品川で先週末、学生時代のサークル仲間3人と再会した。メンバーを簡単に紹介する。
□Kさん…2年先輩。反骨精神と包容力を併せ持つ。某出版社労組委員長
□U君…同期。哲学にも精通するクールな知性派。某国立大司書(課長職)
□F君…2年後輩。直感鋭く行動力がある。某出版社役員
□俺…しがないフリーの夕刊紙校閲者
U君の英国からの出張帰りを機に、Kさんが企画した宴である。当日未明、父を亡くしたKさんだが、実家で弔いの日取りを整えた後、Uターンして顔を出してくれた。
浮草稼業は俺だけだが、引け目を感じることはなかった。大志と無縁の俺は、学生時代から<素浪人>になりたいと広言していた。俺は夢を実現した〝勝ち組〟なのである。最大の目標はヒモだったが……。
KさんとU君の老化は想定内だったが、F君の変化には驚いた。心配していた髪はフサフサしていたが、ミック・ジャガー似の容貌は20㌔増で往時の面影はない。「さすが重役の貫禄」と3人から茶々を入れられ、F君は苦笑しきりだった。
線路沿いのKさんのアパートが、学生時代のたまり場だった。繊細なU君、過剰さを持て余していた俺にとって、懐の深いKさんはまさに精神安定剤だった。F君が入学した時、Kさんは5年生だったが、俺を仲介に両者も交遊するようになる。
映画、文学、音楽、美術とアート全般に造詣が深いKさんは、俺にとって最良の教師だった。競馬を始めたのも近鉄をひいきにしたのもKさんの影響で、ともに足を運んだ10・19も思い出の一つだ。
別稿(今年1月8日)にもサラリと触れたが、記憶に鮮明なのは昭和天皇が死んだ日だ。風邪の兆候で病欠の電話を入れたが、薬を余分に飲んで2時間ほど眠ると汗ぐっしょりで平熱に下がっている。始業は夕方なので、出勤も可能な時間だった。迷いながらテレビをつけ、世の中の異変に気付く。
土曜日だったのでF君に電話する。「天皇が死んだ」と告げると、寝ぼけ声で「ホント」と返してきた。その夜は当然のようにKさん宅に集合する。当時Kさん、U君、俺は江古田在住、F君も近くに住んでいたので頻繁に行き来していた。
KさんとF君が結婚して遠くに引っ越しし、俺もまあ、いろいろとあった。U君も転勤などで江古田を離れ、次第に疎遠になる。十数年ぶりの再会だったが、ブランクは全く感じなかった。俺が話題を振ると、F君が瞬時に返し、U君がシニカルに突っ込んで、Kさんがユーモアでまとめる……。この絶妙の間合いで、時は和やかに流れた。
携帯番号を交換し、このブログも教えた。読者は3人増えたが、レベルの低さに失笑されることは覚悟している。
♪もしもあの日 あなたに逢わなければ この私はどんな女の子になっていたでしょう……。散会後、代々木で降りて自宅まで歩きながら、麻丘めぐみの「芽ばえ」を口ずさんでいた。
俺の場合、<あなた>は人ではなく、〝場所〟だった。入学した春、俺は華やいだキャンパスを鬱な気分で歩いていた。自分に適した温度、湿度、光度を求め、怪しげな○号館地下の奥まった場所に辿り着く。
<ここが俺の場所>と閃き、黒いドアを開けると、壁に張られたマルクスとレーニンの写真が飛び込んできた。そこがある時期、<ノンセクトラディカルの巣窟>として名を馳せたサークルであったことを知ったのは、少したってからである。
別のドアを叩いていたら、俺は転落したに違いない。裃を纏う仕事に就いて心は歪み、痴漢か何かで前科者になっていただろう。あの黒いドアこそ、俺に相応しい人生のスタートラインだったのだ。
Kさんはロックファンで、借りたレコードは100枚を下らない。U君は今年のフジロック2日目(俺は初日)に参戦し、F君は息子と毎年、パンクスプリングを楽しんでいるという。彼らの趣味に合わせ、いずれライブに誘ってみたい。〝第二の青春〟を楽しもうではないか。
□Kさん…2年先輩。反骨精神と包容力を併せ持つ。某出版社労組委員長
□U君…同期。哲学にも精通するクールな知性派。某国立大司書(課長職)
□F君…2年後輩。直感鋭く行動力がある。某出版社役員
□俺…しがないフリーの夕刊紙校閲者
U君の英国からの出張帰りを機に、Kさんが企画した宴である。当日未明、父を亡くしたKさんだが、実家で弔いの日取りを整えた後、Uターンして顔を出してくれた。
