【豆アジ】

【豆アジ】

桜の季節が終わると豆がおいしくなると向田邦子が書いていたけれど、豆がおいしい季節になると豆アジがおいしくなる、とつけ加えたい。

わが母は昔から小さなアジの唐揚げが好きで、たんねんに二度揚げしてそのまま食べたり、南蛮漬けにしたりしていたけれど、ちいさなアジのことはみな「こあじ」と呼んでいた。都内の魚屋に小さなアジが並び始め「豆アジ」の名で売られていることが多い。

豆打と書いて「ずんだ」と読み、それは「じんだ」とも言い、茹でた枝豆や莢豆(さやまめ)を潰したもののことである。おそらくここから来ているようで、豆アジのことを古くはズンダアジ、ジンダアジ(ジンタアジ)と呼んだ。これは郷里清水でヒイラギのことをギンダベラと呼び、静岡県内の他地域ではジンダベラと呼ぶのと同根だろう。

市場関係者の情報で調べてみると体長 7cm までを豆アジ、10cm までを小アジと呼ぶ、などと書かれているけれどさほど厳密ではないのかもしれなくて、自分はどちらかといえば小さなアジを呼ぶ時は豆アジの名が好きだし、若々しい緑を連想しながらあえてズンダアジと呼ぶこともある。

あれほど豆アジの唐揚げが好きだった母が、ガンと診断されて以来、揚げ物を一切受けつけなくなり、食べたいと言わなくなった。総入れ歯で燕下力の衰えた義父は丸ごと揚げた魚など大嫌いだし、妻は小学校入学当初、小アジの唐揚げが給食に出て丸ごと食べろと強要され、女子児童のほとんどが食べられなくて泣いた、という悲惨な思い出がトラウマになっているという。というわけで豆アジの唐揚げが食べたいなどと言うのは義母と自分の二人きりになってしまった。

子どもの頃から魚屋の店頭で仕事を見るのが好きだった。よい魚屋はいつも何かを動かしているものだ。客がいなくてもいつも威勢の良い掛け声で口を動かしている魚屋はよい魚屋だと思ったし、口を動かすより包丁を握って常に手を動かしている魚屋はもっとよい魚屋だと思った。

郷里清水、次郎長通りの魚初商店でも小アジや小鯛、コハダの酢漬けなどが自家製されていて大好きなのだけれど、手間のかかる仕事に頭が下がる。

そうだ、伊豆に行って宿泊したりすると朝食に思わず笑顔になるような豆アジの干物が付くことがあったけれど、あれならわが家の老親たちとトラウマ妻も食べられるのではないかとインターネットで検索し、取り寄せてみたいと思う店を見つけたけれど、1 枚 40 円であり 1 人 4 枚食べさせるにしたって 20 枚で 800 円なので、とてもそれだけを冷蔵宅配便を使ってまでして取り寄せようと思えない。

豆アジの干物なども相当にまめな働き者の魚屋でないとつくれないだろうとは思ってはいたけれど、そのページに添えられていた言葉が、なんかやけくそ気味で可笑しくも切ない。
 
「手間はかかるが値段は安い!」

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 24 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【図書館往復】

 【図書館往復】

区立図書館に貸し出し予約した宇沢弘文『算数から数学へ』はどうなったかな、とふと思い出した。

図書館のホームページを見たら「準備できました」という表示が出ていたので急いで受け取りに行った。

図書館前まで行ったら「本日は休館です」という表示が出ていたのですごすごと帰ってきた。外は暑かった。

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【小さな家】

【小さな家】

小さな家じゃなく大きな家に住みたい!というのはおとなが描く夢であり、幼い頃は小さな家に憧れ、『大草原の小さな家』などという名前を聞いただけでグッと来るものがあった。

ウォルト・ディズニーの『小さな家』という漫画映画を見たのは保育園児の頃だ。
確か渋谷公会堂だったと思うのだけれど、サトー製薬が開いたイベントに呼ばれ『長靴をはいた猫』という舞台劇を見せられ、その幕間に藤代清治の静謐な(幼心には不気味な)影絵と、総天然色のディズニーアニメ『小さな家』を見たのである。

