のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は滋賀賢長浜市の大寺院「大通寺」です。
「豊臣秀吉」の居城として有名な「長浜城」
…そちらへ行ったら、ぜひぜひ立ち寄ってほしいお寺がこちら、「大通寺」なのです。
お寺自身もそうですが、山門前に広がる門前町「ながはま御坊表参道」には様々な店が懐かしい雰囲気を残したままの良い風情で、気持ちから歴史にどっぷりと浸れます。
オススメですよん。
さて、そんな訳で、別名を「長浜御坊(ながはまごぼう)」、正式名は「真宗大谷派長浜別院大通寺」です。
…長浜御坊?
そうした単語で引っ掛かった貴方は、ひでると同じ戦国ファン。
そうなんです、こちらはお寺というより歴史好きな方が狂喜乱舞する(かもしれない)お寺なのでした。
浄土真宗の布教をする異人「蓮如上人」(※信長の野望ちっくに言うと「本願寺兼壽」)
当時の近江国(滋賀県)は、最大の布教拠点でした。
そのうち、坂田、浅井、伊香という湖北三郡ではよく教えは浸透し、いつしか”真宗王国”と呼ばれるほどになるのです。
そちら湖北三郡の中核が、「長浜の御坊さん」と呼ばれていた、こちら「大通寺」だったのです。
もともと、こちらはいわゆる寺ではありませんでした。
天正時代の初期頃ということですから、まさに戦国時代の真っただ中のこと。
天下統一をすすめる時の権力者「織田信長」は、ある難敵に出会っておりました。
信長と対決した武将らは色々おりますが、おそらく信長当人がもっとも嫌だった(と思う)のが、石山本願寺を本拠とする、一向衆(一向宗)門徒でしょう。
戦国好きにはお馴染みですね。
さて、信長と対立する、一向衆は本願寺一派。
滋賀の僧たちが”籠城した「石山本願寺」の支援の協議を行う”ため、長浜に寄合道場を設置したんですが…これが「大通寺」の起こりなのでした。
当ブログで紹介した寺院中で、最も純粋でない切っ掛けなのですよ(笑)
まぁ、戦国時代ですからねー。
天正八年(1580)
当時の本願寺法主「顕如上人(※信長の野望ちっくに言うと「本願寺光佐」)」と信長の間には和睦が成立しました。
約十年という長期戦であった「石山合戦」はこうして終結したのです。
しかし、その嫡男「教如上人(※信長の野望ちっくに言うと「本願寺光寿」)」はあくまでも徹底抗戦を主張。
こちらの「大通寺」もそれに応じ、「教如上人」と共に戦ったのでした。
(※さらに一部では籠城戦が続いていたのだとか…)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/e2/a543b35d54e8fc9d9d32ddd8f733f6ed.jpg)
※ながはま御坊表参道からの風景です。
慶長七年(1602)
「徳川家康」より許可を得た「教如上人」は側近を集め、別に大谷派本願寺(東本願寺)を興しました。
これが本願寺分立の切っ掛けなのです。
それに合わせ、長浜の旧地に移っていたこちらも道場から「無礙智山(むげちざん)大通寺」と号する寺院として発足したのです。
以後、彦根藩「井伊直孝」の援助を得るなどして発展し、真宗大谷派の別格寺院となっていくのでした。
そんな、歴史要素いっぱいな「大通寺」
脇門はなんと旧長浜城の大手門、梵鐘は南北朝時代のもので県指定。
遠くからも目を引く立派な山門は江戸時代のもので、なんと三十三年もかかったという巨大建築物になっています。
ぜひ、歴史要素がいっぱいにつまった、こちらを訪れてみて下さい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_do.gif)
[住所]
大通寺 滋賀県長浜市元浜町32-9
[関連記事] 【名僧・怪僧・奇僧…僧特集】
⇒ 僧侶と官位・階級 (ひでる仏教講座)
⇒ イケてる仏師「運慶」(※金沢文庫で48年ぶり真作)
⇒ 密教と言えばこの人「弘法大師」 (1 ・ 2 ・ 3)
⇒ 修験道の開祖 「役小角」 (1 ・ 2 ・ 3)
⇒ 盲目の名僧 「鑑真和上」 (1 ・ 2 ・ 3)
⇒ 踊り念仏「空也上人」(京都・六波羅蜜寺)
⇒ ゲゲゲの「小野篁」 (前編 ・ 後編)
⇒ 中世の名僧 「夢窓国師」 (前編 ・ 後編)
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※追加情報をば。
本願寺でプレイしても、任意に”一向一揆”は起こせませんでした。(自動になる)
残念!
