昭和館


昭和館は地下鉄の九段下の駅から出たところにあり、皇居の北の丸公園の田安門側入り口に隣接しており、道を挟んだ斜向かいに靖国神社がある。
「戦中、戦後のくらしを後世代に伝える国立の施設」・・である。

建物は近代的なデザインの銀色の塔で、6階、7階が戦中戦後のくらしを展示した常設展示室になっている。
それ以外にも図書室や映像・音響室などがあり、様々な資料を閲覧することができる。
展示物を撮影することは禁止されているので、今回は内部の写真は無いのをご了承願いたい。

常設展示場では、昭和の初期から昭和30年代くらいまでを対象として、人々のくらしに密接した様々な品物が、時代ごとのブースに順を追って展示されている。
また各ブースには、その時代の代表的なニュースフィルムを視聴できるモニタが設置されており、興味深い映像を見ることができる。

まず展示室の入り口では、召集令状や千人針、家族への手紙、遺書など、個人の生々しい展示物が出迎えてくれる。
展示ブースは、昭和12年頃の一般家庭での生活用品の展示から始まる。
日中戦争が始まったが、まだ生活への戦争の影響は強くなく、食べ物もご飯に味噌汁にコロッケなど決して悪くない。
この食べ物は、現在僕に出しているものとまったく変わらないと、Mrs.COLKIDが言っていた(笑)

展示物は、だんだんと戦争の影を感じさせるものへと変わっていく。
食べ物が悪くなるのは、見学者にはわかりやすいかもしれない。
国民精神総動員運動の開始とともに戦意高揚のための様々な手段がとられ、次第に物資や労働力が不足してくると配給制がとられるようになった。
街に貼られるポスターも、皆で国のために・・という内容のものが目立つようになる。

子供の見学者を意識し、学童、学徒の生活の変化も取り上げられている。
団体訓練や学徒勤労動員、集団疎開などで、日の丸の鉢巻を締めて旋盤操作に従事する人形の展示などがある。
個人的にはいまさら驚く内容では無いが、親からその時代のことを聞いた事のない子供の見学者には、それなりに衝撃を与えるようだ。

やがて空襲が本格化し、警備団や国防婦人会、隣組など組織化した庶民の生活や、消火訓練などに関連した展示物が並ぶようになる。
防空壕を簡易的に体験できるジオラマもある。
小さな椅子に座って、爆弾が空を切って落下する音を聞くだけの実に簡単なものなのだが、体験してみると不思議な恐怖感を感じ嫌な気分になる。
もちろん今の技術を使えば、もっとリアルなシミュレーションは可能なのだろうが、度を越して強烈な体験を与えても、ショックを受ける子供もいるのかもしれない。

フロアを下りる階段の途中に、終戦を伝える新聞記事のシンプルな展示があり、それを境に戦後の生活に関する展示に移る。
一面の焼け野原、バラックでの被災者の生活、闇市・・など、ゼロからのスタートとなった日本人のボロボロの姿である。
警察の闇市の摘発の映像では、闇物資を取り上げられて泣き出す年寄りの姿もあった。
名誉の戦死が終戦で一転し、冷遇され生活に困窮する遺族たちの生活、塗りつぶされた教科書を使い青空教室で授業を受ける子供たち、引揚者の中に家族を見つけ抱合う親子の姿・・・

そこから復興に向けて、人々のたくましい生活が展開される。
統制が解除され、大衆娯楽が街に姿を現す。
突然の自由と希望に戸惑い、時にオーバーランする日本人の新しい生活が始まるのだ。
やがて家庭電化製品の普及とともに生活は次第に豊かなものへと変化し、高度経済成長へと続く。




(昭和館のパンフレット)


これらの展示物は、たしかにその時代を知らないものには衝撃として映るのかもしれない。
もちろん僕自身も戦争体験者ではないが、親が戦争について何の話も出来ず、戦争があったことさえ知らない子供たちには、絶対に見せておかなければならないものだ。
こういう時代を経て今の日本があるのだという認識さえ無いのでは、そもそも世界からまともに相手にされないだろう。

東京周辺に住んでいた僕の家族は、まともにこの戦争の被害を蒙ったといえる。
しかし、今こうして日本の辿ってきた道を追ってみると、不思議なほどの戸惑いも感じる。
懐かしさや共感よりも、その異様さに目が行ってしまうのだ。
あの異常な時代は一体何だったのだろうかと、一歩おいたところから、見ている自分に気付く。

もしかすると、時代がひとつの区切りを迎えたのかもしれない・・とも思った。
当事者がほぼ消えてしまったことも、大きな事実としてあるだろう。
そして恐ろしい話であるが、次の区切りに向かって動き出してしまった日本という国も感じた。

たとえば、現在のこの不況を乗り越えるためには、日本人が一致団結して力を合わせていくしかない・・と思っていたが、それは戦争初期に我々がやったことと同じではないか。
まったく同じことを繰り返そうとしているのではないか?
それをわかっていながらも、その時代を生きるものにとっては、それ以外にとる道はなく、時代の流れに翻弄されていくしかない、という恐ろしさ・・・

庶民は、何もわからずにその中に生き、そして死んでいくのかもしれない。
また知識人の大半も、わかっていたとしても、やはり何も変えることは出来ず、ただ口をつむんで生きていくしかないのではないか?
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