人間は矛盾に満ちている。政治家などその典型で、脱原発を主張していた橋下大阪市長がなぜか、安倍元首相に秋波を送っている。山口知事選で橋下氏が元ブレーンの飯田氏を支援しなかった理由がわかった。変わり身の早い橋下氏のこと、安倍氏との連携が成功すれば、脱原発の看板などたちまち捨てるに違いない。
ポール・ライアン共和党副大統領候補が米英メディアを賑わせている。ティーパーティーの支持を受けるなど保守強硬派のライアン氏だが、最も好きなバンドとしてレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンを挙げていた。レイジはナオミ・クラインらとともに反グローバリズムの象徴で、<虚妄の2大政党制>の対極に位置するバンドだから、矛盾は明らかだ。
ゲバラ像と逆さまの星条旗を掲げたステージに、レイジは「インターナショナル」とともに登場する。「ホームレスよ、武装せよ」と書かれたギターを掻き鳴らすトム・モレロ(ハーバード大政治学科を首席で卒業)はライアン氏について以下のように語っている。
<ウォール街占拠運動をはじめ、世界中の活動家がレイジに触発され、地球をより人間的で正義に貫かれた場所にしようと尽力している>とし、本当にレイジのファンなら<自身の選挙運動に出資している企業犯罪者をグアンタナモに投獄し、レイジの曲を流して拷問すればいい>と皮肉っている。紹介したのはほんの一部だが、鋭い切れ味に胸がすく思いがした。
前振りとも繋がっているが、渋谷で先日、「セブン・デイズ・イン・ハバナ」(12年/フランス・スペイン)を見た。「月曜日=ユマ」、「火曜日=ジャムセッション」、「水曜日=セシリアの誘惑」、「木曜日=初心者の日記」、「金曜日=儀式」、「土曜日=甘くて苦い」、「日曜日=泉」……。ハバナを舞台に、光と影に紡がれた7編のタペストリーだった。
ハバナを訪ねる者は、誰しも風景や人々に魅了される。「月曜」の主人公テディはアメリカ人の俳優で、肉感的なボニータに圧倒された。思い出作りの夜は、意外な事実が判明してジ・エンドになる。テディが渡したヤンキースの帽子をかぶった〝彼女〟が去っていくシーンには、何か深い意味が隠されているのかもしれない。「月曜」で監督デビューを果たしたのは、「チェ28歳の革命」と「チェ39歳 別れの手紙」でゲバラを演じたベニチオ・デル・トロだ。
「火曜」では賞を授与される映画監督をエミール・クストリッツァ自身が演じていた。クストリッツァとキューバを繋ぐのはマラドーナの伝記映画で、〝神の子〟が、反米、反グローバリズムの活動家としてカストロと交遊する様子も描かれていた。ルーズで奔放なキューバ人でさえ、酔っぱらいのクストリッツァに手を焼く様子が面白い。「ノー・スモーキング・オーケストラ」を率いてツアーに出るクストリッツァが、トランペッター(運転手)とともに演奏に加わることを期待したが、〝心のジャムセッション〟にとどまった。「火曜」だけでなく、歌と音楽が本作の魅力を際立たせている。
革命から半世紀、アメリカから〝仮想敵国NO・1〟として締め付けられた結果、経済は疲弊している。貧困には慣れても、若者を覆う閉塞感は隠し難い。「水曜」では歌姫セシリアの苦悩が描かれている。彼女にビッグチャンスを与えたのは、クラブ経営者でプロモーターでもあるスペイン人のレオナルドだ。それが〝契約としての愛〟であるにせよ、合法的に出国できれば、眩い未来が開けるかもしれない。セシリアの決断は「土曜」で明らかになる。
「木曜」と「金曜」は実験的な作品だ。「木曜」の主人公はパレスチナから取材に訪れた監督(エリア・スレイマン=本人)だ。登場人物がシンメトリックな画面の真ん中に位置する構図が続く。海を見つめる人、そして海と人を眺めるスレイマン……。孤独がテーマと思いきや、恋人や家族が現れ、孤独は旅人だけの友になる。テレビ画面で繰り返し流れるカストロ(取材対象)の演説が妙に空しかった。「金曜」は恐怖映画のような異様な緊張感が伝わってくる一編だった。娘がレズビアンの快楽を経験したことを知った両親は、呪術師の力を借りることにする。南米文学にも表れる当地に根付いた土着的信仰を窺わせる一編だった。前半の淫らなダンスシーンと後半のスピリチュアルな儀式のアンビバレンツに息をのむ。
