不謹慎な楽観も不安を煽る悲観も批判され、警戒も安心も許されない。
「世の中は 行くな戻るな居座るな 寝るな起きるな立つな座るな」か。
原発反対と安易に言えないが、
半永久的な管理を必要とする放射性廃棄物の問題がある限り、
積極的に賛成はできない。
かといって有効な代替手段の見当たらない現時点で、
僕もふくむ、短期の停電にすら堪えられぬ現代社会が、
原発以外の選択肢を取れるとも思えない。
僕の立場はおそらく一般的多数と同じく、
「消極的賛成を余儀なくされている」といったところか。
どんな組織であろうと所詮は個人の集まりだ。
そして個人とはすなわち有限の生き物である人間だ。
数十年の寿命しかない人間が、
それより遙かに長い時間にわたる放射性廃棄物の管理を考えることに、
そもそも無理がある。
現実感覚がわかなさすぎて、とても机上の計算の域を出られない。
緻密な計算はときに人間らしい感情すら麻痺させる。
原発を「頭」で考えれば使わざるを得ない。
「心」で考えれば使いたくない。
論理と感情だから、原発をめぐる世論がかみ合わないのは必然か。
これは最近の放射性物質の話題についても同じことが言える。
原発技術の向上も、計算上のリスクの低さも、
資源不足も、代替手段の乏しさも、頭では理解している。
しかし、数万年もの管理を要するという放射性廃棄物については、
理解しきれずにいる。
僕ごときの理解をはるか超えるような、
ものすごい技術があるのだろうか。あるといいのだが。
原発推進派には、
反対派を「無知が故の批判」であるとする向きもあるようだ。
では、推進派は、原発の存続に必要な労働者の実態について、
どれほど知っているのだろうか。
炉心近くで何も知らさず働かされ、
放射線障害に悩む人も少なくないと聴くが、
どうなのか。
知らないでいるのか、目をつむっているのか。
彼らの犠牲に目をつむっているという点では、
原発の生み出す電力に依存して、
散々利便を享受してきた我々も同罪だろう。
いまのいまだってそうだ。
現場で命がけの作業に当たっている人の実態も知らないで、
或いは知ろうとしないで、知っていても知らんフリして、
我が身の安全ばかり心配している。
現在の繁栄を継続するため、原発もやむを得ない、
という主張はわかる。
しかしそれにはそこで働く、周囲に住む、
少なくない人間の小さくない犠牲を前提としている、
ということについてぼやかすべきではない。
見返りの有無にすり替えるべきではない。
「最小不幸社会」とは、そういう意味なのか?
振り返り見て、人類の歴史は結局、誰かの犠牲の上に立つ誰かの繁栄だった。
しかし、そんな理屈で自分をごまかし、現状を看過していいものだろうか。
理想論なのはわかっている。すべての人間が幸福になどなれないことぐらい知っている。
だけれど僕は犠牲になっている人がいるとわかっていてなお、
安易に原発を「擁護」「推進」する立場には立てない。
自覚している。偽善者との誹りは免れ得ないだろう。
だって現実的代替案も解決策も、何も持ち得ず、
それでいていまの生活レベルを落とすことにも消極的で、
後ろめたさのあまり、こういうことを書いて、
人間性、心のバランスをとろうとしているだけなのだから。
現状を打破する知恵も力もない。
不足に甘んじる忍耐もない。
それでいて良心は疼かせている。
勝手なものだ。
それでも、僕はやはり肯定することはできない。
僕の中で「本能的理性」(矛盾した言い方だが)とでも呼ぶべき何かが、
原発賛美を拒んでいる。
「原発を否定したいのか、そうか。じゃあ、全廃したとして、これからどうするんだ?」
という問いに答える術を持たないことが、ただひたすらに悔しい。
原発。
罪業の上の繁栄。
すなわち人間の歴史そのもの。
最後に突きつけられた、究極の問い。
どうしたらいいんだろう、本当に。
しかしこの悩みも、迷いも、煩悶も、あと数十年だ。
僕はそれ以上生きていない。
その後も数万年間、放射能は存在し続け、子孫は悩み続けるが、
僕はそれを何ともしてあげられない。
それに負けて、現状を肯定するしかなくなっていく。
僕の原発への不信感は、無知による杞憂なのだろうか。
僕の感じている痛みは、圧倒的な知によって癒されるのだろうか。