また、合戦では政治・教養の高い武将を連れていけば計略系の戦術を避ける確率が上がるようでした。
本日は滋賀賢長浜市の大寺院「大通寺」です。
「豊臣秀吉」の居城として有名な「長浜城」
…そちらへ行ったら、ぜひぜひ立ち寄ってほしいお寺がこちら、「大通寺」なのです。
お寺自身もそうですが、山門前に広がる門前町「ながはま御坊表参道」には様々な店が懐かしい雰囲気を残したままの良い風情で、気持ちから歴史にどっぷりと浸れます。
オススメですよん。
さて、そんな訳で、別名を「長浜御坊(ながはまごぼう)」、正式名は「真宗大谷派長浜別院大通寺」です。
…長浜御坊?
そうした単語で引っ掛かった貴方は、ひでると同じ戦国ファン。
そうなんです、こちらはお寺というより歴史好きな方が狂喜乱舞する(かもしれない)お寺なのでした。
浄土真宗の布教をする異人「蓮如上人」(※信長の野望ちっくに言うと「本願寺兼壽」)
当時の近江国(滋賀県)は、最大の布教拠点でした。
そのうち、坂田、浅井、伊香という湖北三郡ではよく教えは浸透し、いつしか”真宗王国”と呼ばれるほどになるのです。
そちら湖北三郡の中核が、「長浜の御坊さん」と呼ばれていた、こちら「大通寺」だったのです。
もともと、こちらはいわゆる寺ではありませんでした。
天正時代の初期頃ということですから、まさに戦国時代の真っただ中のこと。
天下統一をすすめる時の権力者「織田信長」は、ある難敵に出会っておりました。
信長と対決した武将らは色々おりますが、おそらく信長当人がもっとも嫌だった(と思う)のが、石山本願寺を本拠とする、一向衆(一向宗)門徒でしょう。
戦国好きにはお馴染みですね。
さて、信長と対立する、一向衆は本願寺一派。
滋賀の僧たちが”籠城した「石山本願寺」の支援の協議を行う”ため、長浜に寄合道場を設置したんですが…これが「大通寺」の起こりなのでした。
当ブログで紹介した寺院中で、最も純粋でない切っ掛けなのですよ(笑)
まぁ、戦国時代ですからねー。
天正八年(1580)
当時の本願寺法主「顕如上人(※信長の野望ちっくに言うと「本願寺光佐」)」と信長の間には和睦が成立しました。
約十年という長期戦であった「石山合戦」はこうして終結したのです。
しかし、その嫡男「教如上人(※信長の野望ちっくに言うと「本願寺光寿」)」はあくまでも徹底抗戦を主張。
こちらの「大通寺」もそれに応じ、「教如上人」と共に戦ったのでした。
(※さらに一部では籠城戦が続いていたのだとか…)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/e2/a543b35d54e8fc9d9d32ddd8f733f6ed.jpg)
※ながはま御坊表参道からの風景です。
慶長七年(1602)
「徳川家康」より許可を得た「教如上人」は側近を集め、別に大谷派本願寺(東本願寺)を興しました。
これが本願寺分立の切っ掛けなのです。
それに合わせ、長浜の旧地に移っていたこちらも道場から「無礙智山(むげちざん)大通寺」と号する寺院として発足したのです。
以後、彦根藩「井伊直孝」の援助を得るなどして発展し、真宗大谷派の別格寺院となっていくのでした。
そんな、歴史要素いっぱいな「大通寺」
脇門はなんと旧長浜城の大手門、梵鐘は南北朝時代のもので県指定。
遠くからも目を引く立派な山門は江戸時代のもので、なんと三十三年もかかったという巨大建築物になっています。
ぜひ、歴史要素がいっぱいにつまった、こちらを訪れてみて下さい。
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[住所]
大通寺 滋賀県長浜市元浜町32-9
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※追加情報をば。
本願寺でプレイしても、任意に”一向一揆”は起こせませんでした。(自動になる)
残念!
また、合戦では政治・教養の高い武将を連れていけば計略系の戦術を避ける確率が上がるようでした。