たいしたおっぱい

2017年1月12日
僕の寄り道――たいしたおっぱい

昼休みに朝食用のいちごジャムを買いに出て、駒込日枝神社境内で深呼吸したら、境内にあるイチョウの古木が丸裸になっていた。裸になっているので垂れ下がった鍾乳石状のものがよく見える。

駒込吉祥寺境内でも鍾乳石状のものが垂れ下がったイチョウを見かけ、そのときに調べて得た知識が「気根」だったのだけれど、ネット上で東京大学の先生が書かれたものを読むと、イチョウのそれを気根と定義するのは正しくないらしい。

それでは何かという定説が定まっていないのでとりあえず「乳」と呼ばれており、専門の先生がイチョウのチンチンと呼ばれるならチンチン、乳と呼ばれるなら乳なので、素人も恥ずかしがることなく乳と呼んで良いわけだ。それにしてもたいした乳だなぁと見上げて感心した。

【近くへ行きたい】駒込日枝神社の道標


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鉢の梅

2017年1月11日
僕の寄り道――鉢の梅

朝のニュースの天気予報を見ていたら今年はやっぱり梅の開花が早いらしい。

花は植栽より自然に近い形で開花したものが良いけれど、梅に関しては鉢植えが好きだ。それも気取った盆栽ではなく、あまり手入れをされた形跡がなく、まわりに雑草が生えほうだい、置き場所もプランターの上に重ね置き、鉢は不思議な唐子模様。こんな日当たりの悪い場所なのに、春を忘れずによく咲いたと感心するような、そんな恵まれない開花が梅の鉢植えにひどく似合うような気がするのだ。

昼休みに散歩した藍染川暗渠上の道端で見つけた梅の開花。「いいなぁ」と思う。


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記憶と意識と混乱

2017年1月11日
僕の寄り道――記憶と意識と混乱

港町で飲食店を経営していた母は一升炊きのガス釜でご飯を炊いていた。米とぎの手伝いをさせられた中学生時代、炊飯前の計量で米びつから一合升で米を移しながら
「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ…」
と数えながら、いくつかぞえたっけと思ったとたん
「あーっ、だめだ、いくつかぞえたか、わからなくなったー」
となって舌打ちしながら計量しなおしていた。

現在わが家では電子炊飯器で四合ほどご飯を炊く。少量なので計量するときは数をかぞえずに計れていて、やりなおしたこともない。カップ数をかぞていることを意識せず自然に手が動いているからだろう。

   ***

朝食には必ず自家製ヨーグルトをつけているのだけれど、妻は酸っぱいヨーグルトが嫌いなので、ノンカロリーのガムシロップで甘く味付けし、ブリザーブドタイプのイチゴを数粒落としてだましだまし食べさせている。

ふたつ並べた白いカップに白いヨーグルトを入れ、透明なガムシロップをひとつひとつ入れるのだけれど、ひとつ入れたところでどちらに入れたかわからなくなるという夢を見た。夢の中で意識を集中して何度やり直しても、ひとつ入れたところで、右と左どちらに入れたかわからなくなってしまうという不思議な夢だった。

   ***

義母が暮らす老人ホーム、若いのに認知症が始まってしまった仲良し女性二人組がおり、一人は自称「元教師」、一人は自称「遊び女」だそうで、いつもふたり手をつないで食事にやってくる。

昼食が終わって食器の片付けが終わったあたりで、遊び女が
「ところでわたし、お昼ご飯いただいたかしら?」
と言い、元教師があたりを見回し、
「みなさんいただいたみたいだから、あなただけまだということはないはずよ。お腹の具合はどう?」
と聞き、
「食べ過ぎて苦しい感じはないし、かといってお腹が減ってるって感じもないわね」
と答えるので、
「じゃあきっと食べたのよ。でもちょっと聞いてきてあげるわね」
などという会話をしているので、心の中で笑った。