「知」とは、麻酔薬なのではあるまいか。
「世の中は 行くな戻るな居座るな 寝るな起きるな立つな座るな」か。
原発反対と安易に言えないが、
半永久的な管理を必要とする放射性廃棄物の問題がある限り、
積極的に賛成はできない。
かといって有効な代替手段の見当たらない現時点で、
僕もふくむ、短期の停電にすら堪えられぬ現代社会が、
原発以外の選択肢を取れるとも思えない。
僕の立場はおそらく一般的多数と同じく、
「消極的賛成を余儀なくされている」といったところか。
どんな組織であろうと所詮は個人の集まりだ。
そして個人とはすなわち有限の生き物である人間だ。
数十年の寿命しかない人間が、
それより遙かに長い時間にわたる放射性廃棄物の管理を考えることに、
そもそも無理がある。
現実感覚がわかなさすぎて、とても机上の計算の域を出られない。
緻密な計算はときに人間らしい感情すら麻痺させる。
原発を「頭」で考えれば使わざるを得ない。
「心」で考えれば使いたくない。
論理と感情だから、原発をめぐる世論がかみ合わないのは必然か。
これは最近の放射性物質の話題についても同じことが言える。
原発技術の向上も、計算上のリスクの低さも、
資源不足も、代替手段の乏しさも、頭では理解している。
しかし、数万年もの管理を要するという放射性廃棄物については、
理解しきれずにいる。
僕ごときの理解をはるか超えるような、
ものすごい技術があるのだろうか。あるといいのだが。
原発推進派には、
反対派を「無知が故の批判」であるとする向きもあるようだ。
では、推進派は、原発の存続に必要な労働者の実態について、
どれほど知っているのだろうか。
炉心近くで何も知らさず働かされ、
放射線障害に悩む人も少なくないと聴くが、
どうなのか。
知らないでいるのか、目をつむっているのか。
彼らの犠牲に目をつむっているという点では、
原発の生み出す電力に依存して、
散々利便を享受してきた我々も同罪だろう。
いまのいまだってそうだ。
現場で命がけの作業に当たっている人の実態も知らないで、
或いは知ろうとしないで、知っていても知らんフリして、
我が身の安全ばかり心配している。
現在の繁栄を継続するため、原発もやむを得ない、
という主張はわかる。
しかしそれにはそこで働く、周囲に住む、
少なくない人間の小さくない犠牲を前提としている、
ということについてぼやかすべきではない。
見返りの有無にすり替えるべきではない。
「最小不幸社会」とは、そういう意味なのか?
振り返り見て、人類の歴史は結局、誰かの犠牲の上に立つ誰かの繁栄だった。
しかし、そんな理屈で自分をごまかし、現状を看過していいものだろうか。
理想論なのはわかっている。すべての人間が幸福になどなれないことぐらい知っている。
だけれど僕は犠牲になっている人がいるとわかっていてなお、
安易に原発を「擁護」「推進」する立場には立てない。
自覚している。偽善者との誹りは免れ得ないだろう。
だって現実的代替案も解決策も、何も持ち得ず、
それでいていまの生活レベルを落とすことにも消極的で、
後ろめたさのあまり、こういうことを書いて、
人間性、心のバランスをとろうとしているだけなのだから。
現状を打破する知恵も力もない。
不足に甘んじる忍耐もない。
それでいて良心は疼かせている。
勝手なものだ。
それでも、僕はやはり肯定することはできない。
僕の中で「本能的理性」(矛盾した言い方だが)とでも呼ぶべき何かが、
原発賛美を拒んでいる。
「原発を否定したいのか、そうか。じゃあ、全廃したとして、これからどうするんだ?」
という問いに答える術を持たないことが、ただひたすらに悔しい。
原発。
罪業の上の繁栄。
すなわち人間の歴史そのもの。
最後に突きつけられた、究極の問い。
どうしたらいいんだろう、本当に。
しかしこの悩みも、迷いも、煩悶も、あと数十年だ。
僕はそれ以上生きていない。
その後も数万年間、放射能は存在し続け、子孫は悩み続けるが、
僕はそれを何ともしてあげられない。
それに負けて、現状を肯定するしかなくなっていく。
僕の原発への不信感は、無知による杞憂なのだろうか。
僕の感じている痛みは、圧倒的な知によって癒されるのだろうか。
「知」とは、麻酔薬なのではあるまいか。