酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「カラマーゾフの妹」~甦るドストエフスキーの遺志

2013-02-28 23:20:08 | 読書
 傍目には独裁者と映るプーチン大統領だが、晩年のソルジェニツィンは〝ロシア的君主の理想像〟を見いだして支持した。風土と伝統に根付く指導者であることは間違いない。プーチンは3・11直後、「アメリカの半値で天然ガスを融通する用意がある」と日本に提案する。属州に決定権がないことを承知の上での発言だったが、「あの国に同情された。日本は〝まじでヤバい〟のか」と心配になった人も多かった。

 〝まじでヤバい〟ことは、とっくに明らかになっている。郡山市の小中学生と保護者が集団疎開を求めて市を提訴した裁判で、松崎医師が衝撃的な内容の意見書を提出した。チェルノブイリと福島のデータを対照した上で、<福島の子供たちはチェルノブイリより危険>と結論付けた。日本の国土の狭さを勘案すれば、首都圏でも多くの子供たちが甲状腺がんを発症する可能性が高い。国の将来を担う層の生存をめぐる問題なのに、抗議の声は広がらない。

 江戸川乱歩賞受賞作「カラマーゾフの妹」を読了した。題名から想像がつくように、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の続編の形を取っている。ミステリーである以上、内容にあまり踏み込むわけにはいかない。アウトラインと俺自身のドストエフスキーへの思いを中心に記したい。

 「マシニスト」では不眠が1年以上続くトレバー(クリスチャン・ベール)が、「白痴」導眠剤に用いていた。「いつか読書する日」では美奈子(田中裕子)が「カラマーゾフの兄弟」を読みながら眠りに落ちた。残念ながら、<ドストエフスキーは難解だから眠くなる>が〝常識〟として定着している。偉い大学の先生たちが1世紀近く、「教養として読め」とドストエフスキーを薦めてきたことも、誤解が生じた原因のひとつだ。

 俺にいわせれば、ドストエフスキーは<R50の至高のエンターテインメント>だ。語り口にはユーモアと毒があり、展開を暗示する思わせぶりに引き寄せられる。神と悪魔、罪と罰、純粋さと欲望、秩序と反抗、愛と嫉妬、正義感と沈黙、救いと堕落……。深淵なテーマを対比し、カタルシスとカタストロフィーに至るドラマツルギーは、史上最高の作家と呼ぶに相応しい。

 <R50>指定の理由は、齢を重ねるごとに作品への理解が深まるからだ。俺のように50代半ばになれば、見えてくるものもある。第一は近づきつつある死とそれへの対処だが、カラマーゾフ家の家長フョードルのように老いてもなお迷い惑う姿に、煩悩深き我が身が重なる。

 数年前、未読、再読問わず、主立ったドストエフスキーの小説を読んだ。途中でページを繰る指を止め、来し方を振り返ることがしばしばあった。他者を傷つけた言動、偏見、差別意識、衝動による失敗といった人生の負の蓄積と恥の数々は、ドストエフスキーを読む上で必要な養分になり、作品は心の内側に染み渡ってきた。自省や悔恨と無縁の人生を送っている人には、決してドストエフスキーを薦めない。

 「カラマーゾフの妹」が秀逸なのは、ドストエフスキーの遺志を継承した点だ。続編の構想を練りながら死んだドストエフスキーは、「カラマーゾフの兄弟」は序章に過ぎないと考えていたようだ。続編では<父殺し>から<皇帝殺し>へと飛躍したはずで、イワン、アリューシャ、リーザの三角関係のその後など、続編の核になるべきテーマを「カラマーゾフの妹」は掴んでいた。作者が女性ゆえか、カラマーゾフ家の混乱を招いたグルーシェニカが、意外な形で登場する。

 ドストエフスキーはそれぞれに役割を完璧に演じさせるが、「カラマーゾフの兄弟」では、コーリャらアリュ-シャ周辺の少年たちの描き方が中途半端だった。青年に成長した彼らが明確な目標(=皇帝暗殺)で結ばれる革命集団を結成するのは、自然の成り行きだろう。その時のアリュ-シャの行動は、「カラマーゾフの妹」で一つの答えが提示されている。

 歴史改変小説が高野の十八番という。フョードル殺しから13年後に真相が明らかになるという設定だから、「カラマーゾフの妹」の時代背景は1880年代初頭となる。ニーチェが注目を浴び、精神分析が確立した時期、内務省特別捜査官になったイワンは多重人格者として描かれ、協力者であるトロヤノフスキーが催眠療法を施している。ちなみに、イワンの内部で対峙するのは神と悪魔である。SFチックな革命集団の描き方は作者の遊びで、デビューしたばかりのホームズの探偵術が英国から伝播していた。

 
 「こんな方法があったのか」と選者を瞠目させた高野の禁じ手は、巧妙なプロット、ドストエフスキーへの理解度の高さの上に成立した。読了後、「カラマーゾフの兄弟」をもう一度、読みたくなる。惚けないうちとなると、せいぜい10年後か……。3度目にはまた、新たな骨格が見えてくるだろう。
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