【見つめあう恋】

【見つめあう恋】


子どもの頃に噛みつかれて以来、犬嫌いのはずの義父が、『アイフル』のコマーシャルに出てくる瞳をウルウルさせたロン毛のチワワを見るたびに「うーん、かわいいのー」と微笑む。犬は好きだけれど、正直言ってあの CM を見てもさほどかわいいと思えないので、ちょっと義父の反応が意外である。

どちらかといえば猫より犬の方が「うーん、かわいいのー」と思うことが多いのだけれど、ごくまれに猫がたまらなく可愛いと思えることがある。

本駒込五丁目、富士神社境内を歩いていたら猫がすたすたと歩いてきて数メートル手前で座り、じっとこちらを見ている。彼だか彼女だか知らないけれど、その数メートルの意味ありげな距離に敬意を表してこちらも立ち止まって見つめていると、向こうもこちらをじっと観察している。その緊張感がたまらなくかわいいのである。

小学生時代に読んだ椋鳩十(むくはとじゅう)の『孤島の野犬』という本の中に、畑仕事をしているお百姓さんのもとに毎日やってきて同じ場所に座ってこちらを見ている野犬との出逢いのシーンがあってその箇所が好きでたまらなかった。その一定の距離、緊張感、静寂がたまらないのだ。There's a Kind of Hush. である。

じっと見つめ合っているだけでは所在ないので、カメラを向けるとレンズの視線が眩しいのか、ちょこっと右を見たり左を見たりしていて、それがまたかわいい。

「うーん、かわいいのー」と声に出して言いたくなるけれど、見つめ合っているだけでなにもできない。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 9 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【のびるゴム】

【のびるゴム】

「ゴム」と口に出して言っただけで口元に笑みが浮かんだりして、ゴムというのは不思議な物質である。

二人の母が入院することになり、入院に必要な身の回りの品を揃え、
「他に何か必要なものはない?」
と聞くと
「ああそうそう、輪ゴムを少し」
などと言う。

輪ゴムというのは買い物のついでに、いつの間にか溜まるもので増えて困ってしまうのだけれど、さりとて捨てがたくて戸棚の取っ手とか水道の蛇口とかに引っかけて溜め込んだりし、母は台所仕事を終えると腕にいくつも輪ゴムをはめていた。

そういう使い古しの輪ゴムを入院する親に持たせるのも忍びないので文具店で買って持っていくと、
「えっ、わざわざ買ったの?どうしてそういうもったいないことをするの」
などと叱られたりする。ゴムというのは生活のさまざまな場面で実に大切なものなのだけれど、買うほどのものじゃないと見られていたりもするのである。

ゴムなんて買わなくたってその辺にいくらでもある、と思われるようになったのは意外にも最近のことなのだ。人類が二足歩行するようになったときすでにゴムの木に輪ゴムがたわわになっていたので人とゴムとは切っても切れない縁がある、というようなものではない。

15 世紀の終わり、南米大陸に航海したコロンブスが弾む物質を見て仰天し、ゴムの木をヨーロッパに持ち帰ったのがきっかけで、それまで欧州人はゴムを知らなかった。で、珍なる木として珍重されつつも、1839 年に米国人グッドイヤーが画期的なゴムの利用法を発明するまで、ゴムというのはさほど大切なものではなかったのである。


Data:SONY Cyber-shot DSC-S85

ゴムの木というと東南アジアを思い浮かべてしまうけれど、東南アジアのゴムの木は 19 世紀末になって自動車の発明によって需要が高まり、ゴムが『黒い黄金』などと呼ばれて植民地政策とともに欧米人によって植林されたものなのだ。

1876 年、英国人ウィッカムがアマゾン流域から持ち帰ったゴムの種子がロンドンの植物園で発芽に成功したというが、温帯の日本で観賞用として育てると大きくなって手に負えなくなる。


Data:SONY Cyber-shot DSC-S85

ゴムは延びるので、ゴムの木もずんずん伸び、原産地ブラジルでは高さ 30 メートルにも達する大木になるという。京橋から八丁堀方面に歩いていたら喫茶店前で繁茂する元気なゴムの木に逢って「いいなぁ!」と嬉しくなった。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 8 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【曹洞宗江岸寺】

