大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年02月24日 | 植物

<1517> 庭 の 雑 草

         雑草を 抜きつつ庭に 跼る 二律背反 考へながら

 春めいて草木が芽を出し勢いづいて来ると、庭の雑草も生え出して来ていつの間にか地面に青味を添えて来るのが見られる。どういう具合になっているのか、雑草というのは取っても 取ってもその後から次々に生え出して来る。で、春先の庭では一つの諦観、否、覚悟が求められることになる。それはこの時期、花々もさることながら雑草との戦いが幕を開けるからである。

 春先の雑草は根を深くまで張らず、取りやすいところがある。この取りやすい間にと思い、範囲を決めて庭の一角に跼り雑草に向かったのであった。地に貼り着くように生え出しているのはカタバミだろう。ほかにもホトケノザやハハコグサ、カラスノエンドウなど。庭を芝生にしていたころの名残りに違いない。シバなども見える。まだ、双葉の雑草もあり、茎と葉だけではどんな草か確認出来ないものも見られる。土の硬いところでは、抜き取るというよりも削り取るようにした。そうした方がはかどるから。

 「雑草も山野のにぎわい」とは、私が常々思っている見解であるが、庭に侵入する雑草にも当てはめて言えるかどうか。これを質せば、すべてとは行かないという答えに至る。だが、雑草は綺麗さっぱりことごとく取り除かなくては済まないかと言えば、そうは言えず、昨年咲いた花から生まれて散り落ちた種子が勝手に生え出しているノースボールやムスカリなどは、花の観賞がしたく、適宜残すようにしている。所謂、選別で、選別は宜しくないと言えるが、庭の管理をする上にはほかに方法がない。選別は少々気の引けるところであるが、これは世の常のことで、生においては至るところ見られる仕儀であれば致し方ないと自分を納得させる次第である。

                  

 つまり、私の思い入れがそこには加わるわけで、言うならば、個人の家の庭というのはその家の住人の嗜好、或いは思想が現われるものと知れる。私はつい最近までほとんど庭に立たず、庭を仕切るのは専ら妻で、庭のほとんどすべては妻の差配、イニシアチブによって来たところがある。

 殊に花壇では妻の意向が反映されているので、私の出番は土や肥料など重いものを運ぶときに手伝うくらいである。言わば、我が家の庭の表情は妻の嗜好、或いは思想の現れであるというのがほぼ正しいと言える。最近よく話題に上る断捨離ではないが、不要なものを始末すると言い出した妻から「書棚の本を何とかして」と詰め寄られているのであるが、これに対し、私は「庭の隅に放置している植木鉢こそ処分したらどうか」と抵抗し、今、まさに綱引きの均衡状況にある。

 それにしても、春先の雑草というのは、夏の旺盛なのに比べると可愛いものである。しかし、芽と同じく、カレル・チャペックが『園芸家12カ月』で言っているように、「生まれたものの弱々しさと、生きようとする意志の不敵なひらめき」が見られ、抜きにかかる私の指に、その弱々しさをもって抵抗するがごとくに感じられるところがある。

 こうして、一応予定して取りかかった庭の一角の雑草取りは二時間ほどで済ませたのであるが、雑草はポリバケツ一杯ほどになった(写真左)。なお、雑草とは、私たちにとって用なしの草ということで、ノースボールやムスカリは花を愛でる園芸植物であるが、花壇やポットから逸出しているものに関しては雑草扱いにしてもよいのではないか。という次第で、庭のそこここに見られるものについては雑草と見た。抜かず残したノースボールは日当たりのよいところでは成長が著しく、白い花を咲かせ始めているのが見られる(写真右)。

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年02月23日 | 祭り

<1516> 古 都 奈 良

           奈良は今 お水取りへと 日一日

 歴史に彩られた古都奈良というところは古社寺が多く、その昔から毎年巡り来る行事をそれぞれにこなしながらその営みを続けている一面が見受けられる。その行事というのは、各社寺それぞれ古式に則って行なうもので、行なう人たちは変わっても、「恒例」と言われるごとく、昔ながらの変わらない様式に従って行事は繰り返されている。これは新鮮味に欠けるところなきにしもあらずであるが、行事は伝統となって、一年の巡る季節を告げる風物詩のようにもなり、親しまれて今に至っているところがある。

                  

