寝苦しい夜が続く。就寝中、エアコンを入れたり消したりを繰り返し、浅い眠りのまま出勤している。俺が辛うじて健康を保っているのは、五輪に興味がないからだ。ふと気になって深夜にテレビをつけたら目が冴え、そのまま朝……。睡眠不足に陥っている人は、俺の周りにも多い。
「こんな時、おまえの暑苦しい駄文なんて読んでられるか」が、皆さんの本音だろう。五輪開幕後、アクセス数がブラックマンデー並みに暴落し、底を打ち続けている。暫くはクールビズし、シャーブにスリムに綴ることにしよう。
先日、小川洋子の最新作「最果てアーケード」(講談社)を読了した。イマジネーションを刺激する同作は、有永イネによって漫画化され、全2巻が店頭に並んでいる。機会があれば、コミック版も読んでみたい。
小川洋子とは映画「博士の愛した数式」で出会ったが、初めて読んだ小説は「人質の朗読会」だった。3・11直後でもあり、極限状態に置かれた登場人物に、被災者の暮らしが重なった。あれから1年2カ月、「ブラウマンの埋葬」、「ミーナの行進」に続き、「最果て――」は4作目である。
映像的な小川の筆致は、イメージを喚起する。リアリティーを追求しているようで、その実、<どこにも存在しない幻の世界>へ読者を誘っているのではないか。作品の背後に酷薄な世界が広がるグリム童話のように……。<少女の純粋な感性と、運命を冷徹に見据える眼差しを併せ持つシャーマン>というのが、俺の小川像だ。
<そこは世界で一番小さなアーケードだった。そもそもアーケードと名付けていいのかどうか、迷うほどであった>……
「最果てアーケード」はこんな書き出しで始まる。<誰にも気づかれないまま、何かの拍子にできた世界の窪み>を紹介するのは、語り部たる私だ。私とは大家の娘で、犬のペペとともに商品配達を担当している。父の死は冒頭で触れられ、最終章で経緯が綴られる。10章をビーズのように繋ぐのは、死の匂いと喪失感だ。
慎ましく生きるアーケード内の店主たちは、「人質の朗読会」の登場人物と共通点がある。一様にひめやかな記憶を仕舞い込み、モノクロームの日々を受け入れているのだ。あの時、真情を吐露していれば、もう一歩踏み出していれば、人生はカラフルに反転じただろうか。あるいは暗転し、闇に塗り込められたかもしれない。煌めきに至らなかった人々の諦念が、各章で描かれている。
愛だの恋だの騒ぐ質の俺は、Rちゃんの父や兎夫人の生きざまに、軽薄な自分が恥ずかしくなる。彼らは狂気に近い愛で、喪失感を埋めている。愛の深さは、対象を亡くした時にこそ試されるのだろう。
5月末に妹を亡くした俺にとり、「最果てアーケード」は癒やしの迷宮だった。本作を読み、<普遍的>と<個別的>の距離は意外に近いような気がしてきた。大上段に構えるのが好きな俺にそう感じさせるのも、小川洋子の魔力ゆえだ。
「こんな時、おまえの暑苦しい駄文なんて読んでられるか」が、皆さんの本音だろう。五輪開幕後、アクセス数がブラックマンデー並みに暴落し、底を打ち続けている。暫くはクールビズし、シャーブにスリムに綴ることにしよう。
先日、小川洋子の最新作「最果てアーケード」(講談社)を読了した。イマジネーションを刺激する同作は、有永イネによって漫画化され、全2巻が店頭に並んでいる。機会があれば、コミック版も読んでみたい。
小川洋子とは映画「博士の愛した数式」で出会ったが、初めて読んだ小説は「人質の朗読会」だった。3・11直後でもあり、極限状態に置かれた登場人物に、被災者の暮らしが重なった。あれから1年2カ月、「ブラウマンの埋葬」、「ミーナの行進」に続き、「最果て――」は4作目である。
映像的な小川の筆致は、イメージを喚起する。リアリティーを追求しているようで、その実、<どこにも存在しない幻の世界>へ読者を誘っているのではないか。作品の背後に酷薄な世界が広がるグリム童話のように……。<少女の純粋な感性と、運命を冷徹に見据える眼差しを併せ持つシャーマン>というのが、俺の小川像だ。
<そこは世界で一番小さなアーケードだった。そもそもアーケードと名付けていいのかどうか、迷うほどであった>……
「最果てアーケード」はこんな書き出しで始まる。<誰にも気づかれないまま、何かの拍子にできた世界の窪み>を紹介するのは、語り部たる私だ。私とは大家の娘で、犬のペペとともに商品配達を担当している。父の死は冒頭で触れられ、最終章で経緯が綴られる。10章をビーズのように繋ぐのは、死の匂いと喪失感だ。
慎ましく生きるアーケード内の店主たちは、「人質の朗読会」の登場人物と共通点がある。一様にひめやかな記憶を仕舞い込み、モノクロームの日々を受け入れているのだ。あの時、真情を吐露していれば、もう一歩踏み出していれば、人生はカラフルに反転じただろうか。あるいは暗転し、闇に塗り込められたかもしれない。煌めきに至らなかった人々の諦念が、各章で描かれている。
愛だの恋だの騒ぐ質の俺は、Rちゃんの父や兎夫人の生きざまに、軽薄な自分が恥ずかしくなる。彼らは狂気に近い愛で、喪失感を埋めている。愛の深さは、対象を亡くした時にこそ試されるのだろう。
5月末に妹を亡くした俺にとり、「最果てアーケード」は癒やしの迷宮だった。本作を読み、<普遍的>と<個別的>の距離は意外に近いような気がしてきた。大上段に構えるのが好きな俺にそう感じさせるのも、小川洋子の魔力ゆえだ。