【曹洞宗江岸寺】

愛する者を亡くして埋葬すると、最初のうち墓石は地中にある骨のありかを示す目印のような気がして、下にある骨壺を想像して手を合わせたりする。けれど、何年かたつうちに、墓石の下に骨があろうがなかろうが、そういうことは気にならなくなって、大地の下に茫漠としてある無の存在を思い浮かべたりするようになる。骨壷→墓→大地→地球→宇宙というマトリョーシカのように、世界は果てしなく広大な骨壷になっている。墓前はそのブラックホール式骨壷の入口である。

それでもなぜ墓所に行って特定の墓石に向かって手を合わせるかと言えば、墓石はブラックホール式骨壷の中から記憶の索引カードを引っ張り出すための小さな検索窓になっているからだ。


本郷通りから続く曹洞宗江岸寺の石畳

Data:SONY Cyber-shot DSC-S85

六義園正門から最も近い寺が曹洞宗江岸寺である。開基は鳥居忠正であり鳥居元忠の息子である。鳥居元忠は歴史小説好きには馴染み深い人物で、徳川家康が駿府の今川義元の人質であった時代から仕え、姉川・三方ヶ原・長篠などの戦に功があり、家康が上杉討伐で東征中、伏見城の留守居をし、石田三成方の城明け渡し要求を拒み、激しい攻防の後、落城とともに自刃している。


墓所にて。江岸寺は文京区本駒込2-26-15

Data:SONY Cyber-shot DSC-S85

この件が関ヶ原の戦いのきっかけになったのであり、続く江戸時代から現在の日本にいたる歴史の運命の転換点だったのかもしれない。家康も元忠も覚悟の上の結末だったとする歴史書もある。そんな祖先の霊への手がかりとして息子忠正によって建立された江岸寺には、歴史を生きた人々へ思いを馳せる小さな索引カードがある。

現在、忠正の供養塔とその子孫、愛唱歌『箱根八里』を作詞した東京音楽学校教授鳥居忱(まこと)の墓が残されている。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 7 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【先立つもの】

 【先立つもの】

capital を辞書で引くと資本であり、capitalism は資本主義のことだと辞書は言う。資本主義の語源を考えて日本語を離れたのにそこに戻ってしまうと意味がない。

capital に資本という日本語訳が与えられる前は財本といった。財本の財は資であり、財の字を構成する貝はたからもので才は読みを表す音符である。

貝がたからものなら紙幣がたからものであっても一向に構わないわけで、頭となり先立つものとして貝ではなく紙幣を据えた「先立つもの主義」が資本主義なのだ。たまごとニワトリのどちらが先かと同じくらい意味がない、

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【プラタナスプラタナス】

【プラタナスプラタナス】

プラタナスの幹を覆う表皮のありさまは奇観である。

母は「ゲリラの迷彩服みたい」と言い、妻はその模様を見ていると「身体がむず痒くなる」と言う。自分はというとプラタナスも好きだけれどザ・ランチャーズが歌った『真冬の帰り道』が好きで、冬でもないのに口ずさみながら歩き、街路樹として植えられたプラタナスの幹に、一つとして同じ模様がないのがおもしろくて写真を撮ったりする。

狭い生活圏の中に逼塞して暮らしていると他人の気付かないことに気付くようになる。病気の母が愛犬イビの散歩で立ち寄る文京グリーンコート内に、プラタナスの見事な大木があるなどと意外なことを言うので見に行ってみた。

確かにひとかかえもある大木であり、街路樹でこんなに大きなプラタナスは見たことがない。樹齢何年くらいだろうと気になって調べてみたら、新宿御苑内に日本最古のプラタナスがあるそうで、幹周 6.25m 樹齢 100 歳くらいだという。『文京グリーンコート』内のは遙かに及ばないけれど何歳なのかが気になってきた。

そうだ、『文京グリーンコート』は元『科研製薬』の敷地だったのであり、このプラタナスは『科研製薬』の敷地内にあったものが保全されたのだろうから、『科研製薬』とともに生きてきたに違いないと思い、『科研製薬』の歴史を調べてみたら創業 1948 年だそうで意外に新しい。

