<1517> 庭 の 雑 草
雑草を 抜きつつ庭に 跼る 二律背反 考へながら
春めいて草木が芽を出し勢いづいて来ると、庭の雑草も生え出して来ていつの間にか地面に青味を添えて来るのが見られる。どういう具合になっているのか、雑草というのは取っても 取ってもその後から次々に生え出して来る。で、春先の庭では一つの諦観、否、覚悟が求められることになる。それはこの時期、花々もさることながら雑草との戦いが幕を開けるからである。
春先の雑草は根を深くまで張らず、取りやすいところがある。この取りやすい間にと思い、範囲を決めて庭の一角に跼り雑草に向かったのであった。地に貼り着くように生え出しているのはカタバミだろう。ほかにもホトケノザやハハコグサ、カラスノエンドウなど。庭を芝生にしていたころの名残りに違いない。シバなども見える。まだ、双葉の雑草もあり、茎と葉だけではどんな草か確認出来ないものも見られる。土の硬いところでは、抜き取るというよりも削り取るようにした。そうした方がはかどるから。
「雑草も山野のにぎわい」とは、私が常々思っている見解であるが、庭に侵入する雑草にも当てはめて言えるかどうか。これを質せば、すべてとは行かないという答えに至る。だが、雑草は綺麗さっぱりことごとく取り除かなくては済まないかと言えば、そうは言えず、昨年咲いた花から生まれて散り落ちた種子が勝手に生え出しているノースボールやムスカリなどは、花の観賞がしたく、適宜残すようにしている。所謂、選別で、選別は宜しくないと言えるが、庭の管理をする上にはほかに方法がない。選別は少々気の引けるところであるが、これは世の常のことで、生においては至るところ見られる仕儀であれば致し方ないと自分を納得させる次第である。
つまり、私の思い入れがそこには加わるわけで、言うならば、個人の家の庭というのはその家の住人の嗜好、或いは思想が現われるものと知れる。私はつい最近までほとんど庭に立たず、庭を仕切るのは専ら妻で、庭のほとんどすべては妻の差配、イニシアチブによって来たところがある。
殊に花壇では妻の意向が反映されているので、私の出番は土や肥料など重いものを運ぶときに手伝うくらいである。言わば、我が家の庭の表情は妻の嗜好、或いは思想の現れであるというのがほぼ正しいと言える。最近よく話題に上る断捨離ではないが、不要なものを始末すると言い出した妻から「書棚の本を何とかして」と詰め寄られているのであるが、これに対し、私は「庭の隅に放置している植木鉢こそ処分したらどうか」と抵抗し、今、まさに綱引きの均衡状況にある。
それにしても、春先の雑草というのは、夏の旺盛なのに比べると可愛いものである。しかし、芽と同じく、カレル・チャペックが『園芸家12カ月』で言っているように、「生まれたものの弱々しさと、生きようとする意志の不敵なひらめき」が見られ、抜きにかかる私の指に、その弱々しさをもって抵抗するがごとくに感じられるところがある。
こうして、一応予定して取りかかった庭の一角の雑草取りは二時間ほどで済ませたのであるが、雑草はポリバケツ一杯ほどになった(写真左)。なお、雑草とは、私たちにとって用なしの草ということで、ノースボールやムスカリは花を愛でる園芸植物であるが、花壇やポットから逸出しているものに関しては雑草扱いにしてもよいのではないか。という次第で、庭のそこここに見られるものについては雑草と見た。抜かず残したノースボールは日当たりのよいところでは成長が著しく、白い花を咲かせ始めているのが見られる(写真右)。