電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【さらば「たぬき食堂」】
【さらば「たぬき食堂」】
2003年07月12日の日記を再掲載
大衆食堂、大衆酒場、ともかく「大衆」と付く店が好きだった父に対して、母は「大衆」が好きではなく、そういう店を選んで入る父を嫌がっていた記憶がある。
女ひとりで大衆食堂で食事をし、大衆酒場で酒が飲める女性も知ってはいるけれど、そう多くはない気がする。母も妻も僕と一緒なら「大衆」に混じって飲食ができるが、とても自分ひとりでは入れないという。父に似たのか、僕は「大衆」が好きで、若い頃から住まいが替わるとついつい近所に「大衆」の店を探してしまう。
かつて気に入って10年近く通い慣れた大衆食堂があり、そこには可愛い3人の娘さんがいて一番下の子は当時まだ中学生だったと思うが、閉店間際、働き者のご両親に甘えながら、
「大衆食堂は恥ずかしいから別の店に商売替えして、もっと裏通りでひっそり暮らそうよ~」
と駄々をこねていた。お母さんは笑いながら、
「どうして恥ずかしいの~、裏通りに行ったらお客さんが来なくなって食べていけないよ~」
と子どもをなだめすかし、常連客も苦笑していたものだった。
成人女性にとって敷居の高い「大衆」の店は、少女にとっては家業であることさえ恥ずかしいのかしらと思い、ご両親の心情を察すると切ない思いをしたものだ。
文京区本駒込、本郷通り上富士交差点近くに昭和26年創業【たぬき食堂】という大衆食堂があった。
古びた店内の味わいもさることながら、素朴で誠実な料理が有り難く、足繁く通ったものだった。いかにも家庭料理風のカレーライスに味噌汁、それに冷や奴をあわせて注文するのが僕は好きだった。祭りの季節には富士神社、天祖神社で屋台を出す香具師が食事をし、タクシー運転手や工事現場の作業員に混じって、インテリ風の外国人客もいたりして、狭い店内で肩寄せ合い、不思議な昼食を楽しんだものだった。
店が閉められたままの期間が長く、どうしたのかなと思い出すことも時折あり、ふとインターネットで『たぬき食堂』をキーワードに検索したら、2年半以上も前に、ご主人が亡くなられていたことを知って唖然とした。
いつまでもあると思うな親と大衆食堂。雑誌の取材を受け、その記事を飾り窓に誇らしげに飾っておられた日々が懐かしい。記事のタイトルにはこう書かれていた。
「男なら大衆食堂で飯を食え!」
2003/07/12
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NEW
20 音オルガニート
20 音オルガニートである朝早く(走れ並木を) Early One Morning
イングランド民謡
20 音オルガニートでリンデンバウムの歌 Lindenbaum no Uta
作曲/山本直純
20 音オルガニートでただ一度だけ Das gibt's nur einmal
映画『会議は踊る』より
作曲/W.ハイマン
を公開。
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