不惑を過ぎて四半世紀近く経つが、俺はいまだに迷い、揺れる。映画を見ても小説を読んでも、年甲斐なく感動する。当ブログでも昨年10~12月に見た「彼女は夢で躍る」、「滑走路」、「ミッドナイトスワン」を立て続けに「今年のベストワン級」と絶賛し、仕事先の知人はあきれ顔だった。
小説も同様で、年末年始に読んだ「JR上野駅公園口」(柳美里)、「砂漠が街に入りこんだ日」(グカ・ハン)に心が震えた。先日読了した「生の裏面」(1992年)に読書への初心が甦る。李承雨(イ・スンウ)の作品を読むのは「香港パク」に次いで2作目だ。李は1959年生まれである。
学生時代、俺にとって読書は修行、苦行だった。その点は今も変わらず、〝面白い〟ことが確実の小説は避けるようにしている。とはいえ、成果があったわけでもなく、発想は十進法のままだ。還暦を過ぎても迷路に佇む俺は、心に杭を打ちながら「生の裏面」のページを繰った。
本作の語り部は無名作家で、出版社から依頼され、著名作家パク・プギルの評伝を書くことになる。パクは人見知りで打ち解けないが、初期の作品(未発表を含め)を読むことを勧める。語り部のモノローグ、パクの年譜、パクの小説からなる入れ子構成だ。
李は〝仮面をかぶった自伝〟と評していた。創作部分はあるにせよ、幼い頃からの作者の記憶や感情が投影されているはずで、<李≒パク≒作品の主人公>は成り立つ。〝心に杭を打ちながら〟と上記したが、李は自分の苦悩を彫刻しながら本作を書いたに違いない。
本作に重なるのはザ・フーだ。傑作「フーズ・ネクスト」の冒頭曲「ババ・オライリィ」でピート・タウンゼントが叫ぶ決めフレーズは♪泣くな、そんな目をするな、たかが十代の荒野じゃないか……。フーは若者たちの孤独、疎外、絶望、トラウマ、コンプレックスを表現し、絶大な支持を得てきた。彼らに心酔する俺は、還暦を過ぎても十代の荒野に佇んでいる。だが、「生の裏面」に描かれているのは、荒野というより始原の闇、絶対的な暗黒だ。
物心ついた時、パクは伯父宅で暮らしていた。父は司法試験の勉強をするため、遠くで学んでいると聞かされてきた曖昧な父の像に重なったのは、伯父宅の離れで監禁されていた精神を病む男だ。母は司祭補助をしている若い男と出奔したと噂されていた。パクは一族の再興を固執する伯父に辟易し、10代半ばで家出する。父の墓に火を付けたのは、二度と故郷に戻らないという決意の表れだった。
全てを捨てたパクは街に出る。少年は中華料理屋で働き、古本屋にたむろする。光が射さない狭い部屋にこもって読書に耽った。本作の背景に描かれているのが軍事独裁政権だ。俺は日本で日韓連帯を掲げる運動に端っこで参加していたから、当時の韓国の空気にノスタルジーを覚えた。
夜間外出禁止令の下、パクは夜の街を彷徨う。監視の目をくぐり抜け、ピアノの音に引かれて教会に入り込む。常に同志を探していたパクが、教会の先生で、合唱隊でピアノを弾く年上の女性との出会いを宿命的と感じたのは当然だった。
本作は愛の意味を読む者に問いかける。両親の愛を知らず、不器用で友達もいないパクが愛を求める。いや、両親に育まれ、普通に友達がいた俺だって、自己愛や欲望に衝き動かされ、邪な感情を愛に置き換え、自分を正当化していたことを思い出す。本作を読んで、正しく愛することが出来ない若かりし頃の傷が疼いた。いや、今もその点は変わらない。
いかに孤独に耐えるか、自分を解放するか、いかに愛するか……。作者はアンドレ・ジイドや遠藤周作に言及している。愛する女性と一体化するため神学校に入学したパクは、ラストで、狂気の淵に陥り、理性を失った。パクは神学校を去ったが、李は卒業している。
本作の帯に「韓国を、いや人間を知るには、李承雨の小説を読めばいい」というル・クレジオ(ノーベル賞作家)という言葉が記されている。李の小説は2作目だが、人間の原罪、救いを問い続ける魂の遍歴を体感したい。