遊び女は直前の記憶がなくなっており、元教師は遊び女に「お昼ご飯いただいたかしら?」と聞かれたとたん自信がなくなり、結局ふたりとも記憶が混乱しているのだ。

短期の記憶というものは意識したとたんに混乱するようで、老若男女を問わずにそういう現象がある。手続きとしての行為に「意識」を寄せつけないよう腐心するのは、暮らしの中でとても大切なことであるように思う。というか意識してしまうから気が重くなることも多く、意識せずに苦もなく行われているのが「よい暮らし方」であるような気もする。


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誘導と拒絶

2017年1月10日
僕の寄り道――誘導と拒絶

文京区内は坂も多いけれど石段も多い。坂に名前があるように、石段にも名前があったらもっと親しまれると思う。

近所で好きだった石段が、経年劣化のため使用禁止となり、フェンスを巡らせて閉鎖されていた。

暮らしている集合住宅の周りに生垣があり、サツキを植えて育てているのだけれど、ちょうど腰掛けやすい高さなのでひと休みする通行人の座り込みによる傷みがひどい。

昨秋、強い品種に植え替えをしたのだけれど、さらにフェンスを巡らせたり立札を設置して座り込み防止策を講じろと住民から管理組合に陳情があった。

腰掛けやすい構造物は見る人の心に「腰掛けられますよ」という働きかけをしており、難しい言葉で言えば「アフォーダンスを持っている」という。

腰掛けのようなものを作っておいて「腰掛けるな」と言われること、アフォーダンスがあるのにそれに応じてもらえない状況が発生すると、そのやり場のない心の処理として人はゴミを投げ入れたり落書きをしたりするのだ。

「一等地に塀をめぐらせて暮らせているんだから、座りたい人には座らせてあげればいいじゃないですか。植木代なんてそのための贅沢税だと思えばいい。腰掛けるなと書けばゴミを捨てたりする人も現れますよ」
もうすぐ三年間がんばった理事長の役目を降板させてもらうので、思い切ってそう言ってみたら意外な人にも賛同が得られた。

この階段にもゴミ捨てが発生しないといいなと思う。「階段なのでのぼれますよ」「でももう入れませんよ」などという矛盾する意味を発する場所を作るのはよくない。ゴミ溜まりや落書きのある場所にはそういう原理が働いている。


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ケフィアのリレー

2017年1月10日
僕の寄り道――ケフィアのリレー

病気で寝たきりになった母は、毎日宅配される牛乳瓶に菌を入れて日の当たるベッド脇に並べ、カスピ海ヨーグルトを作っていた。

近所の友人にケフィアをもらい、半ば強制的に始めさせられた発酵乳づくりも、すっかりわが家の習慣として定着した。容器の消毒が面倒なので母親の真似をし、500ml 牛乳バックをそのまま利用し、ケフィアきのこを次々にバトンリレーして発酵乳を作っている。

秋頃は 500ml を二日で消費するころには次のができたが、冬になったら室温が低いので発酵が遅くなり、なかなか熟成しないので 2 パック並べ 4 日発酵体制にした。

正月になり、次第に寒さが厳しくなったらさらに発酵が遅まったので、今日から 3 パック並べ 6 日発酵体制にした。冷蔵庫にある 2 日分と合わせた 4 パック、最後のアンカーはケンブリッジくんと呼んでいる。


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もちずきともちづき

2017年1月10日
僕の寄り道――もちずきともちづき

郷里静岡県清水には望月姓が多い。「もちづき」をローマ字で入力するときは「MOCHIDUKI」と入力するのだけれど、望月さんの看板には「MOCHIZUKI」とローマ字表記が添えられていることが多い。

望月ではなく漢字「朢」を辞書で引くと音読みは「ボウ」「モウ」であり、訓読みは「もちずき」「もちづき」となっている。ということは「MOCHIZUKI」「MOCHIDUKI」どちらのローマ字表記でも良いということなのだろうか。試しにこのパソコン(Mac)で「もちずき」と打ったらなんと「望月」と変換される。「づ」と「ず」のきまりには緩みがあるのだけれど、「好き(すき)」と「月(つき)」が濁るのだから、この場合あいまいさはないと思うのだけれどよくわからない。