では、『科研製薬』の前は何だったのかと調べたら『理化学研究所』だったのであり、『科研製薬』は『理化学研究所』から分離独立したのである。

『理化学研究所』は大正6(1917)年3月20日に創立され、各帝国大学内の研究者を集めて研究させる施設としてこの地に建設された。

さらに歴史を遡り、『理化学研究所』ができる以前、ここに何があったのかと調べてみると、精神病院の『東京府立巣鴨病院』があった。明治 19( 1886 )年に向ヶ丘からこの地へ移ってきた『東京府立巣鴨病院』は、大正 8( 1919 )年に東京の外れ、荏原郡松澤村へ移転し東京府立松澤病院となる。現在世田谷区にある都立松沢病院である。

『東京府立巣鴨病院』に隣接した 3000 坪の土地は三菱財閥岩崎家の牧場であり、当時 30 頭ほどの牛が放牧されており、後に『理化学研究所』に寄贈された。昭和 16 年の『理化学研究所』建物配置図を見たが現在の『文京グリーンコート』に『日本アイソトープ協会』の敷地なども含めた広大なものである。

そういえば六義園も岩崎家の私物であったこともあるし、上富士交差点に面した六義園正門前のマンションはかつて三菱銀行だった。ということはきっと岩崎家の土地だったのであり、それでは旧『理化学研究所』敷地に隣接した『東洋文庫』はどうかと調べてみたら、やはり三菱財閥の総帥岩崎久弥が創設したものだった。

巣鴨のあたりも三菱関連の土地がたくさんあり、司馬遼太郎『竜馬がゆく』に登場する岩崎弥太郎の出自を思えば、幕末から明治維新のどさくさを経て、あっという間に呆れるほどの巨利を得たことの片鱗をかいま見て唖然とする。

プラタナスの樹皮は人間の都合で私有を宣言され間断なく描き替わる市街地図にも似ていると思うと、確かに迷彩服のようでむず痒いものでもある。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 6 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【猫の尻尾】

【猫の尻尾】

人間の尻尾は痕跡しかないので自分のことはわからないけれど、牛や馬は尻尾で器用に自分の尻に群がる蠅を追っている。蝿を追うような目的がなくても、猫もまた随意に尻尾を操れるのだろう。

連休中はデイサービスも休みなので、義父の心身健康維持のためデイサービスセンターで車椅子を借り、運良く晴天に恵まれたので近所の散歩に出た。道すがら出逢うものすべてが義父には輝かしく新鮮に見えるのか、言葉が溢れて楽しい散歩になる。

古びた電気店の店先につながれて昼寝をしている猫は、いかにも蚤がいそうな猫なのだけれど、その寝姿まで蚤に似ていて可笑しい。爆睡しているように見えるのに、長い尻尾がいっときも休むことなく不規則に動くのが不思議で、車椅子を押す手を休めてしばし見入ってしまった。

猫は眠っていても尻尾が動いていることがあるけれど、こんなに派手に動く猫を見たのは初めてで、家族一同呆気にとられて大笑いした。これもまた尻にたかる蠅を追い払うため無意識に起こる運動なのだろうか。

故人となった祖母は猫が好きで……と長いこと思いこんでいたのだけれど、最近母に尋ねたら、祖母は若い頃は母と同じく猫嫌いで、祖父が亡くなってから急に猫好きになったらしい。やはり寂しかったのだろう。

昔の人は猫好きでなくても、近所で鼠をよくとると評判の猫が子猫が産むと、訪ねて行って貰って来たものだという。鼠をとる能力が遺伝することの真偽はわからない。そんなわけで、祖父母の家には必ず何匹か実用猫が飼われていたのだけれど、そう言われてみれば幼い頃祖母の膝に猫がいた記憶はない。

晩年、陽の当たる縁側で猫を眺め、「眠っている時さえじっとしていないので見飽きることがない」と笑って可愛がっていた祖母を思い出すけれど、猫の尻尾振りも人間を喜ばせる天性の生き残り戦略なのかもしれない。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 5 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【たけのこいっぽんちょうだいな】