「土曜」の主人公ミルタは、失業中の夫と次女を養う普通の主婦に見える。副業はケーキ作りだが、実はテレビにも出演する高名な精神科医なのだ。他のエピソードにも登場するが、社会的地位の高くても本業だけで食っていけないのが、キューバの現実なのだろう。「水曜」のセシリアがある思いを胸に、一家を訪れる。恋人の野球選手ホセとともに、非合法に出国する道を選んだのだ。夢を追い別れを選ぶ娘、残された家族の哀しみが胸を打つ。
ラストの「日曜」では、わがままな大家マルタが早朝、住人たちを招集する。聖女像を祭るため自室を改造し、泉を造ること……。この唐突な指令にみんな文句を垂れるが、落語に登場する長屋の連中のようにそれぞれが持ち場で機転を利かせ、マルタの願いを叶える。まさに、義理と人情の世界だ。
「日曜」が象徴的だが、キューバ人といっても見た目はバラバラだ。ネイティブのキューバ人、アフリカ系、白人、そして複数の血を引く者が、和気あいあいと暮らしているように見える。ちなみに「水曜」のセシリアは黒人だが、異父妹は肌が白かった。「日曜」の監督が「パリ20区、僕たちのクラス」のローラン・カンテと知り、納得がいった。多民族国家フランスを描いたカンテは、ハバナでその発展形を見つけたのではないか。
キューバの美点を二つ挙げてみる。マイケル・ムーアが「シッコ」で描いたように、医療制度に限定すれば、アメリカは地獄でキューバは天国だ。命を守るという点についてキューバの方が勝っていることを、いずれセシリアはアメリカで気付くだろう。第二は、教科書に描かれた原爆だ。原爆資料館に足を運んだゲバラは、見聞したことをカストロに伝えた。その結果、キューバの教科書には広島と長崎で起きたことを日本より詳しく記している。
最後は堅くなったが、本作はエキゾチックでミステリアスなキューバ観光ガイドの感もある。〝牢獄国家〟とアメリカが喧伝するキューバに、自由の気風が充溢しているかもしれない。
ポール・ライアン共和党副大統領候補が米英メディアを賑わせている。ティーパーティーの支持を受けるなど保守強硬派のライアン氏だが、最も好きなバンドとしてレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンを挙げていた。レイジはナオミ・クラインらとともに反グローバリズムの象徴で、<虚妄の2大政党制>の対極に位置するバンドだから、矛盾は明らかだ。
ゲバラ像と逆さまの星条旗を掲げたステージに、レイジは「インターナショナル」とともに登場する。「ホームレスよ、武装せよ」と書かれたギターを掻き鳴らすトム・モレロ(ハーバード大政治学科を首席で卒業)はライアン氏について以下のように語っている。
<ウォール街占拠運動をはじめ、世界中の活動家がレイジに触発され、地球をより人間的で正義に貫かれた場所にしようと尽力している>とし、本当にレイジのファンなら<自身の選挙運動に出資している企業犯罪者をグアンタナモに投獄し、レイジの曲を流して拷問すればいい>と皮肉っている。紹介したのはほんの一部だが、鋭い切れ味に胸がすく思いがした。
前振りとも繋がっているが、渋谷で先日、「セブン・デイズ・イン・ハバナ」(12年/フランス・スペイン)を見た。「月曜日=ユマ」、「火曜日=ジャムセッション」、「水曜日=セシリアの誘惑」、「木曜日=初心者の日記」、「金曜日=儀式」、「土曜日=甘くて苦い」、「日曜日=泉」……。ハバナを舞台に、光と影に紡がれた7編のタペストリーだった。
ハバナを訪ねる者は、誰しも風景や人々に魅了される。「月曜」の主人公テディはアメリカ人の俳優で、肉感的なボニータに圧倒された。思い出作りの夜は、意外な事実が判明してジ・エンドになる。テディが渡したヤンキースの帽子をかぶった〝彼女〟が去っていくシーンには、何か深い意味が隠されているのかもしれない。「月曜」で監督デビューを果たしたのは、「チェ28歳の革命」と「チェ39歳 別れの手紙」でゲバラを演じたベニチオ・デル・トロだ。
