お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

石田三成の真実 (歴史さんぽ:誤解をとく会)

2008年08月28日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、特別企画「石田三成の真実」ということで、色々言われている悪評について述べたいと思います。

歴史の本を見ると、相変わらず酷く書かれていることがある三成さま。
なにかって、こないだ購入した本もそんなんでした。
お前は徳川の御用学者か?!…という感じなの。

このネタを思いついたのは、そんな流れなのです。


関ヶ原合戦にて「徳川家康」に敵対し、敗北した「石田三成」
それがため、徳川幕府が続く三百年間には様々な悪評をつけられ、常に実像が歪められておりました。
豊臣家を滅ぼして天下を簒奪した家康にとって、彼を徹底的な悪者とする必要があったのです。
しかし、それらは真実ではありません。

平時では政務に腕を振るい、有事では大部隊の支援をそつなくこなす彼の才覚は「豊臣秀吉」をして、
我に異ならぬ才を持つのは三成だけ
…と言わしめておりました。
事実、五奉行の面々「浅野長政」「増田長盛」「前田玄以」「長束正家」らが皆年上で先輩だったにも関わらず、その筆頭とされた三成は唯一の二十代でした。

その権威は肩を並べる者がいない/島津義弘

少しでも背けば、たちまち身の障りをなす/木食上人

秀吉の下で辣腕をふるった三成。
しかし、上に書いたように、諸大名らには大変恐れられた存在だったのです。


■野心・権力欲はあったのか?
こちらはあったでしょう。
ただ、彼の生涯を追いかけて分かるように、三成は徹底した忠義の士なのです。
権力欲については、個人的な欲求という訳ではなく、”恩義に報いれるだけの力を欲していた”ということだと推察します。
おそらく、三成は「豊臣家を守れるのは自分しかいない」と自負していたのではないでしょうか。
関ヶ原合戦の計画を練っている段階で、自らの石高の低さを嘆いた、という逸話もあります。
あちこちに強く当たっていたのも、あるいは豊臣家の権威強化のためだったのでは…とか考えるのは、ひいきのし過ぎですかね。

■野心・物欲はあったのか?
奉公人は主人から頂戴する知行を全て使い切って奉公すべき。使い過ぎて借金するのは愚人、使い残すのは盗なり
という、三成の言葉があります。
その通り、彼の居城である「佐和山城」は実に質素なものでした。
関ヶ原合戦後に落城させた東軍勢が「あれだけの権威だったのだから、さぞかし豪華な生活だろう」と城中を調べたところ、その質素ぶりと金銀の蓄えがないことに大変驚いた、と伝えられてます。
このように、日頃から無欲な人だったのです。
三顧の礼で迎えた家臣「島左近」に、当時水口四万石のうち一万五千石もの高禄を与えたという有名なエピソードも、その表れだと思います。
(※ちなみにその後の加増については固辞されたと伝えられております)

なお、秀吉が目立つ「色欲」という点では、はっきり言って不明。
三成の妻についての記述はなく、不明であるそうなのです。
子については嫡男「重家」、次男「佐吉」、ほか娘が何名かおります。

■勇気が足りない?
天正十一年(1583)「賤ヶ岳合戦」では、先駆衆として突撃。
七本槍の武功には及ばなかったものの、「大谷吉継」らと共に戦功を上げております。
勇気がないどころか、非常に度胸のある人だったのです。
なにより、秀吉没後「徳川家康」の専横に対して真っ向から対抗していることからもそれが伺えます。
豊臣譜代の家臣ですら自己保身に走って命に背いたのに対し、なんとも格好いいではないですか。
最後まで豊臣家存続のために奮闘したのは、彼以外にいないと思います。
(※あるいは「福島正則」のように単純で先見性なく、いいように使われたというのはおりますが)
遺骨調査から優男であったという三成ですが、大変に鼻っ柱の強い方だったのです。

最後、武士らしく自害をせず生きながらえた結果として捕縛されたというのも、
大事を成す者は最期の最期まであきらめないものだ
という言葉が残っているそのまま、自らが死ぬぎりぎりまで打倒家康を諦めていなかったためなのです。

