大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2011年10月26日 | 写詩・写歌・写俳

<54> リ ン ド ウ
            晩秋の 棚田の畦の 草むらに 誰知るとなく 龍胆の花
  リンドウは本州、四国、九州に分布するリンドウ科の多年草で、大和では山野に自生する。花期は晩秋のころで、草花の中では遅く、清少納言が『枕草子』に「枝ざしなどもむつかしけれど、こと花どものみな霜枯れたるに、いとはなやかなる色あひにて、さし出でたる、いとをかし」とその印象を述べているように、花は一年のしんがりを担って咲く。
  根茎が苦く、 これを龍の肝に見立ててリンドウ(龍胆)の名が生まれたといわれ、 苦味健胃薬の薬用植物として昔から名高く、エヤミグサ(疫病草)などの地方名でも知られる。この薬効顕著なことは世界的にも認められているようで、 古代エジプトではすでにリンドウを薬として用いていたことが墳墓から発見された処方箋に記されているといわれる。
  山国の大和では山野に見られ、殊に山間や高原の一帯に多く、山岳の高所にも岩場などでよく見かける。リンドウのほかに、春に咲くフデリンドウ、紀伊半島の南部に限定分布するアサマリンドウ、ツル性のツルリンドウ、それに葉が細い変種のホソバリンドウ、 花を完全に開かない特徴をもつオヤマリンドウに近いものなどが自生している。

                                           
  上段の写真は左からリンドウ(草丈が低いのは草刈りされるためである。平群町白石畑)、オヤマリンドウに近いタイプ( これ以上花は開かない。大台ヶ原山)、アサマリンドウ(大和では最南部に分布。 十津川村の果無峠)、ツルリンドウ(赤い果実も印象的。大和郡山市の矢田山系)、フデリンドウ( 春咲きの二年草。大和では絶滅危惧種。 若草山)。ホソバリンドウはまだ撮影に至っていないので撮ることが出来ればつけ加えたいと思う。下段の写真は棚田の畦の花(宇陀市)。

                                          

   ゆく秋を惜しむがごとく咲き出でし棚田の畦の龍胆の花
   高畑(たかはた)の野焼きの煙棚引ける山里静か龍胆の花
                 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2011年10月25日 | 写詩・写歌・写俳

<53> 時
    私たちは 時を費やしながら 生きている
   そして いつかは時を使い果たし 終わる
   時は決して止まることなく 非情にも 過ぎてゆく
   速くもなく 遅くもなく 一定の速度をもって
   すべての上に 過ぎてゆく
   幾らお金を積んでも 時を買い置くことは 出来ない
   しかし 如何なる者にも 時は平等にして ある
   生きる私たちには 時を費やした証としての 実績が残る
   子供を儲けることも 言ってみれば 実績の一つである
   大小多少 負をもって評価されるものも 見えるが
   それらすべてをひっくるめて 実績と言えば
   費やした時の証としての 実績は 誰にもある
   とにかく 私たちは 時を費やしながら 生きている

                                                           
    時を知らしめる時計というものが我が家に幾つあるのだろうと思い数えてみたら、結構あった。上に並べた写真がそれで、掛時計が三つに置時計が五つの計八つ。時計以外にも携帯電話やテレビをはじめとする家電製品などに数え上げたら切りがないほど時計は存在している。いつどの時計を見るかは定かでないが、毎日一回は見るのが目覚まし兼用の置時計で、やはり、掛時計はよく見る。すべての時計が電池式で、多少の進みや遅れはあるものながらほぼ同じく未来に向かって時を刻んでいる。普段それほど意識せずにいるが、時が私たちの毎日の生活に深く関わっていることがこの時計の数をしてもわかる。


