【改訂・のらくろマンホール】

【改訂・のらくろマンホール】

 
 
2021 年 4 月 25 日の【のらくろマンホール】に間違いがあったので改訂して再投稿です。
 
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谷田川通りにある北区田端区民センターのある場所は、かつて小杉放庵、田河水泡、小林秀雄、小林の妹で田河の妻である高見沢潤子(富士子)、そして小林の母が暮らしていた。

区民センター右脇の坂道は古道で、文明開化期の地図にもあるので江戸の昔から人々が踏み分けた生活道だった。坂を上り切るあたりで左に折れていくと2021 年 4 月 24 日の日記【 T 字路と X 字路と Y 字路】に書いた  X  字路の交差になる。

その交差地点にあたる場所に北区が設置した「のらくろマンホール」がある。作者の田河水泡をめぐる人々が交差した見事な場所に記念のマンホールが設置されている。
 
ここに「のらくろマンホール」ができるまでに、人々の縁がどのように交差したかは下記の通り。

大正7、8( 1918、9 )年頃、小林秀雄(1891 - 1976)の妹・富士子(1904 - 2004)が松本恵子(1891 - 1976)の妹・和子に会う。

大正 10( 1921 )年、小林家の父親が他界。

大正 12( 1923 )年9月1日に関東大震災。富士子、和子の紹介で東中野に和子の姉・恵子を訪ねる。
 
大正 13( 1924)年、秀雄と富士子、母親とともに高円寺南の馬橋に引っ越す。松本惠子、東中野の谷戸に6、7 軒の貸家を建てて大家となる。秀雄、愛人となった長谷川泰子(1904 - 1993)とともに家を出て高円寺駅反対側の貸家に移る。
 
大正 15( 1926)年、富士子、母親とふたりで谷中天王寺裏の貸家に引っ越す。秋、富士子、松本恵子の家で借家人だった漫画家田河水泡(高見澤仲太郎 1899 - 1989 )に紹介される。
 
大正 16( 1927)年、偶然、秀雄と佐規子(長谷川泰子から小林佐規子に改名)が田河水泡宅向かいの貸家に引っ越してくる。秀雄、佐規子との生活に疲れて出奔。
 
昭和3( 1928 )年、高見澤仲太郎(田河水泡)と富士子、結婚。谷中天王寺裏の貸家で小林の母と三人暮らし。同年秋、小杉放庵(春陽会創始者 1881 - 1964 )宅の隣の貸家に引っ越し、東京に戻った秀雄が同居する。この小杉放庵宅と貸家のあった場所が現在の田端区民センターにあたっている。
 
昭和6( 1931 )年、仕事が軌道に乗った秀雄は母親とともに鎌倉で家を構え、田河水泡夫婦も神田松住町に引っ越す。『のらくろ二等卒』の連載始まる。
 
資料は、高見澤潤子『永遠(とこしえ)のふたり 夫・田河水泡と兄・小林秀雄』講談社によった。

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この区民センター前を流れていた谷田川を上流に遡ると、暗渠(あんきょ)上にひらけた商店街染井銀座になる。昨日 2021 年 4 月 24 日の昼過ぎ、週末の買い出しで連れ合いと歩いていたら、自転車に乗ったカメラマンと編集者の  K  夫妻とばったり遭遇し、蕪の糠漬けと芋焼酎をもらった。サプライズで届けてくれようとしていたのだという。

このあと王子に回ると言うので、それならこの商店街を引き返し、谷戸の交差点から坂を上って飛鳥山の渋沢栄一旧邸前に出ると近道だと教えた。

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