酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

デビュー20年、平野啓一郎の到達点を示す「ある男」

2018-11-01 23:03:41 | 読書
 邦題につられ、仏映画「負け犬の美学」(17年、サミュエル・ジュイ監督)を見た。枕で感想を簡単に記す。

 主人公のスティーブ(マチュー・カソヴィッツ)は13勝3分け32敗のプロボクサーで、日本なら強制的に引退させられる戦績と年齢(45歳)だ。スティーブをスパーリングパートナーに雇った元欧州王者タレムとの友情、娘オロールとの絆がストーリーの軸になっていく。ちなみにタレムを演じたのは元世界チャンピオンのムバイエだ。リアルさと寓意を併せ持つ佳作というべきか。

 家族との絆とは、自身の存在証明とは……。「負け犬の美学」が追求したテーマは、本題ともリンクしている。読了した平野啓一郎の新作「ある男」(文藝春秋)にも元ボクサーが登場した。

 平野関連のニュースといえば、前作「マチネの終わりに」の映画化で、福山雅治と石田ゆり子が主演を務める。連載終了時、「マチネロス症候群」に陥った女性が続出した至高のラブストーリーの謳い文句は「20万部のベストセラー」だ。〝20万〟という数字が、この国の純文学が置かれている状況を示している。

 私(作者)が紹介する形で弁護士の城戸が登場する。平野→城戸→谷口大祐→Xのベクトルは、実は一方通行ではなく、遡行している。ピースの欠けたジグソーパズルがプリズムで乱反射し、城戸、谷口、X、そして平野自身の虚実をも映し出しているように感じた。

 城戸は数年前、離婚調停に関わった里枝から連絡を受ける。死別した再婚相手の谷口大祐は戸籍上、別人だったことが判明したのだ。Xは誰で、いつ谷口と入れ代わったのか……。城戸がXの実体、そして谷口の現在に迫る経緯に「火車」(宮部みゆき)が重なった。

 話は逸れるが、渋谷はハロウィーンで大騒ぎだった。ハロウィーンが日本で根付いたのは、日本古来のハレ(非日常)とケ(日常)>の世界観に重なるからだろう。厳しい規律の下で暮らす者たちは、祭礼の場で羽目を外すことを許された。いわば無礼講である。

 マルクス・ガブリエルは来日時、<静寂が叫んでいるようだ>と東京を評していた。ハロウィーンは若者にとって内なる叫びを爆発させる機会なのだろう。「ある男」に登場する男たちが囚われているのは、変身願望といった生易しいものではない。絶望と慟哭、自身の痕跡を抹消したいという願いに根差している。

 城戸が谷口とXの調査に没頭するのは、自身の状況とシンクロしているからだ。城戸は離婚も射程に入るほど、妻との関係に悩んでいる。サイドストーリーとして、原発事故によって生じた自主避難者、死刑廃止に向けた議論が織り込まれている点に共感を覚えた。

 平野と辺見庸は<3・11以降、文学は以前と同じであってはいけない>(要旨)と記していた。辺見は実行したが、平野は本作で答えを出す。城戸は在日三世という設定だが、いじめを経験することなく学校生活を送り、結婚する際も相手家族の反対はなかった。3・11の衝撃で、城戸の脳裏に、関東大震災時の朝鮮人虐殺の史実が甦る。〝民族の悲劇〟が現実味を増したのはヘイトスピートの横行だった。

 平野のみならず、日本文学のトップランナーたちは他者への寛容、多様性の尊重を作品に織り込んでいる。平野は星野智幸とともに「新潮45」騒動で批判の先鋒となった。本作は日本、そして世界における憎悪の拡大に警鐘を鳴らしながら、刃を反転させ、個々のアイデンティティーを深く抉る。 

 平野は「決壊」以降、<分人主義>に基づいて小説を著してきた。<他者とのコミュニケーションの過程で、人格は相手ごとに分化せざるを得ない(=分人)。個人とはその分人の集合体>と規定している。「決壊」の主人公は<分人>が整合性を失くして破滅した。

 「ある男」では<分人主義>に社会性が色濃くペイストされていた。相手ごとに性格を分化するのではなく、谷口やXは別人格を獲得し、コミュニティーに浸透していく。過去は上書き可能なのか……。心が揺れた城戸だが、ビーズの糸を辛うじて繋ぎ留める。

 本作には平野の鋭い考察がちりばめられていた。興味深かったのは、〝問題意識の共有が夫婦や恋人間でも重要ではないか〟と城戸が自問する場面である。俺の答えは「イエス」だが、社会への関心が薄れつつある日本において、城戸の懊悩はリアルなのだろうか。

 平野は前衛的な手法を駆使し、初期からSNSの功罪を追求してきた。<分人主義>を掲げ、政治的なメッセージを発信することも多い。そんな平野だが、真骨頂は愛を描くことである。里枝一家の丁寧な絆の描き方に感銘を覚えた。「ある男」は20年の試行錯誤を凝縮した集大成といっていい。
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