小さな家を擬人化した奇妙な話で、見ているうちに幸せそうな主人公である小さな家に感情移入し、その幸せの源泉が小さな家のある長閑な田舎という環境であることを知り、勝手にどんどん都市化していく時代の流れを憎み取り残されていく小さな家に同情し……というアメリカ人が好きそうなパターンにのせられて、幼稚園児は小さな胸を痛め、小さなこぶしを握りしめ、小さな家とともに泣き笑いしたのである。

家というのは他人の家だと小さい方がかわいいと勝手に言える。
あまりに大きい家だと、どんなわるいことをすればこんな大きな家が建てられるのだろうなどという疑念が先だって、
「大きな家だってかわいい!」
とはどうしても思えなかったのであり、それは貧乏な育ちのせいだけとも言えないかもしれない。

自分の家だと小さいことをかわいいと思うことは難しい。
自分の家は自分がその中に住むのであって、小さい家は狭いし、臭いはこもるし、荷物は片づかないし、来客が来ても泊める場所がないし、空気も家族関係も息苦しく不快指数が高いし、不動産評価額だって低いわけで、ちっともいいことなどない。他人ごとだから「小さい家ってかわいい!」などと思えるのである。
 
小さな家に住んでいる人に
「小さな家でかわいいですね」
とは、余程神経が鈍くないと言えない。
「かわいいですね」に「かわいそうですね」も似ていて、テレビのニュースの共同記者会見を見ていて、気の毒な人に
「今のお気持ちは?」
などと質問をするのを聞いたりすると、どうしてこういう幼稚園児並みの質問を大のおとなができるのだろうと呆れるわけで、腹が立ったらなぜか不意に子どもの頃見た『小さな家』という奇妙な話を思い出したのだ。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 23 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【 2.5mm の謎】

【 2.5mm の謎】

母の病気治療のため病院に付き添うようになってからポケットティシュと紙の手帳は欠かさずに持つのだけれど、カバンの中にどうしてもノートパソコンを持っていたくて、その理想型と思っているのがビクターがかつて販売していた InterLink MP-C102 という小さな電子のノートだ。

7.2 インチ VGA( 640×480 )でカラー液晶表示のパソコンでありながら、市販の単三乾電池 4 本で動いてしまうのである。ということは機械的に壊してしまわなければ、少なくとも自分が生きているあいだくらいは専用電池入手に苦労をする心配がないのである。
 
とはいうものの InterLink MP-C102 にも専用充電池というものが付属していて、AC 電源につないでおくと充電されるので、とっさの外出時に電池の詰め替えをしなくて済むのは便利だ。

専用充電池というのは単三ニッケル水素電池を縦につないで樹脂被膜で覆ってしっかり固定したものなのだけれど、試しに市販の単三ニッケル水素電池を 4 本突っ込んでみても充電してくれない。

これは当然のことで、そういう仕組みになっていないと充電不可の電池などにまで充電しようとしてしまう可能性もあり、爆発などの危険もある。そういう事態を避けるために、この電池は充電可能なニッケル水素電池ですよ、と何らかの仕掛けで電池から本体に情報が伝えられているはずなのだけれど、その仕組みがわからない。

僕が知っているいくつかの例では、電池の側面に通電する部分を作っておき、本体の接点がそこに触れることによって充電可能な専用電池であると認識させる方法、断面が円である乾電池の一部に断面が正方形になるような部品を取り付け、その部分があることで充電可能な専用電池であると認識させたりするのだけれど、この日本ビクターの専用充電池の仕掛けはそのどちらでもない。

どうしてもわからないので、市販のニッケル水素電池の本体充電はあきらめていたのだけれど、ネット上で成功した人がいることを知り、自分でもう一度やってみる気になった。ちょうど寿命が来て充電不能になった専用充電池があったので分解してみると、何の変哲もない単三ニッケル水素電池を 4 本直列につないだだけである。

ただひとつ、電池の +極側に厚さ 2.5mm のキャップがあり、まさかと思いつつ市販のニッケル水素電池を 4 本、電池室に突っ込んで最後の +極にそのキャップをつけて蓋を閉じると、なんと!赤いランプがついて充電が始まるのである。