 奈良の冬から春への時季で言えば、師走に行なわれる春日若宮おん祭があり、正月を迎えてからは、若草山の山焼き、各社寺の節分祭、そして、春本番を前に、東大寺二月堂の修二会のお水取りがある。お水取りを見ても、毎年、同じことが行なわれるのであるが、同じことを繰り返すゆえに伝統が生まれ、この伝統を絶やさないことが営みの無事と持続を意味するところとなり、そして、その行事によって巡りの季節を私たちに感じさせるという具合になる。

 私たちにとって一年の巡りには気持ちの上のメリハリが大切で、その意味から言っても、毎年同じときに行なわれる恒例行事というのはその役割も担ってあると言える。古都奈良における古社寺の年中行事にはそうした一面があると言ってよい。「お水取りが終わると、奈良には春が訪れる」と言われるのも、私たちの気持ちにメリハリをつける意味があると思える。 写真は若草山の山焼き(左・多重露光による)とお水取りで、二月堂の廻廊を走る大松明の炎(右・長時間露光による)。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年02月22日 | 写詩・写歌・写俳

<1515> 病院の待ち合い時間

          病院の 待ち合い長し 患者らは 義務たるところ 待ちゐたるなり

 病院の待ち合い時間は長い。いつものことながらそう感じる。患者が多く、医師の診察が細やかであれば当然起きて来る現象と言え、受診する患者には致し方のないところで、じっと待つ以外にない。病院側も予約制にしたりして待ち合いの解消に当たっているのだが、予約でも予定の時間通りには運ばず、待ち時間が生じて来るということになる。

                               

 今日は三ヶ月に一回の検査の日で、血液と尿検査の後、診察を受けた。検査の結果は、前回とほぼ変わりない数値で、まずは一安心といったところ。ところで、待ち時間が長いということも、私には三ヶ月に一回で、待つことにはすっかり慣れている。だが、まだかと語気を含んで看護師に詰めよる患者も、ときにはいるといった具合である。私としては、予定を立てて病院行きに備えているので、待ち時間も想定内で、それほど苦にはならないが、中にはいらつく患者も見かけるという次第である。

 待ち合い時間が延びるということは、患者を診る側の医師にも診察時間が長くなるわけであるから、この件はお互いさまということになる。そう考えると待つ側の気分も落ち着く。もちろん、担当医の熱意がそこには影響していることなので、患者としては、感謝の念をもって待ち時間を義務たるものというくらいに受け入れなくてはならないと思えて来たりもするのである。写真は来院車で満杯の病院駐車場。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年02月21日 | 写詩・写歌・写俳

<1514> 三 寒 四 温

        追ひかけて オオイヌノフグリ 咲き出せり

 三寒四温の今日このごろであるが、暖かかった今日、二十一日、ウグイスの初鳴きを聞いた。大和地方は雨の天気予報だったはずであるが、晴れた。その分暖かくなり、まだぎこちない鳴き声ながら二箇所で初鳴きを聞いた。

  また、日当たりのよい堤の草地にはオオイヌノフグリが群がって咲くのが見られた。フキノトウが顔を出して幾日か、フキノトウは一段と大きくなり、食べごろになった。このフキノトウを追いかけるようにオオイヌノフグリが瑠璃色の花を咲かせ、そこここに見られるようになった。

                                                

  タンポポの花もところどころに見られ、枯れ草色の堤に彩りが添えられている。ウメは白梅も紅梅も満開の木が多く、やはり今年は花が早いように思われる。三寒四温の寒暖のウエーブに従って徐々にほかの花も姿を見せ、春本番を迎えることになる。 写真は咲き始めたオオイヌノフグリとフキノトウ。では、今二句。     鶯の初鳴き 姿見えざるが   ほっこりと 三寒四温 地の温み  


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年02月20日 | 写詩・写歌・写俳

<1513> 飲む 打つ 買う

         弱さとは 悪しきことには あらざるが 悪しきに圧され ゆくものとこそ

 このブログの<1137>で、俗に言われる「飲む、打つ、買う」について触れたが、最近の社会の様相を概観するに、この俗言が思い出される。とともに、かつて男の甲斐性のように言われたこの「飲む、打つ、買う」が、今は変質して事件などにも関わり、昔に比して深刻化し、社会の弊害としてクローズアップされ、問題にされているように思われる。

  これは時代の進化にともなう反面現象の一端と見ればよいのだろうか。そのようにも受け取れるところがある。時代の進化とともに欲望も欲望のはけ口も多大になり、その結果としての快楽もその反面の苦悩も長ずるところとなる。これは森鷗外が看破した認識であり、私たちへの教訓として捉えることが出来るが、最近起きているこの種の話題には、このことがよく示唆されている気がする。