 【たけのこいっぽんちょうだいな】

子どもの頃よく「たけのこいっぽんちょうだいな」という遊びをした。ネット検索すると日本中で見られた古いわらべあそびらしい。

明治三十四年にまとめられた大田才次郎編『日本児童遊戯集』東洋文庫(平凡社)をひいたら、昭和の子である自分たちの遊び方とぜんぜん違うので驚いた。

竹の子

多くの児童中より売人(うりて)と買人(かいて)と一人ずつ定め、他の児童は筍(たけのこ)となり、一人ずつ後方に連なり蹲(うずくま)り居るなり。さて買人は売人に対(むか)いて「筍お呉(く)れ」といえば、売人は「ヘイ」と答えつつ数多(あまた)の筍に向い「今芽はどの位(くらい)」と問う。筍答えて「今芽はこーの位」と同音にて各小指を出しつついう。買人更に前の如くいい、売人もまた筍に問えば、今度は紅差指(べにさしゆび)を出し、又その次には中指を出し、その次に食指(ひとさしゆび)を示し、最後に「今芽がこーの位」とて拇指(おやゆび)を出しつつ答う。ここに於いて売人は「それなら売りましょう……どれがようござんす」と買人にいえば、買人はその末尾の児を指し「これがようござんす」とてその筍の頭上に平手を乗せ飛び上らしめ、これを連れゆき他に移し置き、再び来りて買い始めるなり。

古い遊びには陰影をともなった不思議がある


DATA : SONY Cyber-shot DSC-W1

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【愛玩いろいろ】

【愛玩いろいろ】

生きものの幼児期はみなかわいい。

哺乳類だけでなく、カマキリや蜘蛛や蛇やトカゲの子どもだって愛らしくて、「私は小さいし弱いし、そして何より可愛いでしょう?」との問いかけを記号化したような姿態を持っており、そのように生まれつく形質を持っていたからこそ、人間のような凶暴な生物に足で踏みしだかれ滅ぼされることもなく、種の存続を保てたのかもしれない。

小さくて弱い者を庇護し、慈しみ、思い通りにしたい気持ちを抑えきれないから、人は愛玩する対象を常に必要とするのかもしれない。

近所の蕎麦屋店頭に可愛らしい竹の赤ちゃんが植えられていた。愛玩的タケノコである。

こういうものは冗談でも見たことがなかったので、帰宅後三人の年寄りに、タケノコを鉢植えにしたら鉢植えの竹として育てて楽しめるか、はたまた、昔はこんなことをする風習があったのか、と尋ねてみたけれど、三人あわせて 200 年以上も生きてきた親たちでも、見たことも聞いたこともないと言う。

どうして蕎麦屋にタケノコの鉢植えがあるかについて、わが家の年寄りたちが出した仮説は次のようなものである。
 
(1) タケノコ溺愛説
タケノコがあまりに可愛いので愛情表現が衝動的に具体化した。
(2) タケノコ園芸説
光量、栄養状態、水質などの環境に気をつけて世話すれば枯れずに盆栽となる。
(3) タケノコ祈祷説
端午の節句には菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を軒に挿して邪気を払う風習があるけれど、手に入らないのでタケノコを鉢植えにすることで代用している。
 
はたして正解はあるのだろうか。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 4 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

 【言語とゲーム】

 【言語とゲーム】

2002 年の夏に3人の親たちの介護が始まり、その最中はポケットに入る小さなコンピュータで介護日記を書いていた。それが看取りを終えたのちもこうして日記として続いている。

あの頃は小さなコンピュータを両手持ちして親指で物理キーボードをプチプチ打っていた。いま思えばスマートフォンの仮想キーボードよりはるかに軽快に文字打ちができた。

軽快だけれどゲームをしているように見えるのか、電車の中で子どもたちに覗き込まれ恥ずかしい思いをして困った。

本を読みながらのメモは、引き写しや線引きなどではなく、感心したことを自分のわかりやすい言葉で他人に説明するように書いてみることが大切だ。モノローグ的な読書をダイアローグ的対話に変換すること、教える――学ぶ関係からウィトゲンシュタインも論考をはじめているという。


ヤフオクで1,280円だったウィルコム W-ZERO3 [es] (WS007SH)
DATA:iPhone SE (1st generation)

なつかしいあの頃の道具がネットオークションに千円台で並んでいる。読書メモ用に落札してみたらやっぱりすごくいい。むかしを思い出した。ATOK と電子辞書付きの小さなワープロである。電車内で使って子どもに覗き込まれている自分の姿を想像してみても、いまはもうそんなに恥ずかしくない。そもそも本との対話もまさに「言語ゲーム」なのである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【青紫蘇】