この厚さ 2.5mm のキャップに巧妙な仕掛けが!と思いたいところだけれど、単なる厚さ 2.5mm の蓋である。それでもそれをかぶせると充電が始まるので結果オーライなのだけれど、う~んと腕組みし、首をひねったまま外出してしまうのが文系人間の理科的知能の限界である。

数時間の外出を終えて帰宅するまでの間にああでもないこうでもない、と愚考を重ね、もしや……と思って InterLink MP-C102 に市販のニッケル水素電池 4 本を突っ込んでそっと指で押してみると、ちょっと押し込んだあたりで微妙な抵抗とクリック感があり、どうもスイッチのようなものが -極側に用意されていて押されているらしい。懐中電灯で電池室の奥を照らして覗いてみるけれどどうしても見えない。たぶん 2.5mm 分だけ余分に電池が押し込まれると充電回路が働くのだと思う。

ともかく、この 2.5mm の厚さのあるなしで一般電池と専用充電池の区別をさせるという非常にデリケートな仕組みになっているようなのであり、デリケートではあるものの厚さ 2.5mm のキャップさえ用意しておけば市販ニッケル水素電池を本体に挿したまま充電可能であることがわかった。けれど、不良電池を混ぜたり、極性を逆に突っ込んだり、アルカリ電池に充電したりと、何をしでかすかわからない使い手の頭の程度もまたデリケートなので、メーカーとしてはやって欲しくないだろうし、くれぐれも自己責任でという範疇の話である。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 22 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【猫の家のそれから】

【猫の家のそれから】

漱石が 1903(明治 36 )年から 1906(明治 39 )年まで居住し『吾輩は猫である』を執筆した家、通称『猫の家』は文京区向丘 2 丁目 20 番 7 号という場所にかつて存在した。

仕事帰りに激しく降られ、雨の満員バスに乗るのも嫌なので、不忍通りから根津裏門坂を上り日本医大と和菓子舗一炉庵脇の道を折れ、久し振りに夏目漱石旧居跡前を通って帰宅しようとしたら、日本医大関連の真新しい小綺麗なビルに建て替わっていた。

今から 20 年以上前、ここから 200 メートルほど先に行った、同じ道沿いの並びに住んでいたことがある。夏目漱石旧居跡は愛犬早太郎号が散歩の途中で立ち寄ってはマーキングしていた懐かしい場所であり、猫の家前には通称『早ちゃんの木』もあった。

と書くと20年ほど前には、漱石の小説の舞台となった『猫の家』が往時のままの姿で存在していたかのようだけれど、その時点で既に素っ気ないビルが建っていたのであり、この場所に過ぎ去った明治の時代を偲ぶものはなかった。

そんなわけで『夏目漱石旧居跡』などといっても、わざわざ見に来る価値のある場所ではないと思っていたのだけれど、それでも史跡ガイドブック片手に休日散歩で訪れる人もあるようで、土地所有者も文京区教育委員会の解説板だけでは余りにも素っ気なさすぎると思ったのか、立派な石碑が設置されていて鎌倉漱石会による碑文が刻まれている。

「それで?」と自分に問うても夏目漱石旧居跡に関するそれから先の話はない。
愛知県犬山市にある『明治村』に本物の『猫の家』は移築されて現存してはいるけれど、はるばる『明治村』にまで出掛けて行って愛知県犬山市の夏目漱石旧居前に立ったところで、そこにも『猫の家』の「それから」はないだろう。

『猫の家』に関するそれから先のお話しは、主人と愛猫が死に、明治という時代が遠くなり、家自体がその暮らしのあった土地から切り離されてしまった時点で、とうの昔に断章になっているのである。


Data:RICOH Caplio G4 wide

写真を数枚写して立ち去ろうとすると、雨の中でじっと旧居脇の塀の上からこちらを見つめる視線がある。振り向くと塀の上に猫がいて、なるほどと感心させられる通行人への小さな贈り物となっていた。