                              

 「飲む」とは酒を飲むことであり、その酒に酔い、酔いに乗じて快楽に浸ることを言うものであるが、この酒が今や覚せい剤に取って替わり、問題をより深刻化させているのが現代の状況と言える。覚せい剤は常用性が強く、これが進むと常用者には人生を破壊してしまう取り返しのつかない事態に陥いる。これは「飲む」欲望の進化の現象で、快楽を求めて止まない現代並びに現代人が問われている一つの社会問題だと言える。

 次に「打つ」であるが、これは博打のことで、金銭を賭けて一攫千金を狙う金欲を言うものである。この欲にとり憑かれる御仁も多く、それを示す言葉であるが、これにも社会の進化がともなっているか。この問題には詐欺や詐欺まがいの事件が多く、根本には金欲が絡む。昨今ではこの問題もグローバル化し、金額も巨額に及び、見方によれば、国がこれに関与して政策的に押し進めている向きも認められる。年金の積立金を株に投資する比率を上げるとか、一般国民を株式の運用に導くような政策を取るとか、これらも、言ってみれば、この「打つ」に属する金欲の現れと私には思える。一つには浪費が反面にある。借金にもノ―天気でいられる国の資質による昨今の財政事情もこうした一面の現れと見なせる。

  また、カジノを誘致してはどうかというような声も上がっている。言わば、政府公認の博打場を設けて、所場代を稼ぐというものであるが、これは博打の奨励にほかならない。この金欲にも酒や覚せい剤と同じく、依存症という厄介な副作用が生じて来る可能性がある。株のことにしても金欲に関わることであれば、同じような依存症の問題が考えられるわけで、国自体がこの依存症にはまり込み、よりリスキ―な運用に当たることも大いにあり得ることが言える。これは国民を不幸に導くことにもなりかねない、それこそ大博打だと言わざるを得ない。

  最後に「買う」であるが、これは男の女遊びを言うもので、男女の色恋沙汰、つまりは性欲に絡むことであるが、これにも当然のこと、トラブルがついて回る。これも社会の進化かどうか、最近は女の進出が著しく、その反面、男に甲斐性のない状況が生まれ、その状況が社会の底辺において顕著に見られるようになった。男に甲斐性がないため、トラブルの解決が上手く行かず、追い込まれて殺傷事件などに及ぶというケースがそこここに見られたりしている。もちろん、事件は個人的資質に発しているが、加古川の事件などはこの男女の優位性が逆転している典型的な事例と言えるだろう。これも、言わば、社会の進化とともなって起こった負の現象の一つと受け取れる。

  話題になっている元衆議院議員の不倫騒動の顛末にあって「けじめをつけて来なさい」と不倫議員を記者会見に送り出した妻と記者会見で宙に浮いたような謝罪に終始した夫の元議員を比べてみてもわかる。男が如何に情けない体たらくを曝しているか。これは一つの例で、これも個人の資質によるのだろうが、この男の体たらく現象には社会的要因も絡んでいると見なせるのではないかということが思われて来る。

  それは、一つに女の社会進出が進むにつれ、例えば、仕事において男よりも女の方が優れ、男が弱体化し、男女間のバランスにおいて男の居場所がなくなって来ていることにも因が考えられる。つまり、男が十分にその能力を発揮することが出来ず、悶々とした溌剌たるところになく社会生活に関わりを持ち日々を送っていることに通じているのではないかと、そんなふうにも思われたりするのである。

 昔であれば、男が外に働きに出て、女が家を守った。だが、今は男も女も外に出て働くスタイルになり、家庭が疎かにされるような社会の仕組みになって来た。この仕組みが経済優先の社会の仕組みなのだろう。結果、男が弱くなり、その弱さが暴力という形で現われたりしているのが最近の男女間における事件に反映されたり幼児の虐待や女性への暴力に繋がっていると見られる。

  言わば、記者会見で大泣きをした兵庫県議の姿が象徴的な例で、これも社会の進化にともなう反面としての現象と言えるのであろう。昔は女が泣いたが、最近は男が泣く。そういう時代になって来た。言ってみれば、責任がきっちりと取れる男が少なくなり、男に男の振る舞いが出来ないことを痛感させる一見やさしいひ弱な男が表面化してきた時代になったと言える。情けなくも。 写真はカットによる。