プレジデント


SIGMA DP2

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電車に乗り席に座ると、ひとつおいて隣に座っている老人たちの会話が聞こえてきた。
その声を聞いて、思わず話している男性の顔を見た。
似ている・・・
しかし髪は真っ白で薄くなり、しわの多い頬にはシミがいくつか浮き出ている。

20数年前、僕は都内のとある大手メーカーで働いていた。
大きなプロジェクトに配属され、徹夜が連続する猛烈な職場であった。
プロジェクト長は、脂ののりきった40代後半のAさんであった。

僕の所属するグループはその配下にあったが、グループ長であるB部長は、Aさんより年上にもかかわらず、その配下にされていることが気に入らない様子であった。
プロジェクト長のAさんは少し冷たい感じのする人で、人情家のB部長の方が人望もあった。
しかもAさんは年上のB部長のところに来て、B君、これをやっておいてくれるかな、などと気安く頼むので、他の社員も面白くない顔をしていた。
そのグループにいる僕は、必然的にAさんとは対立する派閥に属する形になっていた。

Aさんは時折僕に「おい、○○君、コーヒーを買ってきてくれないか?」と声をかけた。
「ネスカフェのプレジデントを買ってきてくれよ。他の銘柄では駄目だからね」
Aさんは少し口をとがらせる特徴のある言い方で、そう言って僕にお金を渡した。
僕はエレベーターでビルの一階に下りて、会社の向かいにある酒屋にインスタントコーヒーの瓶を買いに行った。

グループ内の直属の上司たちは、Aさんが僕に直接命令するのも気に食わないようだった。
しかし僕は、Aさんのことを嫌いではなかった。
Aさんは同世代や少し上の社員からは、少々生意気に見えたかもしれないが、かなりのインテリでもあり、飲んで歌うだけの上司よりずっと良かった。

僕が黒澤映画のビデオを持っていることを伝え聞くと、僕の机に来て、七人の侍のビデオを貸してもらえないだろうか・・と言った。
当時黒澤映画のソフトは市販されておらず、唯一フジテレビで放映された時の録画でしか見ることは出来なかったのだが、そのテープを持つものはほとんどいなかった。
「あの映画をどうしても子供たちに見せてやりたくてね」
Aさんはそう言った。

ちょっとした異変が起きたのはその直後だった。
プロジェクトが終了し、新しいプロジェクト発足とともに、メンバーの再編成が行われた。
僕のグループのB部長が新しいプロジェクト長になり、あろうことかAさんは、その配下のチームに配属されてしまったのだ。

失脚・・というわけではなかった。
単に新しいプロジェクトの内容から、そういう編成が組まれただけだと思われる。
しかし社員というのは、ちょっとした配置の変更を真に受けて、自分が出世したと思い一喜一憂する。
今まで上司としての態度をとっていたAさんは、立場がなくなってしまった。
部屋の一番奥にある椅子に、少し笑みを浮かべて座るB部長の前で、直立不動のAさんが「はい・・・はい・・・」といちいち頷く姿を見て、さすがに他のグループ員も気の毒がり、あんな無情な人事があるだろうか・・と噂しあった。

人生にはいろいろなドラマがある。
Aさんは直接僕の上司ではなかったし、同じ部屋で仕事をした期間も短かった。
しかし僕はAさんのことを、その後も時折思い出した。

電車の中の老人は、同年代の老人たちと楽しそうに話していた。
話の内容を聞いていると、日光への旅行の話や、奥さんの田舎の土地の話などであった。
経済への考察が時折混ざる会話は、その辺の老人同士の会話ではなく、かつては大きな会社で活躍した人たちのものであった。

僕は窓ガラスに映る老人の顔をじっと見つめた。
独特の口をとがらせる話し方と、話の中に出てくる聞いたことのある名前から、Aさんに間違いないことがわかった。
「プレジデントを買ってきてくれよ」
そう言ったAさんの声がよみがえった。

よほど声をかけてみようかと思った。
しかし、同年輩の友人たちと楽しそうに話す中に、割り込んでいくのはためらわれた。
それに、恐らくAさんは僕のことを覚えていないだろう。
僕は本を読むふりをしながら、老人たちの会話にしばらく耳を傾けていたが、やがて駅に到着すると先に電車を降りた。
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