電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【夜明けの読書メモ─「メモと OCR 」】
【夜明けの読書メモ─「メモと OCR 」】
本を読んでいると文章をテキスト入力してメモしたいときがある。iOS でも Android でも『一太郎 Pad 』というアプリを使っていて非常によくできている。OCR 用に重宝しているのだけれど残念ながら古い OS では動かない。なにか代わりになるアプリを探しているけれどいいものがない。
DATA : SONY Cyber-shot DSC-L1
世間の人たちはそれで困らないのかしら、困らないはずはないと思って検索したら、なんと画像を Googleドライブに保存して Google ドキュメントで開けば、開くとき自動で文字認識してテキスト化されるという。なーんだと感心したので適当なページで試してみた。
経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。勿論、普通には経験という語の意義が明に定まっておらず、ヴントの如きは経験に基づいて推理せられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学と称している(Wundt, Grundriss der Psychologie, Einl. SI)。しかしこれらの知識は正当の意味において経験ということができぬばかりではなく、意識現象であっても、他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は已に純粋の経験ではない。真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである。
西田幾多郎『善の研究』の、縦書き欧文まじりのページだけれど見事にテキスト化されていた。こりゃいい。
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