「火曜」では賞を授与される映画監督をエミール・クストリッツァ自身が演じていた。クストリッツァとキューバを繋ぐのはマラドーナの伝記映画で、〝神の子〟が、反米、反グローバリズムの活動家としてカストロと交遊する様子も描かれていた。ルーズで奔放なキューバ人でさえ、酔っぱらいのクストリッツァに手を焼く様子が面白い。「ノー・スモーキング・オーケストラ」を率いてツアーに出るクストリッツァが、トランペッター(運転手)とともに演奏に加わることを期待したが、〝心のジャムセッション〟にとどまった。「火曜」だけでなく、歌と音楽が本作の魅力を際立たせている。
革命から半世紀、アメリカから〝仮想敵国NO・1〟として締め付けられた結果、経済は疲弊している。貧困には慣れても、若者を覆う閉塞感は隠し難い。「水曜」では歌姫セシリアの苦悩が描かれている。彼女にビッグチャンスを与えたのは、クラブ経営者でプロモーターでもあるスペイン人のレオナルドだ。それが〝契約としての愛〟であるにせよ、合法的に出国できれば、眩い未来が開けるかもしれない。セシリアの決断は「土曜」で明らかになる。
「木曜」と「金曜」は実験的な作品だ。「木曜」の主人公はパレスチナから取材に訪れた監督(エリア・スレイマン=本人)だ。登場人物がシンメトリックな画面の真ん中に位置する構図が続く。海を見つめる人、そして海と人を眺めるスレイマン……。孤独がテーマと思いきや、恋人や家族が現れ、孤独は旅人だけの友になる。テレビ画面で繰り返し流れるカストロ(取材対象)の演説が妙に空しかった。「金曜」は恐怖映画のような異様な緊張感が伝わってくる一編だった。娘がレズビアンの快楽を経験したことを知った両親は、呪術師の力を借りることにする。南米文学にも表れる当地に根付いた土着的信仰を窺わせる一編だった。前半の淫らなダンスシーンと後半のスピリチュアルな儀式のアンビバレンツに息をのむ。
「土曜」の主人公ミルタは、失業中の夫と次女を養う普通の主婦に見える。副業はケーキ作りだが、実はテレビにも出演する高名な精神科医なのだ。他のエピソードにも登場するが、社会的地位の高くても本業だけで食っていけないのが、キューバの現実なのだろう。「水曜」のセシリアがある思いを胸に、一家を訪れる。恋人の野球選手ホセとともに、非合法に出国する道を選んだのだ。夢を追い別れを選ぶ娘、残された家族の哀しみが胸を打つ。
ラストの「日曜」では、わがままな大家マルタが早朝、住人たちを招集する。聖女像を祭るため自室を改造し、泉を造ること……。この唐突な指令にみんな文句を垂れるが、落語に登場する長屋の連中のようにそれぞれが持ち場で機転を利かせ、マルタの願いを叶える。まさに、義理と人情の世界だ。
「日曜」が象徴的だが、キューバ人といっても見た目はバラバラだ。ネイティブのキューバ人、アフリカ系、白人、そして複数の血を引く者が、和気あいあいと暮らしているように見える。ちなみに「水曜」のセシリアは黒人だが、異父妹は肌が白かった。「日曜」の監督が「パリ20区、僕たちのクラス」のローラン・カンテと知り、納得がいった。多民族国家フランスを描いたカンテは、ハバナでその発展形を見つけたのではないか。
キューバの美点を二つ挙げてみる。マイケル・ムーアが「シッコ」で描いたように、医療制度に限定すれば、アメリカは地獄でキューバは天国だ。命を守るという点についてキューバの方が勝っていることを、いずれセシリアはアメリカで気付くだろう。第二は、教科書に描かれた原爆だ。原爆資料館に足を運んだゲバラは、見聞したことをカストロに伝えた。その結果、キューバの教科書には広島と長崎で起きたことを日本より詳しく記している。
最後は堅くなったが、本作はエキゾチックでミステリアスなキューバ観光ガイドの感もある。〝牢獄国家〟とアメリカが喧伝するキューバに、自由の気風が充溢しているかもしれない。