【坂の上からの落とし物】

【坂の上からの落とし物】

本郷通りから言問通りに折れて根津に下る坂を弥生坂という。

忘れもしない 2004 年の秋、仕事帰りにこの坂を下るため言問通り沿いに折れて東大農学部脇を歩いていたら、頭のてっぺんにチクッとした痛みとともにコツンと落ちてきた物があり、足もとに転がったそれを見たら小さな椎の実だった。
「いてっ!」
と呟いて立ち止まったら、なんとパチパチと音を立ててたくさんの椎の実がそのあたりの歩道に降り注いでいるのだ。小さな椎の実はなぜか尖った方を下にして落ちてくる。だから意外に痛い。

寺田寅彦が東大研究室の窓から外を見ていて、申し合わせたようにイチョウの葉が一斉落下する瞬間を目撃して驚いたと書いていた。木の実にもそういう一斉落下する瞬間があるのかもしれない。

その年の秋は余命半年と言われた母の闘病生活が二年目に入った頃で、母は東京での治療に見切りをつけて郷里静岡県清水に戻って一人暮らしをすると言い、僕は東京での仕事を捨てて郷里の母に付き添うわけにも行かないので、毎週末に介護帰省していた。その日も根津の出版社で仕事をひとつ片づけてから帰省するためこの坂を下っていたのだ。

どんなに頑張ったところであと数ヶ月しか命がもたない母親に付き添って暮らしてやれないことに忸怩(じくじ)たる思いを抱いてこの道を歩いていたので、頭にコツンと当たった椎の実のチクッとした痛みが天から小突かれたように情けなかったことを今でも忘れない。くそっ。

母が他界して丸三年近くがたち、初夏のような陽気の同じ道を歩いていたら舗道にたくさんの異物が積もっており、かつて実を頭上に降らせたスダジイの穂状花序が降って来たのかと一瞬思ったけれど、よく見たらイチョウが雄花を大量に降らせたらしい。

イチョウもスダジイも花は穂状花序で、穂状花序と書いて「すいじょうかじょ」と読み、一本の長い花の軸に対して垂直にたくさんの花が並んで咲いたものをさす。

この穂状花序にもまた一斉に降り注ぐ一瞬があったのかも知れない。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 5 月 1 日、14 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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