Data:RICOH Caplio G4 wide

誰が考えたのかは知らないけれど、目立たないビルの脇に、ひとつ作り物の猫を置いただけで、ここにもうひとつの新たな『猫の家』の「それから」が書き継がれていく。今にも踏み出されそうに見える猫の第一歩。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 20 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【宇沢弘文メモ】

 【宇沢弘文メモ】

柳田國男について書かれた本(柄谷行人)を読んでいたら宇沢弘文という経済学者の名前が出てきて、興味を引かれたので講演録を買ったり調べたりしながらあれこれメモ。

・道筋を立てて民を救う「経済」に出来高払い的な自由競争を原理として持ち込んではならない。

・内部からの競争ではなく、外部から均衡の道筋を考え活動を調整し続ける。外部からの視点は伸縮が自在であるがゆえに調整が可能になる。

・社会的共通資本(生まれ出た場の自然環境+からだの権利+こころの権利)を人間にとって犯されるべからざるものと規定し、その包含可能性の閾値を外部から調整するということ。調整が可能であるという限りにおいて人間も存続可能である。

講演録に、こんど『算数から数学へ』という本を岩波書店から出すとあったので( 1998.7)読んでみようと思ったらすでに絶版で、なんと古書でも 7 千円以上の値がついている。区の図書館に借り出し予約をした。

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【見上げる喜び】

【見上げる喜び】

職人がつくる足場を見るのが好きだ。人間自体もそうだけれど、人間同士の意思疎通もまた基準となる足場を決めないと構築できない。

 
熟練した職人になると第三者の目に触れる美しさまで考慮して作業する人間国宝的な人がいないとも限らない。けれど、たいがいは実用のことだけを考えて組んでいったら、結果的に第三者の目に美しく見えてしまうといった期せずして生み出される美なのだろう。実用は結果として美をはらんでいる。


清水・三保造船の足場


東京・秋葉原の足場

郷里静岡県清水、三保造船のクレーンに組まれた美しい足場も、東京秋葉原の足場もそうだけれど、高いところに小さな職人たちが写っていて、彼らはひたすら作業に集中して自分たちのいのちを支える足場を組み立てているのである。こんな奇妙な形状の場所によく足場を組めるものだと感心するけれど、足場用のバイブ、その一本いっぽんの置き方にちゃんと論理があり、その職人の知恵には必然的に美がはらまれ、見上げる通りすがりの人を感動させるのである。

もう人生にたいしたものは望まないけれど、こういうものを見上げて美しいと感じる人と一緒に歩きたいな、とは思う。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 20 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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 【結果と意図】

 【結果と意図】

東京駅新幹線ホームにて。ブースと商品と売子をコンパクトにまとめた結果。


DATA : SONY Cyber-shot  RX100 ll 

静岡駅構内にて。わかるようでわからないプラモ風公衆電話ディスプレイの意図。


DATA : SONY Cyber-shot  RX100 ll 

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【もつとコンニャク】

 【もつとコンニャク】

2022 年 5 月 18 日、静岡県清水。雑誌『季刊清水』編集会議で帰省し、大内の保蟹寺(ほうかいじ)檀家総代に原稿の依頼をし、梅ヶ谷の真珠院(しんじゅいん)ご住職に取材のお願いをした。


DATA : SONY Cyber-shot  RX100 ll 

大内から梅ヶ谷まで塩田川沿いに歩き、梅ヶ谷から清水駅まではバスがあったのでそれに乗り、清水駅前に降り立ったら時計は午後一時を回っていた。午後四時から静岡駅前で会議なのだけれど、せっかく郷里に来たのだから清水らしいものを食べたい。けれど、外食フードのチェーン店しかないのであきらめて駅ビル一階の CoCo 壱番屋に入ってみた。


DATA : SONY Cyber-shot  RX100 ll 

そうしたら清水大曲店とASTY清水店限定で『清水もつカレーライス』がメニューにあって、やられたなあと思う。注文してみたら「もつ」以外の具として「突きコンニャク」が入っていて、さらにやられたなあと思う。

