のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は平安時代に東北地方で吹き荒れた戦乱「前九年の役」です。
平安時代って御歯黒で語尾が「おじゃる」みたいな、のんきな人々が歌読んだり、蹴鞠したりと、日がな遊びほうけて暮らしたように思っているかもしれませんが、実際は違います。(そりゃそうだ)
…ちなみに、ひでるさんはそんなイメージでした。うわ、大阿呆ですね?
※写真ないのでイメージ画を本にて提供。
さて、この時代は日本全土が完全に朝廷の支配下であった訳でなく、特に関東より北は別勢力がとりあえず心服したという雰囲気でした。
後に武家の名誉職的な色が強くなる「鎮守府将軍」も、本来はそんな北勢力からの防衛のために緊急に設置される役職でした。
(※神話での日本建国も九州から攻めのぼったらしく書いてありますよね。そんな関係で、東国はまだ未知な領域だったのだと思います)
当時の蝦夷は安倍氏が勢力をもっていました。
(※東北から北海道あたり)
朝廷より派遣された国司と揉めた「安倍頼良」はそのまま反乱を起こします。
これには当時鎮守府将軍でありました「源頼義」が対応。
河内源氏の二代目で、関東にも地盤を持つ頼義は精強無比の坂東武士を率いてただちに鎮圧に向かいました。
これに驚いて不利と悟った安倍頼良は戦うことなく降伏。
「将軍と同音の名では申し訳ない」ということで「頼時」と改名し、事はいったん収まりました。
しかし、その後に源頼義の部隊陣営を何者ともしれぬ一隊が襲う、という事件が起こります。
頼義は犯人を安倍頼時の息子貞任と定め、彼を罰しようとしました。
「それは冗談ではない!」
と抵抗した安倍親子は一族を上げて再び反乱を起こすと、ここに何年も続く戦乱が始まるのです。
(※実は源頼義が挑発のために、わざと事件を起こしたのだとも言われてます。これが真実だと、見方変わりますねぇ…)
衣川(岩手県平泉市)の柵に立て籠もった義時はここで頑固に三年間ほど間抵抗をします。
しかし、策にはまった義時はあえなく討ち取られてしまいます。
それでも息子の「安倍貞任」はなおも健在で、父の仇とばかりに抵抗を続けていました。
天喜五年(1057)
十一月に勃発した「黄海合戦」では、雪による寒さと飢えに苦しむ官軍は地理に明るく寒気にも慣れていた貞任の軍勢に大打撃を受け、全滅の危機に陥ります。
若い「八幡太郎義家」が殿軍として活躍したのはこの時です。
しかし、結果的にこの敗戦は大きく、単独での戦いが困難となってしまいました。
そこで、源頼義はやむなく出羽に勢力を持つ豪族清原氏に辞を低くして助力を願いました。この度の合戦で清原氏は中立を保っていたのです。
これに応じた清原家の当主光頼は弟の「清原武頼」を総大将とする大軍を派遣します。
その数は一万あまりとの話もありますから、かなりの大兵力だったようです。ちなみに、伝え聞く源頼義軍は三千程度だそうなんで、単純に三倍です。
清原家の参戦で戦況が覆るのも納得できる兵数です。
この変化によって再び追い詰められた貞任は厨川の要害にて抵抗するも、義家の火計によっておびき出され、ついに捕らわれてしまうのです。
…先端が開かれてから、なんと十二年のことでした。
この年数計算が間違って、「前九年の役」と言われているのです(本当)
めでたし、めでたし。
あれ、「前」があるってことは……?
[関連記事]
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 天下一の武勇 八幡太郎「源義家」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
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本日は平安時代に東北地方で吹き荒れた戦乱「前九年の役」です。
平安時代って御歯黒で語尾が「おじゃる」みたいな、のんきな人々が歌読んだり、蹴鞠したりと、日がな遊びほうけて暮らしたように思っているかもしれませんが、実際は違います。(そりゃそうだ)
…ちなみに、ひでるさんはそんなイメージでした。うわ、大阿呆ですね?
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※写真ないのでイメージ画を本にて提供。
さて、この時代は日本全土が完全に朝廷の支配下であった訳でなく、特に関東より北は別勢力がとりあえず心服したという雰囲気でした。
後に武家の名誉職的な色が強くなる「鎮守府将軍」も、本来はそんな北勢力からの防衛のために緊急に設置される役職でした。
(※神話での日本建国も九州から攻めのぼったらしく書いてありますよね。そんな関係で、東国はまだ未知な領域だったのだと思います)
当時の蝦夷は安倍氏が勢力をもっていました。
(※東北から北海道あたり)
朝廷より派遣された国司と揉めた「安倍頼良」はそのまま反乱を起こします。
これには当時鎮守府将軍でありました「源頼義」が対応。
河内源氏の二代目で、関東にも地盤を持つ頼義は精強無比の坂東武士を率いてただちに鎮圧に向かいました。
これに驚いて不利と悟った安倍頼良は戦うことなく降伏。
「将軍と同音の名では申し訳ない」ということで「頼時」と改名し、事はいったん収まりました。
しかし、その後に源頼義の部隊陣営を何者ともしれぬ一隊が襲う、という事件が起こります。
頼義は犯人を安倍頼時の息子貞任と定め、彼を罰しようとしました。
「それは冗談ではない!」
と抵抗した安倍親子は一族を上げて再び反乱を起こすと、ここに何年も続く戦乱が始まるのです。
(※実は源頼義が挑発のために、わざと事件を起こしたのだとも言われてます。これが真実だと、見方変わりますねぇ…)
衣川(岩手県平泉市)の柵に立て籠もった義時はここで頑固に三年間ほど間抵抗をします。
しかし、策にはまった義時はあえなく討ち取られてしまいます。
それでも息子の「安倍貞任」はなおも健在で、父の仇とばかりに抵抗を続けていました。
天喜五年(1057)
十一月に勃発した「黄海合戦」では、雪による寒さと飢えに苦しむ官軍は地理に明るく寒気にも慣れていた貞任の軍勢に大打撃を受け、全滅の危機に陥ります。
若い「八幡太郎義家」が殿軍として活躍したのはこの時です。
しかし、結果的にこの敗戦は大きく、単独での戦いが困難となってしまいました。
そこで、源頼義はやむなく出羽に勢力を持つ豪族清原氏に辞を低くして助力を願いました。この度の合戦で清原氏は中立を保っていたのです。
これに応じた清原家の当主光頼は弟の「清原武頼」を総大将とする大軍を派遣します。
その数は一万あまりとの話もありますから、かなりの大兵力だったようです。ちなみに、伝え聞く源頼義軍は三千程度だそうなんで、単純に三倍です。
清原家の参戦で戦況が覆るのも納得できる兵数です。
この変化によって再び追い詰められた貞任は厨川の要害にて抵抗するも、義家の火計によっておびき出され、ついに捕らわれてしまうのです。
…先端が開かれてから、なんと十二年のことでした。
この年数計算が間違って、「前九年の役」と言われているのです(本当)
めでたし、めでたし。
あれ、「前」があるってことは……?
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お褒めの言葉あり難いです。
素直に嬉しいですよ!
…実はけっこうしんどいです(笑)
このあたりの人を調べていて、奥州藤原氏のおこりや、平氏がなぜ台頭していったのかが理解できました。
ちょっと日本の歴史が見えてくるやもしれません。