十二階


SIGMA DP1

大きな画像

江戸東京博物館に、巨大な浅草十二階の復元模型があるのを見てビックリした。
昔の写真を集めていると、この十二階には年中お目にかかるので、個人的には良く知っていたが、一般にはそれほど知られていないだろう。
それをよくまあ、こんなに大きい見事な模型を作ったものである。

1890年に開業した浅草十二階は、正式には凌雲閣という名の八角形の塔状の建物で、東京初の高層建築物であった。
当時の低い建物の中で、高さ52m(といわれている)の凌雲閣は別格の高さであり、その素晴らしい見晴らしが人気を呼んだ。
また周辺の様々な場所から望むことが出来、凌雲閣の入った風景写真が多く残されている。
ちょうど東京タワーやスカイツリーのような存在であったのだろう。
考えてみれば、いまだに高さを誇る建造物が人々の関心を呼ぶという現象は実に面白い。

凌雲閣には日本で初めての電動式エレベーターが設置されていた。
しかし故障が多く危険ということで、ほどなく撤去されてしまった。
そのため人々は長い石の階段を上っていかなければならなかった。

八角形の建物は、10階までは総煉瓦造りで、11階と12階は木造であった。
館内には絵画室、音楽演奏室、休憩室などがあり、各階に小さな売店もあったという。
11階と12階は展望室で、有料で望遠鏡を貸し出していた。

開業当初は人気を呼んだが、だんだんと客足が減り、浅草十二階は経営難に陥った。
高さだけが売りの塔は、やがて飽きられるものなのだろう。
しかし寂れてはいても、凌雲閣は浅草の町に威容をさらし続けた。
下の歓楽街は、日本でも有数の「怪しげな場所」である。
その中にそびえ立ち、あちこちの窓から望むことの出来る凌雲閣は、巣窟のシンボルのような存在になっていたのではないかと想像される。

悲劇的な最期が凌雲閣を襲う。
大正12年9月1日、正午前に突然発生した関東大震災で、凌雲閣の上層階が倒壊したのだ。
まだ揺れ続ける大地に、轟音と地響きとともに凌雲閣の上部が崩れ落ちた。
土煙が舞い上がり、傷ついた人々が逃げ惑った。
凌雲閣の展望台には12、3名の見物客がいたが、8階から折れた建物とともに地上に振り落とされ即死、一人だけが途中福助足袋の広告の大看板に引っかかり奇跡的に助かった。

凌雲閣の倒壊は、東京の代表的な建物が受けた被害であり、その変わり果てた姿は、この地震のシンボルのような存在となった。
半壊した凌雲閣の写真は、4万人からの避難民が一箇所で蒸し焼きになった本所被服廠跡の遺体の写真とともに、関東大震災の惨状の代表的な写真として今でも使われている。
経営難の十二階は再建されることなく、陸軍工兵隊の手により爆薬が仕掛けられ、多くの見物人の見守る中爆破解体された。

このように僕は浅草十二階には、何か暗く重いイメージを抱いていた。
だからこの塔の模型を見て、ちょっと驚くとともに、不思議な感動を覚えた。
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