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【忠実(まめ)】

【忠実(まめ)】

「まめ」という言葉は「忠実」と書く標準語である。
 郷里静岡県清水では「まめ」という言葉を非常によく用い、「まめ」であることを「まめったい」という。標準語として辞書にのっていたり、古語辞典に収録されている古いことばであっても、日常的に他地域よりはなはだしく多用することばは、やはり方言だと言いたくなる。それは、そのことばが地域特性にひどく馴染んでいる証拠であり、方言というより風土語と呼んでもいいかもしれない。


Data:MINOLTA DiMAGE 7

本郷通り上富士交差点近くにあるまめったい商家前の舗道には、四季を通じてさまざまな草木が花開いていて楽しい。楽しいと感じたら立ち止まり、時にはしゃがみ込み、カメラを持っていたら写真を撮ったりすることにしていて、それは「ありがとう、ちゃんと見ていますよ」という無言のメッセージなのである。


Data:MINOLTA DiMAGE 7

もう十年近く前、新潟県内の小さな町に仕事で宿泊したら、早朝の街角で朝市が開かれていた。
観光朝市ではなく、当座の品を扱う生活市なのだけれど、斜陽の町の商店街の冷たい雨が降る朝だったので人影がほとんどなく、ふと足を止めたらおばちゃんが話しかけてきた。
「切ない、切ない、ああ切ない」と泣き笑いのような表情で言い、「何も買ってくれなくてもいいから足を止めてくれるだけで嬉しい」と言う。「切ない、切ない、誰も人がいないのは切ない。切ない、切ない、人がいても誰も自分の方を見てくれないのは切ない」と、かじかむ手を擦りながら繰り返し呟いていた。あのときの声と表情を思い浮かべて書いていても切ない。


Data:MINOLTA DiMAGE 7

上富士交差点バス停に向かう途中、「まめったい」お店の前に豆科の花が咲いていた。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 19 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【一即多】

 【一即多】

「現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。」(西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』)

これをどんどん約(つづ)めて言えば
「現実は関係でなければならない」
   ↓
「現実即関係」
   ↓
「一即多」
となり、この「一」の起源にこだわるならば
「即一即多」
となる。 

この即の訓は「つく」であり、隙間なくくっつくことを即即(そくそく)という。隙間があるから「多」なのであって、即即として隙間がなければ同然として「一」なのである。

万物将自化(ばんぶつまさにおのづからかせんとす)と老子にある。「自」もまた即即として「即自即他」なのであって「自他未分」もそういうことを言っている。

わかりやすくゲシュタルト心理学のルビンの壺を思い浮かべて言えば、図(ず)と地(じ)の視覚もまた「即図即地」であって、図があればすなわち地がある。そういう仕組みになっている。

「しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない」(西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』)

「この私」をみとめるためには、「この」と指し示すべき特別な私自身がたくさんの「一般的な私」の中の一例であることをみとめざるをえない。そういう仕方で「この私」と自分を指し示す者、その集まりで世界はできている。

「物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。」(西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』)

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【トップ・オブ・ザ・ワールド】

【トップ・オブ・ザ・ワールド】

人間の感覚は麻痺する。

平家(ひらや)暮らしをしていた頃は二階家に憧れ、明るく風通しが良く見通しのきく二階暮らしこそが、文化的な暮らしだと思ったりした。
 
そういうちっぽけな文化的暮らしというエセ優越感が手に入るようになると、人間は、もっと文化的な高みに登りたくなる。高い場所での暮らしの方がより文化的だなどと思い始めるのは、類人猿が石のハンマーを手にし、手にしたら何かを打ちすえたくてたまらなくなるようなもので、進歩という仮面を付けた感覚的麻痺、退行の始まりと言えるかもしれない。

小学生時代、高いというだけでそこは文化の高みにいると錯覚できる場所だったのが JR 御徒町駅近くにある上野松坂屋で、休日に母親と出かけるのが楽しみだった。退屈な買い物もそこそこに、どんどん上の階に上って窓から景色を見るのが好きだったし、屋上の遊園地は平地のそれより更なるめまいをともなう高度な歓楽空間だった。