■裏で暗躍していた?
性格的に、三成はこんなんを最も嫌う方でした。
彼には、対立する「徳川家康」を何度か襲撃できるタイミングがありました。
「島左近」が何度かそれを献策していたようなんですが、迷い、断っているのです。
清廉潔白な質であるため、卑怯な作戦を好まなかったのでしょう。
黒幕と言われる「豊臣秀次」、「千利休」の事件。
三成は役目柄、それらを詳しく調査・詰問し、厳しく処分する必要があったのです。
事実として、秀吉の意向を正確に遂行したことは間違いなく、それがために恨まれ、根も葉もない噂を立てられてしまったのでした。
その一方、秀次事件では助命嘆願をしているうえ、処分後には旧臣を多く召抱えております。

■嫌われ者だった?
誤りは誤りとして譲らず、実直で直球な性格だったため、誤解を生むことが多かったのでしょう。
決定的に柔軟性には欠けている方なのでした。
真面目な学級委員長タイプなんですね。
これは、「福島正則」「加藤清正」といった子飼いの武功派連中には甚だ評判悪く、また行政家として優れていため、秀吉がその意見に耳を貸すことも多かったのです。
そんなんが、また気に入られなかった要因なのですよ。

逆に、「大谷吉継」「宇喜多秀家」「小西行長」「佐竹義宣」…ら、彼と打ち解けた者は全幅の信頼を寄せるという、人気面では両極端な人でした。
秀吉に見出される切っ掛けとなった「三度の茶」の逸話、「毛利輝元」が献上してきた季節はずれの大桃をやんわり断って送り返すなど、細やかな心配りのできる人でした。

また、領民には善政をほどこし、時には年貢の免除をしたとか、落城を前にして将士に退去を命じたものの、二千八百という数が残ったと言う話なども、その人柄をしのばせます。
「水戸光圀」は江戸時代であるというのに、
人の臣たるものは治部少(三成)のように心がけるべきだ
と評しております。



…もういいかな。
とかく、能力があったものの、生き方が下手なんですよ。
自らを引きたててくれた秀吉の恩に報いるため、一生懸命に頑張った方なのでした。
そうした不器用さが、ひでるさん好きな面でもあるんですけどね。

もしあの時代に生まれていたなら、本気でそれを忠告してあげたいところなんですが…
容易に人に聴かず、自ら信ずる事すこぶる厚し
とか言われております。
まぁ、ひでるさんの言うことなんて聞かないでしょうねー(笑)
なお、有名な軍旗「大一大吉大万」は資料の裏付けなく、実際のところは不明なんだって。



[関連記事] 【豊臣政権セット】
⇒ 意外と知らない信長死後 「清洲会議」 [    
⇒ ねねさん 高台寺(京都)
⇒ 奮戦・前田利家「末森城合戦」 前編 後編
⇒ まつさん[芳春院] 前編 後編
⇒ 黒田官兵衛の失言「人生を変えた一言」
⇒ 佐和山城址(滋賀) 基本知識編 現地レポート編
⇒ 行こう!「関ヶ原古戦場・石田三成陣跡」
⇒ 石田三成墓所 三玄院 (京都) < >
⇒ 秀次切腹と石田三成 [
⇒ 松山城を築いた七本槍の加藤くん「加藤嘉明」 [    
⇒ 宇喜多秀家 < >
⇒ 文武二道・会津に適う人物 「蒲生氏郷」 [      
⇒ 二大英雄の子「結城秀康」 [   
⇒ 豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)
⇒ 豊臣秀勝公菩提寺・妙法寺 (滋賀)
⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 名人と呼ばれた武将「堀秀政」



 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


石田三成―戦国を差配した才知と矜恃 (歴史群像シリーズ (55))

学研

このアイテムの詳細を見る

※三成さまはひでるさん最も好きな戦国武将です。
 ほぼ無理ですが、この方のようになりたいです。