貴重な資料


D3X + Carl Zeiss Distagon T* 21mm F2.8 ZF

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部屋を片付けていて、いろいろ考えさせられた。
なぜこんなにも、ものを溜め込んでしまったのだろう。
貴重な資料・・いつかきっと使うことがある・・そう思って捨てずに取っておいたものばかりである。

しかしコメントいただいた通り、恐らく二度と読むことも使うこともないだろう。
人生が永遠に続くというなら、あるいは役立つこともあるかもしれない。
しかし限られた人生の中で、それらに出番が回ってくることは無いように思う。

僕の父親は若い頃、仕事の傍ら釣に没頭していた。
その熱中ぶりは、ほとんど命懸けといっていいほどで、地区の番付では常に横綱の地位にいた。
父の部屋には凄まじい数の釣竿が並び、釣に関する書物が山のように積んであった。

本棚には昭和初期に創刊された釣の本が、一冊も欠かさず数十年分ファイリングされて揃っていた。
さすが親子、やることがそっくりである(笑)
時折この貴重な資料をどうしようかという話になった。
大学の釣研究会に寄付してはどうか・・などという意見が出た。

年をとり、若い頃は無敵に思われた父も衰えてきた。
体は癌に侵され、それでも気力で仕事は続けていたが、歩く力はなく、車椅子で押されて移動するようになった。
頻繁に病院を行き来するようになり、家では電動式のベッドに横たわり生活するようになった。
もう長く生きられないことは誰の目にも明らかであった。

ある日、貴重な資料であったはずの釣の本のファイルが、庭の温室に野ざらしになり積まれているのを目にした。
驚いた僕は、どうしたのかと尋ねたが、もう捨ててしまっていいと言う。
あれほど大切にしていたではないか・・と言っても、あれを贈られても喜ぶ人はいないだろう・・などと言う。

ものに対する執着が失われていた。
それは悟りの境地・・というより、死期が近いことを意味しているように思えた。
それから数ヵ月後に父は亡くなった。

貴重であったのは資料ではなく、それを大切にする精神の方ではなかったか?
たとえ使うことは無くても、ものがそこに並んでいるだけで、生きるエネルギーを与えてくれたのではないか・・そう思うことがある。
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