小説も同様で、年末年始に読んだ「JR上野駅公園口」(柳美里)、「砂漠が街に入りこんだ日」(グカ・ハン)に心が震えた。先日読了した「生の裏面」(1992年)に読書への初心が甦る。李承雨(イ・スンウ)の作品を読むのは「香港パク」に次いで2作目だ。李は1959年生まれである。
学生時代、俺にとって読書は修行、苦行だった。その点は今も変わらず、〝面白い〟ことが確実の小説は避けるようにしている。とはいえ、成果があったわけでもなく、発想は十進法のままだ。還暦を過ぎても迷路に佇む俺は、心に杭を打ちながら「生の裏面」のページを繰った。
本作の語り部は無名作家で、出版社から依頼され、著名作家パク・プギルの評伝を書くことになる。パクは人見知りで打ち解けないが、初期の作品(未発表を含め)を読むことを勧める。語り部のモノローグ、パクの年譜、パクの小説からなる入れ子構成だ。
李は〝仮面をかぶった自伝〟と評していた。創作部分はあるにせよ、幼い頃からの作者の記憶や感情が投影されているはずで、<李≒パク≒作品の主人公>は成り立つ。〝心に杭を打ちながら〟と上記したが、李は自分の苦悩を彫刻しながら本作を書いたに違いない。
本作に重なるのはザ・フーだ。傑作「フーズ・ネクスト」の冒頭曲「ババ・オライリィ」でピート・タウンゼントが叫ぶ決めフレーズは♪泣くな、そんな目をするな、たかが十代の荒野じゃないか……。フーは若者たちの孤独、疎外、絶望、トラウマ、コンプレックスを表現し、絶大な支持を得てきた。彼らに心酔する俺は、還暦を過ぎても十代の荒野に佇んでいる。だが、「生の裏面」に描かれているのは、荒野というより始原の闇、絶対的な暗黒だ。
物心ついた時、パクは伯父宅で暮らしていた。父は司法試験の勉強をするため、遠くで学んでいると聞かされてきた曖昧な父の像に重なったのは、伯父宅の離れで監禁されていた精神を病む男だ。母は司祭補助をしている若い男と出奔したと噂されていた。パクは一族の再興を固執する伯父に辟易し、10代半ばで家出する。父の墓に火を付けたのは、二度と故郷に戻らないという決意の表れだった。
全てを捨てたパクは街に出る。少年は中華料理屋で働き、古本屋にたむろする。光が射さない狭い部屋にこもって読書に耽った。本作の背景に描かれているのが軍事独裁政権だ。俺は日本で日韓連帯を掲げる運動に端っこで参加していたから、当時の韓国の空気にノスタルジーを覚えた。
夜間外出禁止令の下、パクは夜の街を彷徨う。監視の目をくぐり抜け、ピアノの音に引かれて教会に入り込む。常に同志を探していたパクが、教会の先生で、合唱隊でピアノを弾く年上の女性との出会いを宿命的と感じたのは当然だった。
本作は愛の意味を読む者に問いかける。両親の愛を知らず、不器用で友達もいないパクが愛を求める。いや、両親に育まれ、普通に友達がいた俺だって、自己愛や欲望に衝き動かされ、邪な感情を愛に置き換え、自分を正当化していたことを思い出す。本作を読んで、正しく愛することが出来ない若かりし頃の傷が疼いた。いや、今もその点は変わらない。
いかに孤独に耐えるか、自分を解放するか、いかに愛するか……。作者はアンドレ・ジイドや遠藤周作に言及している。愛する女性と一体化するため神学校に入学したパクは、ラストで、狂気の淵に陥り、理性を失った。パクは神学校を去ったが、李は卒業している。
本作の帯に「韓国を、いや人間を知るには、李承雨の小説を読めばいい」というル・クレジオ(ノーベル賞作家)という言葉が記されている。李の小説は2作目だが、人間の原罪、救いを問い続ける魂の遍歴を体感したい。
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