<1502> 奈良大和の鹿に思う
それぞれに みなすれぞれに 生きてゐる Paradoxの 事情にあれど
奈良と言えば、鹿を連想する人は多いだろう。奈良公園の鹿は、日々観光客等に接し、今や世界的に知られ、人気を博している。現在、春日山や若草山等を含む公園一帯には約千二百頭のニホンジカがいると言われるが、これらの鹿は飼っている鹿ではなく、みな野生で、都市に接して生息する貴重な野生動物として国の天然記念物に指定され、保護されている。故に、奈良公園の鹿は自由に行動出来ることから、町中にも現われ、公園に足を運ぶ者には概ね何処においても鹿に接することが出来るという具合になっている。
奈良公園の鹿は全国各地に生息しているニホンジカの一群で、奈良大和にも山岳を中心に各地において見られるが、ここの鹿は春日大社の創建時に祭神の武甕槌命が鹿島神宮(茨城県)から神鹿に乗ってやって来たという神話に基づき、神の眷族として扱われ、手厚く保護されて来た遠い昔からの経緯により、人との親和的な関わりが持たれ、これに都市部に棲む野生動物としての特質が認められ存在感を示している。
更にその上、鹿は草食で、猪などと違い、やさしい動物であることから、人間との親和関係を構築することにより、互いにとって身近に触れ合うことが出来るようになり、持ちつ持たれつに及んで、観光に訪れる人々にも愛好され、観光がグローバル化する中で、世界にも名声を広げ、今ではなくてはならない観光客の接待役的存在として大きく貢献し、大いに喜ばれているのである。
一方、野生の鹿を思うとき、作物や草木の植生に与える食害に目をやらなくてはならない点があげられ、奈良公園以外の野生鹿のことが常に話題になるのが昨今で、ここのところも、鹿には考えさせられるところがある。奈良大和に住まいしていると否応なく野生の鹿の人間との関係が思われ、その落差の大きいことが念頭に上って来ることになる。よく山岳に赴きそこに棲む野生鹿に出会う私には一層それを考えさせられる。
鹿の食害でよく知られるのは大台ヶ原山であるが、他にも、大峰山脈の釈迦ヶ岳一帯などでも鹿の群は見られ、食害の痕跡が酷いところもある。作物の被害に関しても、猪や猿もさることながら、最近は鹿によるものが増えていると聞く。鹿は繁殖力が旺盛で、オオカミの絶滅後、天敵がいない状況にもより、増えたとの指摘もあり、食害の対策として駆除が実施されているのが実情である。という次第であるが、果して、この鹿に対する保護と駆除の実体の落差は悩ましい問題で、鹿という動物と人間の関係にパラドックスとかカリカチュアという言葉が皮肉をもって浴びせられるような心持ちになることも否めずあることが山行きの度に思われたりするのである。
奈良公園の鹿のごときは近づくと親しく寄り添って記念写真なんかにも収まってくれる。これに対し、山岳などで出会う鹿は同じニホンジカながら、三十メートルも近づけば、警戒してこちらをじっと見詰め、それ以上近づいて行くと、身を翻して遠くへ散って行く。この落差を思うとき、私にはパラドックスとかカリカチュアという言葉がやはり脳裏を掠めるのである。
これは私たち人間の都合による鹿への識別行為から来ていると言えるが。もともと私たちの生そのものにパラドックスやカリカチュアの一面が伴ってあり、それが何らかの条件下に表面化するということではないか。この鹿の問題はその例であるが、これは生の本質に関わることで、今少し解りやすい例をあげると次のような話がある。
柳田國男は『野鳥雑記』の中で、「物の命を取らねば生きられぬものと、食われてはたまらぬ者との仲に立っては、仏すらも取捨の裁決に御迷いなされた。終には御自身の股の肉を割愛して、餓え求むる者に与え去らしめたというがごとき姑息弥縫の解決手段の外に、この悲しむべき利害の大衝突を、永遠に調和せしむる策を見出し得なかったのである」と言っているが、この例なども鹿の状況に似て、パラドックスとかカリカチュアが思われるところで、そこには生の本質が見え隠れしていると言える。
これは金魚を狙う翡翠と翡翠に狙われる金魚の命に関わる話であるが、私たちには教訓として捉えることの出来る話だと思う。ここで、金魚に等しい鹿の立場に立って考えてみるとどうだろうということが思われて来る。果たして、奈良公園の鹿のように野生とは言われながらも、半分は餌づけされ、所謂、純野生からすれば堕落したような生きざまの鹿が生を十分足らしめているかというようなことが思われたりする。
一方、山岳の鹿については、人間の脅威に対しなければならない状況ながら、野生の矜持をもって逞しく深山を駈け廻っている姿が思われる。毛並みだけでは判断出来ないが、オール自然の中で暮している山岳の鹿の方が毛並みの艶がよい。生きるには食にありつけることが第一に違いないが、それだけではないものがこの鹿の比較には言えるように思える。
そして、鹿にも運命づけられたそれぞれの生があることをもって見ることがまた思われて来たりする。言わば、生は一様ではなく、個々にあって、奈良大和の鹿事情においてもそれが言える。つまり、鹿はそれぞれにあって、その事情下に暮らし、ときには厳しく、ときには楽しく、パラドックスやカリカチュアを言われながらも、生きいる価値を有して逞しく生きている。 写真は登山者の私に警戒の目を向ける大台ヶ原山の鹿(左)と観光客と触れ合う奈良公園の鹿(右)。