のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は河内源氏「源頼信・源頼義」親子についてです。
実はこないだから、こっそり”源氏祭り”を開催中な当ブログ。
一応時代順に書く(つもり)なので、見ていくと武家の流れがわかるかも。…わかんないか。
まぁ、いいか。
ともかく、武家として最も発展していく河内源氏の起こりってのはどんなであったのか、ざらりと見てみましょう。
安和元年(968)まだ平安時代の頃。
源氏武士団を形成した源満仲の三男として「源頼信(みなもとのよりのぶ)」は生まれました。
この頃は天皇の外戚となった藤原氏が摂政・関白に就いて政治を取り仕切る「摂関政治(せっかんせいじ)」の時代で、多大な権力を有していました。
その「藤原道長」に兄頼光と共に仕えたのが「源頼信」です。
京にて基盤を築く兄と違い、各地の国司となったり、反乱を鎮圧したりと、常に現場にて実行部隊として活躍。
その武勇は「藤原道長四天王」の一人に数えられるほどでした。
(※他の顔ぶれは藤原保昌、平維衡、平致頼、の三名)
房総三国(上総・下総・安房)で起きた「平忠常の乱」では、当初朝廷より派遣された討伐軍が次々に撃破され、三年に渡る長期戦となっていました。事態を重く見た朝廷は打開策として遂に「源頼信」を起用。
万全の体制で下向した頼信に対し、長陣にて疲弊していた忠常軍は敵わぬとみて降伏しました。
この一件によって、源頼信は東国にて大いに名を上げ、坂東八平氏(※桓武天皇の子孫。平姓を賜り、家来となっていた)と呼ばれる多くがその配下となるのでした。
これを切っ掛けとして河内源氏は東国でも勢力を有することとなるのです。
父同様「源満仲」と同様に「鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)」にも任ぜられています。
永延二年(988) まだ平安時代。その中期頃。
源頼信の嫡子として、河内源氏の本拠地、河内国石川郡壷井の「香炉峰の館」にて「源頼義(みなもとのよりよし)」は生まれました。
父同様に武勇に秀で、「平忠常の乱」ではそれに従軍しております。
関東は鎌倉あたりにに本拠を持っていた、やはり武勇でその名を轟かせる「平直方(たいらのなおかた)」は頼義の武芸に魅せられ、自らの娘を差し出し、屋敷をも明け渡しました。
「この両名の血を受けた子なら、源氏の棟梁として相応しい剛の者が生まれるだろう」
そんな思惑があったとか、なかったとか。ともかく、両者の間に生まれた子「八幡太郎義家」、「賀茂次郎義綱」、「新羅三郎義光」らはまさしく源家の棟梁たる活躍と実績を残すこととなるのでした。
蝦夷の豪族「安部氏」が背いた「前九年の役」では、陸奥守兼鎮守府将軍となっていた頼義は精強無比の坂東武者らを率いて出陣。北の寒さと飢えに苦しみながらも、嫡男「八幡太郎義家」の活躍や出羽の豪族清原氏を味方としたことで戦況を逆転、この鎮圧に成功しております。
戦端が開かれてから十二年の歳月を要したこの討伐戦は後に年数を誤って伝えられたため、「前九年の役」と言うそうです。
間違ってるんですかい?!
[関連記事]
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
※今回写真は単なる武士イメージです。こんなんですよね。
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※最近の”源氏祭り”と合った本はそんなん↓です。
戦国好きな皆様、平安時代の武士たちもなかなか面白いですよ!
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本日は河内源氏「源頼信・源頼義」親子についてです。
実はこないだから、こっそり”源氏祭り”を開催中な当ブログ。
一応時代順に書く(つもり)なので、見ていくと武家の流れがわかるかも。…わかんないか。
まぁ、いいか。
ともかく、武家として最も発展していく河内源氏の起こりってのはどんなであったのか、ざらりと見てみましょう。
安和元年(968)まだ平安時代の頃。
源氏武士団を形成した源満仲の三男として「源頼信(みなもとのよりのぶ)」は生まれました。
この頃は天皇の外戚となった藤原氏が摂政・関白に就いて政治を取り仕切る「摂関政治(せっかんせいじ)」の時代で、多大な権力を有していました。
その「藤原道長」に兄頼光と共に仕えたのが「源頼信」です。
京にて基盤を築く兄と違い、各地の国司となったり、反乱を鎮圧したりと、常に現場にて実行部隊として活躍。
その武勇は「藤原道長四天王」の一人に数えられるほどでした。
(※他の顔ぶれは藤原保昌、平維衡、平致頼、の三名)
房総三国(上総・下総・安房)で起きた「平忠常の乱」では、当初朝廷より派遣された討伐軍が次々に撃破され、三年に渡る長期戦となっていました。事態を重く見た朝廷は打開策として遂に「源頼信」を起用。
万全の体制で下向した頼信に対し、長陣にて疲弊していた忠常軍は敵わぬとみて降伏しました。
この一件によって、源頼信は東国にて大いに名を上げ、坂東八平氏(※桓武天皇の子孫。平姓を賜り、家来となっていた)と呼ばれる多くがその配下となるのでした。
これを切っ掛けとして河内源氏は東国でも勢力を有することとなるのです。
父同様「源満仲」と同様に「鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)」にも任ぜられています。
永延二年(988) まだ平安時代。その中期頃。
源頼信の嫡子として、河内源氏の本拠地、河内国石川郡壷井の「香炉峰の館」にて「源頼義(みなもとのよりよし)」は生まれました。
父同様に武勇に秀で、「平忠常の乱」ではそれに従軍しております。
関東は鎌倉あたりにに本拠を持っていた、やはり武勇でその名を轟かせる「平直方(たいらのなおかた)」は頼義の武芸に魅せられ、自らの娘を差し出し、屋敷をも明け渡しました。
「この両名の血を受けた子なら、源氏の棟梁として相応しい剛の者が生まれるだろう」
そんな思惑があったとか、なかったとか。ともかく、両者の間に生まれた子「八幡太郎義家」、「賀茂次郎義綱」、「新羅三郎義光」らはまさしく源家の棟梁たる活躍と実績を残すこととなるのでした。
蝦夷の豪族「安部氏」が背いた「前九年の役」では、陸奥守兼鎮守府将軍となっていた頼義は精強無比の坂東武者らを率いて出陣。北の寒さと飢えに苦しみながらも、嫡男「八幡太郎義家」の活躍や出羽の豪族清原氏を味方としたことで戦況を逆転、この鎮圧に成功しております。
戦端が開かれてから十二年の歳月を要したこの討伐戦は後に年数を誤って伝えられたため、「前九年の役」と言うそうです。
間違ってるんですかい?!
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⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
※今回写真は単なる武士イメージです。こんなんですよね。
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思う位、知識が豊富ですね!
個人的には、ひでるさんの戦国時代ネタが好きです…
逆に戦国ネタばかりだったので、平安シリーズがこのあともいくつか続きます。
すんません。
なんかありましたらまたリクエストして下さいな。
※kiyojunさんにはひでるさんよりのメッセージを特別に暗号でお送り致します。
(ヒント:ならびはどれも同じだとおもう)
1・3 9・1 3・1 1・2 4・5 1・1 9・3 8・3
わかったら携帯までメール下さい(笑)