 【青紫蘇】

昨年は自宅のプランターにパセリの苗を三株植えたら溢れんばかりに生い茂って神宮の森のようになっていた。そんなにパセリは食べられない。

今年はパセリを一株に減らし、かわりに青紫蘇をふた株植えた。青紫蘇ならよく食べるだろうと思ったのだけれど、成長に捕食が追いつかない。そんなに大葉も食べられない。


DATA:iPhone SE (1st generation)

「食べてやらないとかわいそうだ」と言ったら「あらそんなことないんじゃない?」と妻は言う。そういわれて安心したのか、のんびり白い花を咲かせている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【淡々と古びる】

 

【淡々と古びる】

文京区千石三丁目。老舗米店『伊勢五』のある通りは江戸時代には既にあった古道だと思うけれど、不忍通りを渡ってその先、福音ルーテル教会脇を入った通称千石二丁目商店街通りもまた相当に古い。

かつて小石川七軒町と呼ばれた地域であり、『幕末御触書集成』に天保 13 年 10 月 1 日小石川七軒町の平三郎召使いである次郎助が忠義者として生きた褒美として幕府から銀5枚を貰ったという記録があるそうなので江戸時代から町家があったのだと思う。

偶然迷い込んで見つけて以来、思い出したように『進開屋』を訪ねて蕎麦を食べる。商店街とはいえ人影まばらな裏通りなので、この店の前に偶然立ったら、だれでもその店構えに「えっ!」と驚くだろう。

商家が古びて老朽化し、それでも残るには二つの方向に分かれるようで、古くなったこと自体を新たな価値として利用する観光的発想、もうひとつは新たな価値であることを拒否して淡々と昔ながらの営みを地道に続けることである。

『進開屋』はよそ行きでない気取らない当座の蕎麦屋である。
建物や内部の調度に骨董的価値が出てきたことなど全く意に介さないかのように、家族が力を合わせて淡々と働く姿があるし、店内で目につくすべてのものが時の流れに逆らうこともなく、ただ淡々と古びている。そういうタイプの古さが好きだ。

観光的商売ではないので、店内にはガイドブック片手の騒々しい中高年客もいないし、「そばもおつゆも自家製です」と書かれたメニューはいたって質素で堅実、こけおどしの穢れがない。昼時に訪れる客は、ニッカポッカースをはいた健康志向の肉体労働者たちが多い。

通りに立って写真を撮影していると背後に立つ老人がおり、話しかけたそうにしているので、話しかけてもいいですよというスキを作って見せたら、ニコニコしながらガイドが始まった。老人の説明が正しければ、この店は昭和 6 年の建築であり、その後壁面の板壁を修理したものの、ほとんどが当時のままで残っており、由緒正しい出桁町家建築であるという。

行政が動いて観光化する街より、淡々と自主的に古びていく店があって、淡々と通う客がいる街の方が、遙かに文化の質は高い。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 3 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【人の交通】

 【人の交通】

親以外に自分の人生を方向づけた人を挙げれば配偶者であり、自分にとって配偶者以外の他人を挙げれば小さな出版社社長の T さんだった。

T さんは干支でひと回り年上なので兄貴なのだけれど、誰とでも対等な交通のある話ができるおもしろい人だったので、亡きあとでも友だちだったと思っている。そんなわけで年齢差 12 歳違いくらいまでは年上でもご同輩と思わせていただくようになっている。

そういうご同輩に近い年上に哲学者で文芸評論家の K さんがいる。ご同輩とはいえたいへんな有名人なので著作を読んだことがない。とても自分に理解できそうなことが書いてあるとは思えなかったからだ。どういう拍子かいまごろになって読んでみたくなり、3 冊ほど買って読み始めたら素晴らしい。目から鱗が落ちる。

目から鱗が落ちるということは自分にも理解できる話し方をされているということで、誰とでも対等な交通のある話ができるという意味で真に頭のよい人なのだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【ケヤキ誕生】

 【ケヤキ誕生】

毎年秋から冬にかけて六義園内から膨大な枯れ葉が噴き出し、公園職員は園に沿った門前の掃除しかしないので、その他の歩道や敷地は住民が文句も言わず黙々と果てしない掃除を続けている。

ベランダにたまる枯れ葉掃除も、掃いては捨て、捨てては掃くのイタチごっこが続く。きりがないし、寒さはつのるしで、年末の大掃除後は排水溝脇に吹き溜まりができる。吹き溜まった枯れ葉は腐食して土のようになっていく。

