【ヤマチョーとカネチョー】

【ヤマチョーとカネチョー】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 9 月 20 日の日記再掲)

清水の町を歩くと気のせいかもしれないけれど、ヤマにチョーの屋号(屋号紋)を見ることが多い。

清水在住の骨董市好きの従兄に頼んで買ってもらった前掛けにヤマにチョーの屋号が染め抜かれていて驚いたし、八百屋にも海苔屋にもヤマにチョーの屋号を見かける。

次郎長さんについて詳しい魚屋さんに、
「清水にヤマにチョーの屋号をつけた店が多いのは、やっぱり海道一の大親分、清水の次郎長さんにあやかりたいという願いがあるのかな」
と言ったら、
「次郎長の屋号はヤマにチョーじゃなくてカネにチョーですよ」
などとびっくりするようなことを言う。
「えっ、だって次郎長生家の暖簾にもヤマにチョーって染め抜かれてるよ」
と反論すると、
「カネにチョーが正しいんです。復元された末廣(晩年の次郎長が営んだ船宿)を見てください」
と笑うので帰りに港橋を渡って見に行ったら確かにカネにチョーだった。

次郎長ものの時代劇に登場するのはたいがいヤマにチョーの屋号だったこともあり、てっきり山本の長五郎だからそうなのかと思っていたのだけれど、半世紀近くも勘違いしていたらしい。

東京に帰って来てつらつら考えるに、山本の長五郎だからヤマにチョーだったと勘違いしていたとするならば、どうして次郎長はヤマにチョーではなくてカネにチョーだったのかと気になって仕方なくなって来た。

午前中の暇そうな時間帯を狙って魚屋さんに電話し、
「カネにチョーのカネはどう次郎長に関係あるの」
と質問してみたら、「調べてみますよ」との返事だった。

仕事をしながら考えてみたら、ひどい愚問で働き者の仕事の邪魔をしたかもしれないと反省する。他人のせいにするわけではないけれど(と言いつつ他人のせいにするのだけれど)だいたい屋号の付け方の説明に、
「山下さんちの大輔さんだからヤマにダイでヤマダイさんと付けたりしたのです」
という説明が世間に多いのが間違いなのかもしれない。
 
もしそういうルールで屋号を付けると決まっているのなら、カネを冠した屋号は金子さん、金田さん、金森さんちの誰それでなくてはならないし、マルを冠した屋号だと丸山さん、丸井さん,丸木さんちの誰それでなくてはならず、だったらキッコーを冠した屋号の人は亀甲さんという苗字(あるのか?)、たとえばキッコーマンさんは亀甲家の万太郎さんが創業者でなくてはならない。

第一、江戸時代の庶民には苗字なんてなかったのであり、長介とか、六蔵とか、八兵衛とかのどこにでもあるような名前の頭に、文字の読めない者でもそれぞれを区別し覚えやすくするための記号としてヤマやカネやマルやキッコーなどを冠しただけではないかという気がして来た。
 
そんなわけで次郎長が屋号を付けようとしたときにはすでにヤマチョーがたくさんあったのかもしれない、あるいは次郎長さんはヤマチョーよりカネチョーの方が好きだったから適当にカネチョーにしただけかもしれないなと思いつつ、それでもカネチョーの屋号と次郎長さんの意外な関係でもネット上で見つからないかと「カネチョー」で検索したら「オカネチョーダイ」がたくさんヒットし夢を壊しそうなのでやめにする。

   ***

17 年ぶりに魚屋さんに答えを確認してみた。
屋号のカネは、単純に縁起の良い「金」にかけたものと、曲尺の様に真っ直ぐ=正直に因んだものがあるそうだが、次郎長が屋号に用いたのか意図はわからない。明治 17 年の博徒一斉刈込で投獄され翌年仮釈放後に鉄舟らに「正業を持て」と勧められて船宿商売をすることとなったようなので、曲尺の方かもしれない。
港橋傍に復元された末廣のカネチョーの文字は、次郎長研究家田口英爾さんの判断によって配したもの。根拠は戸田書店の「人間次郎長」の末廣の事を記したページにも写真掲載されているように「清水港船宿末廣カネ長」の印鑑が存在する事と、小笠原長生の「大豪清水次郎長」の中で、末廣の横壁に白塗りで屋号が描いてあったという懐古録を元にしたものである。
次郎長生家は本来は高木家で「薪三」が屋号。「生家」として一般公開した際に、映画のシーンで次郎長一家が「ヤマ長」法被で勢揃いがお決まりだったので生家の演出に用いたらしい。

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