2時46分だけを考えていてもわからない。
それはつまり、すべての問題を天災という「どうしようもないもの」に集約しようとする、
後ろ向きの発想にもつながりかねない。

他に考えるべきことはたくさんある。
地震や津波発生時の避難態勢、防災の備え、
国や自治体の取り組み、住民の意識、判断、行動。
後付けや結果論で非難するのは簡単だ、誰でも出来る。
ただ、2万人の被害者を生んだということは、ケーススタディも相当な数に及ぶはずで、
それらについてしっかり、学んでおくということは重要なのではないか。
まして大規模な余震の発生や別エリアの大震災も危惧されている現状では、
過去を情緒的に振り返るばかりではなく、それこそ過去に学び未来に備えることが、
早急に求められるのではないか。

そして、もうひとつの現在進行形、原発事故。
きっかけこそ天災だが、この事故は明らかに人災だ。
今後何十年もかけて、犠牲者は増えていく。
これについてもごまかしなしで検証していくことが必要だろう。
ともかく僕は、エモーショナルな方向でごまかされてしまう日本社会というのが、
もうイヤでたまらない。

たとえば被災地からの中継で「放射能に負けない」との抱負に出会う。
強い危惧を覚える。
放射能は素人が勝負していい相手ではない。
気持ちの持ち方でどうにかなるものでもない。
正しい知識と対策だけが求められる。
だいたい、「負けない」って具体的にはどうするつもりなのか。
暫定規制値以下だから喰え、健康に影響ないから住め、
とにかく国は「除染」を急げ、と喚くだけなら、それを前向きとは言わない。
いい加減、変わらなければならない。

今日は誤解を招きそうな内容だ。
でも、敢えて書いている。

言うまでもないが、今日という日に犠牲者を偲ぶことについて異論があるのではない。
ただ、それだけを話題にすることで、ぼやかされてしまうものがあってはならないとだけ思う。
東日本大震災は、厳しい現実社会の中で、
独占的な繁栄と、独善的な世界観と、独特の温室幻想とに、
長らく溺れて来た日本人に突きつけられた、変革のチャンスだ。
すでに歴史となっている原爆や戦争を振り返るのとはまた少し違う形で、
震災(それは今なお重くのしかかっている)からの「節目」を捉えなくてはいけないのではないか。
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