そのわずかな腐植土の中から、何年かに一度、六義園から飛来した実生が発芽することがある。
8年前にはそうやって発芽したカエデを鉢に植え替えて育てたことがある。

今年は住まいと仕事場それぞれにケヤキが発芽した。住まいの方のはギザギザの葉が育っていたのできのう鉢に植え替えた。六義園からささやかなご褒美をもらったと思っている。

仕事場のはかわいい双葉の子葉の真ん中から小さな本葉が出てきたので、やはりケヤキであることを確認した。うれしいので連休中に鉢へ移すための準備をはじめた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【おじいさんおばあさんになるまで】

【おじいさんおばあさんになるまで】

むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。

おじいさんは土を買ってきて粘土を作り、粘土をこねて瓦を作り、それを焼いて売ったり屋根を葺いたりするのを仕事にしていました。おばあさんは 13 人の子どもを産み、子どもを育てながら瓦焼きの手伝いをし、家事の傍ら畑を耕し、家の前にある巴川が綺麗だった頃は、本当に川で洗濯をしていました。

おばあさんが巴川で洗濯をしていると、上流から大きな桃がどんぶらこっこどんぶらこと流れてきて、おばあさんの目の前をかすめて下流の堀込橋に引っかかりました。おじいさんとふたりでひろって持ち帰り、割ってみると中からひたいのひろい子どもが出てきたので孫として育てました。その子は幼い頃「お前は橋の下から拾ってきた子だ」とよく言われたものです。

巴川の土手で祖母と

おじいさんは1894(明治 27 )年生まれで、ぼくが生まれた時は 60 歳でしたがもうすでにおじいさんの姿になっていました。

おばあさんは 1900(明治 34 )年生まれで、ぼくが生まれた時は 54 歳でしたがもうすでにおばあさんの姿になっていました。むかしの人ははやく歳をとりました。

天日干し中の瓦の前で。祖父と。何を言われて空を見ていたのかは不明

ぼくには 4 歳年上の従兄がいますが、彼はうーーーんと若い頃に結婚し手に職をつけ男として一本立ちしたので、子どもをつくって、うーーーんと若くしてお父さんになりました。そのうーーーんと若いお父さんの息子もまた、うーーーんと若い頃に結婚し手に職をつけ男として一本立ちしたので、子どもをつくって、うーーーんと若くしてお父さんになりました。

ということでぼくの 4 歳年上の従兄は、うーーーんと若くしておじいさんになりましたが、まだおじいさんの姿にはなっていません。

巴川土手で祖父と

幼い頃の写真を見ると、昔の人はうーーーんと若くしておじいさんおばあさんの姿になったのだなと思います。ぼくが生まれた時 60 歳だったおじいさんは、その後もどんどんおじいさんになり、1972(昭和 47 )年、78 歳で亡くなりました。ぼくが生まれた時 54 歳だったおばあさんは、その後もどんどんおばあさんになり、1996(平成 8 )年、96 歳で亡くなりました。

巴川で母と

ぼくは子どもがいないので、母はいつまでたってもおばあさんにならず、ぼくが大学生の頃までは「お姉さんですか?」などと聞かれると「いいえ、この子の母です」などと答えて大喜びをしていましたが、孫がいなくても人間は歳を取るとちゃんと立派なおばあさんの姿になるもので、今の時代はそうなるまでの猶予期間が長くなっただけなのでしょう。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 2 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【 Windows Mobile をもう一度】

 【 Windows Mobile をもう一度】

今世紀のはじめ、親たちの介護が次々に始まったころ、東京・清水間を激しく往復しながら、マイクロソフトの Windows Mobile で動く PocketPC 端末を便利に使っていた。iPhone や Android が登場するはるか前だ。

あの頃が懐かしくて検索したら 100 円からスタートのオークションに、懐かしの PDA たちが並んでおり、欲しがる人がいないのかいくつか入札したらそのまま落札できてしまった。当時使っていたアプリは全てアーカイブしてあるのでインストールし、机の上の飴玉を落書きしたり、読書メモを取ったりに使っている。

別にスマートフォンがあるのでネットに繋ぐ必要もなく、ゆえに個人情報もいっさい入力せず、起動時のパスワード認証もないけれど、万が一落としたとしても漏洩する情報はない。昔の道具を原始的に使うことがこんなに気軽で楽しいのかと新鮮に感じている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 前ページ 次ページ »