友人からもらった海苔と豆の入ったナマコ餅。栃木の実家でつかれたものだという。

子どもの頃から正月に餅が食べられるのが嬉しくて、三食とも餅でいいくらいなのだけれど、妻は餅をあまり好まない。その妻は毎日母親の食事介助をするため埼玉の老人ホームに通っていくので、在宅時の昼食は一人になり、昼近くなって鬼の居ぬ間の餅が焼けると思うとワクワクする。自分の餠好きを自覚しながら望月さんのことを思い出した。


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横並び縦並び

2017年1月9日
僕の寄り道――横並び縦並び

鳩は電線に横並びというイメージが強いけれど、水平な止まり木のない自然界では縦並びというのもあり得るのだなと思う。

止まり木の角度がある傾斜角度を超えると、横並びで体を水平に保つための限界角度があり、それを超えるとこうして縦並びになるのだろう。


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性格ってなに?

2017年1月9日
僕の寄り道――性格ってなに?

人間関係がうまくいかないという友人の悩み事を聞きながら遅くまで飲み、原因はわかっていると言うので、その原因とやらを聞くと
「みんな私の性格が悪いから」
だと言う。どこかでよく聞かされた話だなぁと思う。

自分のことはよくわかるので自己反省はちゃんとしていています、人間関係がうまくいかない原因はすべて私の性格にあります、と言うのだけれど反省済みですと前置きしながら「性格」という言葉に原因を引き取られてしまうと、あらためて「性格ってなに?」と聞きたくなる。

仕事場に来て、読みかけになっている渡邊芳之『性格とはなんだったのか―心理学と日常概念』新曜社を探してみたけれど見つからず、足元の書棚から河野哲也『 〈心〉 はからだの外にある―「エコロジカルな私」の哲学』NHKブックスが出てきたので、偶然の勢いで一気読みしてみる。

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交差点の街路樹と偶然

2017年1月9日
僕の寄り道――交差点の街路樹と偶然

 

同じような街路樹でもスズメに人気のあるイチョウとそうでないものがあって不思議だ。本郷通りと不忍通りが交わる上富士交差点角にあるイチョウも人気樹木のひとつで、信号待ちをしていると頭上から賑やかなさえずり声がが降ってくる。

今朝も義父母の住まいの窓開けをし、雨上がりの交差点から人気樹木を見下ろしながら、あの木のことを日記に書いたことがあったなと思い出し、自分のブログを検索したらまさに 10 年前の今日、この木を見上げ、同じことを考えて写真を撮っていた。

 

写真は下から見上げた人気樹木で、撮影は 2007 年 1 月 9 日午後 4 時 37 分の日付になっている。同じ季節の同じ日に、また同じことを考えているという、ちょっとした偶然の不思議があった。人気樹木自体は十年間でどれくらい背が伸びたのだろうか。

 

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せなか側とおなか側

2017年1月8日
僕の寄り道――せなか側とおなか側

 

老人ホーム行きのバスを待っていたら妻が眼鏡屋のポスターを指差し、
「羽のせなか側ではなくおなか側を見せている蝶がいるのがわかる?」
と聞く。よく見たらかなりの数がおなか側を見せており、確かに生きた蝶を観察すると、閉じた時に見える側が派手なものと、開いた状態を上から見た時に派手なものがある。見栄えのよい側を並べたのだろう。

 

そんな話をしていたら右側から犬の襟巻をした女性がやってくるのでびっくりしたが、手前で抱いていた犬を地面に下ろし、首に狐の襟巻だけが残った。地面に下ろされた茶色いプードルはメスらしく、黒くて透けたヒダヒダのあるドレスを着せられていた。
「わぁ、妖艶なドレスを着たプードルだ!」
と妻が言うので
「妖艶なのはせなか側だけで、おなか側はすっぽんぽんだぞ」
と言って笑った。


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アフォーダンスと暇つぶし

2017年1月8日
僕の寄り道――アフォーダンスと暇つぶし

日曜日なので特養ホームに義母を訪問した。座敷に座って介護風景を見ていたら腰掛けた脇に円形の「埋木」がある。天井との間に垂直な「つかまり棒」を立てるための穴で、ポールを立てないときは塞いでおくため、円形の木片を落とし込んでおくのだろう。