旧岩槻街道日光御成道を本郷方面に向かって歩くと、右手に文京区立第六中学がありその先に老舗酒店の高崎屋( 1751 ~ 63 年の宝暦年間に創業)がある。高崎屋のある場所は道が二股になる分岐点であり、日本橋方向から来て左手に折れれば中山道、真っ直ぐ行けば岩槻街道となり、かつては追分と呼ばれた土地であり店の前には一里塚があった。


区立六中(旧追分尋常小学校)前に立つ石柱
Data:MINOLTA DiMAGE 7

区立六中前に石柱があり、東経 139 度 45 分 41 秒にあたるこの地点は海抜 21 メートルなのだという。
そういわれてみれば本郷は台地であり、団子坂上、森鴎外の観潮楼からは海がよく見えたというし、確かにそれくらいの高さはあるのかと思う。階高 2.5 メートルとして計算すると海抜 21 メートルに建つ建物は 8 階建ての建物に匹敵し、たしか上野松坂屋も 8 階建てだった。

そうか、本郷台地の縁に建つ観潮楼から東京湾を眺めていた鴎外は、上野松坂屋屋上の縁に腰掛けていたのに等しいのだな…と恐ろしい想像をする。マンション上層階に引っ越した当時は、しばらくの間、窓際に立つと目眩がしたものだけれど、最近では親たちの暮らす部屋のベランダから下を見ても、このくらいの高さから飛び降りたくらいでは死ねないのではないかと思ったりする。高さの感覚が麻痺している。


JR秋葉原駅前に鹿島建設が建設中の40階建てマンション
Data:MINOLTA DiMAGE 7

上野松坂屋の上層階にあった食堂で食べるお子様ランチは、窓からの眺望もさることながら、子どもにとっては文化的高みの極みであり、そのチキンライスでできた山の頂上にはいつも小さな日の丸がはためいていた。デパートで食べるお子様ランチの旗が立っていた場所こそが、実は子どもにとってのトップ・オブ・ザ・ワールドだったのであり、それもまた歳をとるにつれて麻痺してしまう大切な高さ感覚のひとつである。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 18 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【朝刊の片隅を読む】

 【朝刊の片隅を読む】

朝日新聞朝刊の右下隅に小さく「30/王」という文字が刷り込まれており、これはおそらく印刷工場や輪転機をあらわす符牒で管理用なのだろう。

北区王子で育ったので、王子駅近くの荒川沿い、あらかわ遊園地近く、ずばり住所で言ったら掘船4丁目にある新聞社の大きな印刷工場が思い浮かび、あれはどこの新聞社だっけと調べたら朝日新聞ではなく日刊スポーツだという。

ひょっとすると日刊スポーツって朝日系なのかなと調べたらやはりそうで、ということはわが家に今朝届いた「30/王」の朝刊は、株式会社日刊スポーツPRESS 王子工場の 30 番輪転機で印刷されたものである。あってるだろうか。

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【文京グリーンコートのベニバナトチノキ】

【文京グリーンコートのベニバナトチノキ】

六義園正門近く、元理化学研究所のあった広大な敷地を再開発した文京グリーンコート。

その裏手で連休明けあたりからベニバナトチノキが満開になった。
花の名前などほとんど知らないのに、どうしてベニバナトチノキであるとわかったかというと、有り難いことに、ちゃんと「ベニバナトチノキ」と書かれた名札をつけて植えられているのである。

植えられて間もないはずなのに、見事に開花しており、有り難いことにベニバナトチノキは若いうちに花をつけ、さっさと一本立ちするので、街路樹として人気があるという。

マロニエとアカバナトチノキを交配して作られた品種で、トチノキ科トチノキ属、学名は Aesculuscarnea という。花の色の濃い部分に黄色いものと赤いものとがあり、それは黄色からオレンジを経て赤に変わり、蜂などの昆虫がこの色を目安に蜜を吸いに来るのだそうで、蜜標と呼ばれる。どうしてそんなことを知っているかというと、有り難いことに、ちゃんとベニバナトチノキに関する蘊蓄をインターネット上で公開されている方がたくさんおられるのである。

