酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

自虐的ユーモアが炸裂する奧泉光著「黄色い水着の謎」

2020-02-18 22:25:29 | 読書
 板子一枚下は地獄……。この言葉をブログに最初に記したのは13年前だった。俺は当時から<格差と貧困>が日本で最大の問題だと考えていたが、NHKスペシャル「車中の人々 駐車場の片隅で」(15日放送)にその感を強くした。取材班はNPOと協力し、道の駅駐車場に止めた車上で生活する人々の思いに迫っていく。貧困、孤独、老いのリンクは俺とも無縁ではない。

 前稿で友川カズキの日常を追った「どこに出しても恥かしい人」を紹介した。俺のためにあるような言葉だが、〝人〟を〝政治家〟に置き換えたらまず脳裏に浮かぶのが安倍首相だ。<99%>を斬り捨てた〝貴族院〟で嘘をまき散らし、モリカケ、桜、検察人事と政治の私物化で民主主義をぶっ壊す。首相の辞書に、<恥>という文字はないようだ。

 奧泉光著「黄色い水着の謎」(2012年、文春文庫)を読了した。〝桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活2〟のサブタイトル通り、11年に発表され小説の続編だ。桑潟幸一こと通称クワコーを最初に主人公に据えた「モーダルな事象」(05年)を合わせれば3作目となる。

 敗戦前夜に焦点を当て、光と闇が交錯する重層的な物語が展開する「モーダルな事象」は、〝遅れてきた戦争文学者〟奧泉の<表芸=純文学>に分類出来るが、〝スタイリッシュシリーズ〟は<裏芸=ユーモア小説>だ。行間から滲み出る自虐的ユーモアに、電車内で何度も噴き出しそうになった。切り口を変えれば、<表芸>、<裏芸>問わず、奧泉の作品はミステリーの要素が濃い。中村文則はアメリカでミステリー作家にカテゴライズされている。奧泉も純文学とミステリーの境界に聳え立つ蜃気楼なのだ。

 〝スタイリッシュシリーズ〟に惹かれるのは、<俺≒クワコー>だから。女性にモテそうもない風貌、セコく小心翼々、見栄っぱり、何かにつけて間の悪さetc……。俺が会話に滲ませる自嘲と自虐を、クワコーはモノローグで表出している。どこに出しても恥かしい点では、俺、安倍首相に引けを取らない。

 「モーダルな事象」でクワコーは東大阪市にある麗華女子短大(通称レータン)の助教授だったが、〝スタイリッシュシリーズ〟では千葉県のたらちね国際大(通称たらちね)準教授だ。<女性は名声や地位を伴わない知性や教養を評価しない>が経験で得た教訓だ。クワコーは大学教員(日本文学)だから、モテてもいいが、顧問を務める文芸部のギャルたちは敬意を一切払わない。

 内面を見透かされ、「クワコー的にはありか」なんて会話が飛び交う。困った時には「ここは、クワコーの出番」と持ち上げられて拒絶出来ない。軽んじられる第一の理由は、クワコーの教養が部員たちに理解されないこと。さらにクワコーは安月給で、池で捕獲したザリガニを、自生するシソと大学からくすねた調味料で味付けし、至福の時を過ごしている。

 本作には「期末テストの怪」とタイトル怍が収録されている。〝家貧しくて孝子顕る〟のことわざ通り、クワコーがピンチに陥ったら、木村部長をリーダーに〝作戦会議〟が開かれる。いつも脱線してクワコーをハラハラさせるが、奧泉は教授を務める近大でギャルたちの会話や生態を学んだのだろう。

 文芸部員はキャラが立っていて、中には村上春樹好きもいた。〝最も偏差値の低い大学の学生でも読める〟という設定に、奧泉の村上への評価が窺える。異彩を放っているのはホームレス女子大生の神野仁美(通称ジンジン)だ。いつも後半に登場し、最低限の情報を明晰な頭脳と観察力で捌き、真相を明かしていく様は、〝安楽椅子探偵〟を彷彿させる。クワコーを小ばかにしているジンジンが笑顔を見せるラストシーンが印象的だった。

 奥泉については「東京自叙伝」(14年)、「ビビビ・ビ・バップ」(16年)、「雪の階」(18年)をブログで紹介してきた。いずれも歴史を洞察し、壮大な構想に支えられた大作だが、<表芸>にも<裏芸>に見られる自虐的な語り口が浸潤している。
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