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2011年10月24日 | 写詩・写歌・写俳

<52> 山中池頭の朝
              日の光 秋の深みへ 誘はる
  写真が一つに光をとらえる作業であることは、 多少写真をやっている者にはわかる。 写真展なんかの作品を見ていても、印象的で素晴らしいと思える写真は大概が光をうまくとらえている。
  もちろん、写真は時を切り取る作業でもあり、 決定的瞬間のシャッターチャンスを大切にし、 絵画と同じく構図も考慮に入れなくてはならず、 カラー写真の場合は色彩についても配慮が必要で、 これらの総体で写真は出来るわけであるが、 どちらにしても、光をとらえることが大切なことに変わりはない。
  よく写真では順光とか逆光とか半逆光とかという言葉を用いるが、これは光をとらえる方法を言うもので、写真には極めて重要なことである。 風景写真のように自然が被写体である場合、 撮影者は光を自由にコントロール出来ないので、 自然の成り行きに合わせなくてはならない。 このため、いい光を得る時間帯を心得ておく必要がある。
  写真展の作品をよく見ていると、 風景にとって朝夕の太陽が高い位置にない光線を 利用して撮影しているものの多いことに気づく。そして、 順光(太陽を背にして撮る場合)よりもむしろ逆光(太陽の方角に向かってカメラを構えて撮る場合)乃至は半逆光くらいで撮る方が写真にメリハリがついてよい場合が多い。
  そこで、当然のこと、撮影に時間的な制約が生じるわけで、写真をやる者は 往々にして朝早くに現場に赴かなくてはならず、真夜中 に起き出してその撮影場所に出かけることになる。 私のように野生の花を中心に撮影しているものは、朝があまり早いと花が開いていない場合があるので、また、違った苦労があり、一概には言えないが、 自然の風景写真を撮影する者にはこの時間の条件は 欠くことの出来ない重要性をもっている。

                     

 今回 ここに扱った写真は 吉野の山中で 撮ったものであるが、まだ、夜の明け切らない時間帯に 出かけ、太陽が揚がって来た瞬間に撮った結果の写真である。  冷ゆる朝 秋深まりて ゆく気配
                                  


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2011年10月23日 | 写詩・写歌・写俳

<51> カラスウリの実
      烏瓜 婦人二人の 声の先
  秋が深まって来ると、 カラスウリがほかの木にからんで橙赤色の実をぶら下げているのに出会う。 七、八月ごろに白い花を咲かせるが、 宵闇に
紛れて開花し、朝方萎む一夜花のつる性多年草で、昼間に見ることはまずないので、レース編みのようなユニークな花にもかかわらず目にかかる機会は残念ながらまれである。

                                

 で、 実が色づく秋になって「こんなところにカラスウリが生えていたのか」と思ったりする。そのカラスウリの実を自宅近くの散歩道で見かけた。 昨年は見なかったので、種子が何かによって運ばれ、 散歩道の傍に生えることになったのだろう。 カラスウリの名はこの実をカラスが好んで食べるからという説があるが、 唐(から)からの渡来を意味するものであるという説もあり、 定かではない。花の写真は以前のもので、ストロボを用いて撮った。雌雄異株の雄花である。では、なお、カラスウリの二句。                                烏瓜 烏が食べる ものならん   烏瓜 花は見ずなり 散歩道


                                     


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2011年10月22日 | 写詩・写歌・写俳

<50> 今日の朝

     今日の朝は 今日の朝
     二〇一一年一〇月二二日
     土曜日 その日の朝
     誰にとっても みな同じ
     昨日と違う 今日の朝
     夜来の雨が降り止んで
     微かに薄日が射している
     そんな天気の 今日の朝
     二階の窓から 青垣の山
     低く棚引く雲の筋
     

     昨日と違う 今日の朝
     菜園のオクラに黄の花
     またまた咲いた また咲いた
     もう終りの季節なのに
     雨の所為に違いない
     瑞々しくも 心にとまる
     貴方の朝は どうでした
     今日の朝は 今日の朝
     誰にとっても みな同じ
     昨日と違う 今日の朝

                   

 このブログも今日十月二十二日 ( 土 ) の今回をもって五十回目を迎えることになった。私の今日はこのブログ五十回の記念日で、 今日の朝はこのブログに寄せる朝だった。 そんな今日も常日ごろとほとんど変らないが、 私たちは少しずつ違って日々を重ねている。その昨日、今日、明日が連綿として続く。 今日の朝は今日の朝、昨日の朝ではなく、新しい朝、この新しい朝を迎え、私たちの営みは続いている。 写真は2011年10月22日の朝の大和平野。