花の中にナミテントウが来ているので近寄ってみるとアブラ虫を補食中である。
赤い花は末期のもので間もなく地上に落ちるけれど蜜が最も多いので、アブラムシもやってくるし、それを狙ってテントウムシもやってくる。アブラムシとテントウムシの関係なんてどうして知っているかというと、有り難いことに義務教育期間中に習ったので、それくらいのことは調べなくても知っているのである。

花と同時に実も膨らんでいるけれど、同じく街路樹として都内でも多く見かけるトチノキの実とはずいぶん違うようだ。都内の街路樹が落とす栃の実は希望者が持ち帰ってトチモチを作ったりするらしいが、この実も秋には硬化して栃の実のようになるのかしらと、食い意地が張っているせいか気になる。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 17 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【目赤不動】

【目赤不動】

六義園正門を出て上富士交差点から本郷通り(岩槻街道日光御成道)を白山上方面に進み吉祥寺門前を左に見てちょっと行った右手に天台宗南谷寺目赤不動尊がある。

半村良の『妖星伝』を読んだことがあるくせに真言密教とか不動尊信仰とかに詳しくない者(自分のこと)が「おやっ?」と思い浮かべるのは、物語中で紀州胎内道にいた赤目のことであり、境内にある文京区教育委員会の説明板を読んで感動した。伊勢の国(三重県)にはそもそも赤目山というのがあり、そこで授かったとされる黄金の不動明王像(もともとは目赤ではなく赤目不動だった)を祀ったのがこの不動尊の起源なのであり、半村良の書いた通りだ!などと脳が逆走する。

江戸城鎮護のため四方に目黒・目白・目赤・目青の四不動を配し、家光によって目黄不動尊を加え五つの不動尊を「五眼不動」としたといい、それが天海大僧正の具申によるものだなどと書かれていたりすると伝奇小説『産霊山秘録(むすびのやまひろく)』を読んだことがある者は、またまた半村良の書いた通りだ!などと脳味噌が逆走したりするのである。

なまじ娯楽小説の素養がある上に教育委員会の断片的解説を読んだりすると脳味噌が逆走するので、お賽銭を入れて目赤不動様に手を合わせ、心の迷いを祓い清めて眼前を見ると、奉納用の護摩木が置かれており、表に祈願者名、裏に祈願することを書いて納めよと言う。

で、凄いなぁと思ったのは
「読みにくいお名前には振り仮名をお願いいたします」
と書いてあるのだ。偉いなぁ、この寺のおっさん(河内のオッサンではなく富山弁で和尚様、ご住職のこと)は、目赤不動様の前に座り読経しながら奉納された護摩木に書かれた奉納者の願い事を声に出して伝え、ちゃんと奉納者の名前も読んでくれるのである。

まさに僧侶の鏡であり、こういう当たり前のことができる坊主が少なすぎる(ような気が勝手にする)ご時世に、この寺は素晴らしいと感動し、わが母はきっと不動明王様に言いたいことが山ほどあるに違いないと思い、すぐに連れてこようかと思ったのだけれど、病人を引っ張って来るより護摩木を母の元に連れて行った方がはるかに合理的だと思え、百円の冥加金を納め、護摩木を一本頂いて岩槻街道を逆走する。

大喜びで書き終えた母を連れて、お札を納めに参るのだけれど、勝手に「目赤不動尊護摩供 願主」の下に名前だけでなく年齢を書き、更に所番地と電話番号まで書いているのに唖然とした。おいおい、そんなところまで情報開示せよなんて書いてないってば!

護摩木を納め、母と並んで手を合わせ、母は再び百円の冥加金を入れて新しい護摩木を持ち帰った。自宅に戻ると、さっそく表から書き始めているのだけれど、今度はなぜか名前しか書いていないので、
「お母さん、今回は名前だけでいいの?」
と聞いたら
「考えてみたら電話がかかってきたりすると嫌だから」
と言う。確かに「もしもし」と受話器を取り「ああ目赤ですけど」などと相手が目赤不動様だったら、嬉しいけど驚くもんなぁ、と母の気持ちがわかる気がしてしまい、再び脳が逆走する。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 16 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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