そういう用途を知っている者が見ると、埋木は
「わたしは外すことができます。外すとポールを立てる穴があります。穴が見たくありませんか?見たかったらちょっと外して見ませんか?」
とこちらに働きかけているように見える。

こういう働きかけが「アフォード」で、「埋木(対象)は用途を知っている(対象に働きかける)者(行為者)に対してアフォーダンスをもつ」と言う。対象である埋木自体とその存在理由を知らない者に埋木はアフォーダンスを持たない。アホみたいな話だけれどそういうものだ。

アフォーダンスを感じたので外してみようと思ったのだけれど、なかなか外すことができない。忙しい介護者が嵌めるときは簡単で、年寄りが偶然いじって、簡単に外れてしまっては困るのでそういうふうにできているのだろう。

長くて硬い爪を持っていれば摘めそうなのだけれど、年寄り並みに深爪しているのでそうはいかない。端を押してやるとかすかに傾いて浮き上がるので、最大に浮き上がった状態でおさえ、もう一方の指先に渾身の集中力と指力を集中し、約10分ほど試行錯誤してなんとか外すことができた。こういう暇つぶしは意外に好きだ。


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種蒔く人

2017年1月8日
僕の寄り道――種蒔く人

散歩に出た道すがら、弾けて落ちた藤の種を拾ってきた。これを発芽させられるだろうかと検索したら、「豆」なので発芽の確率はかなり高いという。ふた粒あるからひとつくらいは芽が出るよう頑張って世話してみるといったら妻が喜んでいた。

鈴木大介『脳が壊れた』新潮新書を読み終えた。良かった。きっと再読したくなるだろうと思える本は、マーキングした箇所だけ一気読みしたり、記憶を辿って全文対象の検索ができる電子書籍で買っておいて良かったと思う。畑に本という種を蒔いておくのに似ている。


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永代月牌(がっぱい)

2017年1月7日
僕の寄り道――永代月牌(がっぱい)

近所の寺の脇を通ったら墓地分譲ののぼりが立っており、無縁となった古い墓石が隅の一箇所に集められていたのでお参りをしながら鑑賞した。

「永代月牌料金貳十両寄附」と掘られた石があり、月牌(がっぱい)とは冥福を祈るため毎月命日に供養をしてもらうことをいう。

一両の大雑把な換算レートを 13 万円とすると貳十(にじゅう)両だから 260 万円寺に寄付して「永代月牌」を頼み、その証文がわりにこれがたてられたのだろう。

永代供養料 260 万円が江戸時代の相場であったかどうかはわからない。


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合体樹と組体操

2017年1月7日
僕の寄り道――合体樹と組体操

小石川植物園にヘンな樹形の木があり、二股に分かれた幹のそれぞれに別種の名札がつけられている。二種類の木が接して生育し一本の木のように見えているわけで、こういう状態を合体樹という。

名札を見たらハゼノキとイロハモミジで、イロハモミジがハゼノキの膝上に立って組体操の「サボテン」をやっているように見える。何十年もこの苦しげな決めポーズを持続しているわけだ。どちらも真っ赤になって紅葉するはずなので、労をねぎらうつもりで今年の秋は忘れずに見に来ようと思う。


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綱吉とマーキング

2017年1月7日
僕の寄り道――綱吉とマーキング

「大」はともかく「小」のほうはペットボトルを持ち歩いて水をかける程度の誠意を見せれば大目に見てあげてもいいのにと思う。人間ではなく犬の大小便のことだ。「大」は飼い主が拾って持ち帰るのは当然として、「小」を我慢させるのは犬に対する虐待ではないか。

犬公方と呼ばれた綱吉の別邸を白山御殿といい、のちにその跡地である小石川植物園を含む区域にできた町を白山御殿町といった時代がある。その旧白山御殿町を歩いていたら電柱の根元にこんなマーキング禁止のサインがあった。

よくまあこんなものを見つけて、よくまあこんなふうに設置したものだと、ちょっと感心しながら笑った。首にリボンをつけてあげているのは「けっして犬嫌いなわけじゃないですよ」という意思表明だろうか。


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