先月30日、「令和の百姓一揆」東京会場(青山公園)に足を運んだ。3200人と盛況で、フランスで昨年行われたトラクターデモに着想を得て、30台が東京をデモ行進するというラディカルでアナーキーな試みに胸が躍った。農政と環境は切り離せず、食料自給率向上こそ喫緊の課題だが、現状を放置すれば日本の農業は崩壊してしまう。水田農家の時給は10円で、主催者は<所得補償の拡充>を掲げていた。
俺の前で、作業着姿の男性2人組が叫んでいた。国会議員たちへの罵倒で、「おまえら何もしてこなかったじゃないか」という内容である。草の根から生まれた運動なのに、無策だった議員連中が連帯の挨拶をするという滑稽な構図に呆れていたので、集会が終わるとデモ隊を見送り、帰途に就いた。今回の試みをきっかけに、様々な動きと連動して裾野は広がっていくと思う。機会があれば次回も参加したい。
「木曜日だった男」(G・K・チェスタトン著、南條竹則訳/光文社文庫)を読了した。チェスタトンといえば「ブラウン神父」シリーズで有名で、50年以上前、中学生の頃に二、三冊読んだ記憶がある。原作は1910~30年代に発表されたが、ミステリーチャンネル(旧AXNミステリー)で放映されたドラマ版では50年代の農村部が舞台になっていた。
本題に戻るが、1908年発表の「木曜日だった男」は「木曜日の人」など別の邦題で翻訳され、戦前の左翼学生やインテリに読まれていたようだ。チェスタトンは自由主義、反帝国主義サイドの論客で、分配主義を主張するなど平等に関心があった。思想信条に加え、カトリックへの改宗したことの影響が本作に窺える。
主人公はグレゴリーに連れられ、秘密結社「無政府主義中央評議会」に加わることになった詩人サイムだ。評議会は日曜日から土曜日までの7曜の冠を擬せられた7人の幹部で形成されているが、牛耳っているのは白髪巨躯の「日曜日」こと議長である。会議で欠員となった「木曜日」の後任が選ばれることになり、グレゴリーがその座に収まるはずが、サイムは意義を唱えて立候補し、承認される。サイムが〝哲人警察官〟であることを知るグレゴリーは激高するが、結果は覆らない。
議長は6人の中に裏切り者がいると宣言し、サイムは自分の名が呼ばれることを覚悟する。だが、名指しされたのは「火曜日」ことゴーゴリで、刑事の身分が露見した。グレゴリーと闘わせた詩についての芸術論、宗教についての考察、格差を巡る見解など、当時のイギリス論壇を反映していたが、やがてスラップスティックでシュールな活劇に転じていく。
サイムは体をブルブル震わせている「金曜日」ことウォルムス教授に後をつけられる。すばしっこさに驚いたが、ウォルムス教授もまた、哲人警察官の証しである青いカードを持つ同志だった。しかも、変装で教授の肩書を奪った役者が本業である。ストーリーが進むにつれて同志は次々に増え、暗殺阻止に向かったフランスでも敵と見做していた侯爵は軍人だった。幹部6人は全員が青いカードの持ち主で、スコットランドヤードの奥まった部屋で彼らを任命した男こそ日曜日だったという事実が判明する。無政府主義中央評議会など、最初から幻だったのだ。
サーカスの象に跨がって気球に乗る日曜日を追跡しながら、同志たちは各自、日曜日像を語り合う。宇宙そのもの、春の大地、真昼の太陽など様々で、半神半獣の原始的な神、いや悪魔とイメージは異なる。無政府主義とは何なのか、抵抗する大衆は無政府主義に依拠しているのか、無政府主義を利用しているのは富裕層ではないか、人は弱くても貧しくても全宇宙と戦わねばならないのか……。
本作は読む側に問い掛けてくるが、詩人が主人公であるためか鮮やかな色彩がちりばめられている。風景描写もカラフルで繊細だ。本作の結末を上記したが、最後に決定的などんでん返しがある。落語でもよくある夢オチなのだ。チェスタトンは収拾がつかなくなったのかもしれない。序章とラストを併せて読むと、夢にうなされていたサイムの結婚が仄めかされている。相手はグレゴリーの妹で金色がかった赤毛の持ち主ロザモンドだ。奇妙な小説だった。
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