浮草稼業は俺だけだが、引け目を感じることはなかった。大志と無縁の俺は、学生時代から<素浪人>になりたいと広言していた。俺は夢を実現した〝勝ち組〟なのである。最大の目標はヒモだったが……。
KさんとU君の老化は想定内だったが、F君の変化には驚いた。心配していた髪はフサフサしていたが、ミック・ジャガー似の容貌は20㌔増で往時の面影はない。「さすが重役の貫禄」と3人から茶々を入れられ、F君は苦笑しきりだった。
線路沿いのKさんのアパートが、学生時代のたまり場だった。繊細なU君、過剰さを持て余していた俺にとって、懐の深いKさんはまさに精神安定剤だった。F君が入学した時、Kさんは5年生だったが、俺を仲介に両者も交遊するようになる。
映画、文学、音楽、美術とアート全般に造詣が深いKさんは、俺にとって最良の教師だった。競馬を始めたのも近鉄をひいきにしたのもKさんの影響で、ともに足を運んだ10・19も思い出の一つだ。
別稿(今年1月8日)にもサラリと触れたが、記憶に鮮明なのは昭和天皇が死んだ日だ。風邪の兆候で病欠の電話を入れたが、薬を余分に飲んで2時間ほど眠ると汗ぐっしょりで平熱に下がっている。始業は夕方なので、出勤も可能な時間だった。迷いながらテレビをつけ、世の中の異変に気付く。
土曜日だったのでF君に電話する。「天皇が死んだ」と告げると、寝ぼけ声で「ホント」と返してきた。その夜は当然のようにKさん宅に集合する。当時Kさん、U君、俺は江古田在住、F君も近くに住んでいたので頻繁に行き来していた。
KさんとF君が結婚して遠くに引っ越しし、俺もまあ、いろいろとあった。U君も転勤などで江古田を離れ、次第に疎遠になる。十数年ぶりの再会だったが、ブランクは全く感じなかった。俺が話題を振ると、F君が瞬時に返し、U君がシニカルに突っ込んで、Kさんがユーモアでまとめる……。この絶妙の間合いで、時は和やかに流れた。
携帯番号を交換し、このブログも教えた。読者は3人増えたが、レベルの低さに失笑されることは覚悟している。
♪もしもあの日 あなたに逢わなければ この私はどんな女の子になっていたでしょう……。散会後、代々木で降りて自宅まで歩きながら、麻丘めぐみの「芽ばえ」を口ずさんでいた。
俺の場合、<あなた>は人ではなく、〝場所〟だった。入学した春、俺は華やいだキャンパスを鬱な気分で歩いていた。自分に適した温度、湿度、光度を求め、怪しげな○号館地下の奥まった場所に辿り着く。
<ここが俺の場所>と閃き、黒いドアを開けると、壁に張られたマルクスとレーニンの写真が飛び込んできた。そこがある時期、<ノンセクトラディカルの巣窟>として名を馳せたサークルであったことを知ったのは、少したってからである。
別のドアを叩いていたら、俺は転落したに違いない。裃を纏う仕事に就いて心は歪み、痴漢か何かで前科者になっていただろう。あの黒いドアこそ、俺に相応しい人生のスタートラインだったのだ。
Kさんはロックファンで、借りたレコードは100枚を下らない。U君は今年のフジロック2日目(俺は初日)に参戦し、F君は息子と毎年、パンクスプリングを楽しんでいるという。彼らの趣味に合わせ、いずれライブに誘ってみたい。〝第二の青春〟を楽しもうではないか。
あ、そういう私もオアシスやフレミンのライブに息子と一緒に行っているから、自画自賛か(笑)
そのうち息子さんは彼女とライブに行くようになるでしょう。その時は寂しがったり、嫉妬したりしないように。
私の周りでもそういう男性がほとんど。(mixiにいらっしゃる方々は例外)
大人がRockを聴いて、良いものを若い人たちに継承していくことも大切ですよね。
仕事以外に楽しみを持てる大人の男性がもう少し増えるといいですね。
日本の企業構造の中では難しいんでしょうか。
どこに行っても、オバサンパワーはいつも全開ですごいんですが・・・。
会社というのは一種の〝洗脳装置〟で、ロックを聴き続けることと相いれない価値観を無意識に強制したりもする。
会場で背広姿のサラリーマンを見つけたりすると嬉しくなります。