<33> 二上山の入り日
二上山 秋の一日の 入り日かな
大和の国中は周囲を山に囲まれた盆地の地形にある。ゆえに太陽も月も山に昇って山に沈む。桜井市三輪の三輪山方面から望むと、太陽は金剛葛城山系の山並に沈んでゆく。三輪山の麓に位置する檜原神社 (ひばらじんじゃ) から見ると、 太陽は金剛葛城山系の二上山付近を中心に夏は北に、冬は南に沈んでゆく。厳密に言えば、夏と冬を分ける春分と秋分の日には二上山の北方の低地部に当たる穴虫峠付近に沈む。
二上山は雌雄二つの峰からなり、 春分の日と秋分の日から数えて前後十二日目に太陽がちょうど二つの峰の間に沈んでゆく。では、春分と秋分の日に入り日が二つの峰の間に沈みゆくのが見えるのはどこの場所かということになるが、その位置は三輪山の西南麓に当たる第十代崇神天皇の磯城瑞籬宮跡(しきのみずがきのみやあと・現天理教敷島教会)付近である。
『大和の原像』(小川光三著)に詳しいが、この宮の場所は太陽の運行を見るのに重要な位置になっているという。即ち、この宮からは三輪山の山頂付近に夏至の日の出が見られ、三輪山の南に位置する外鎌山(とがまやま)に冬至の日の出が見られ、宮では太陽の運行が春夏秋冬、四時に把握出来たという。太陽の運行を知ることは稲作による農事を中心の当時にあっては極めて重要なことで、太陽の運行を水とともに最も大切にし、宮内に天津神の太陽神である天照大神を祀っていたことでもわかる。
それが、崇神天皇六年、疫病の蔓延などがあり、この凶事を収めるため、宮内の天照大神を檜原神社の辺りとされる笠縫邑(かさぬいのむら)に遷して祀ることをした。その後、幾度かの場所替えの末、第十一代垂仁天皇のとき、最終的に現在の伊勢神宮に祀るに至ったという。檜原神社が元伊勢と呼ばれる所以はここにある。
檜原神社は三輪山を御神体とする大神神社の摂社で、天照大神と伊弉諾尊、伊弉冉尊の三神を祀り、大神神社と同様、三つ鳥居を有する社殿のない神社として知られ、御神体は鳥居の奥の三輪山に鎮座していると言われる。天照大神は前述したように、当時、最も偉大な神として崇められ、伊弉諾尊と伊弉冉尊の男女(夫婦)二神も国産み、神産みという役割を担った神として『古事記』の神話では重要な位置にある。
大和の国中(くんなか)から見れば、この檜原神社は太陽の昇って来る日出ずる地に当たり、神社から西に望む二上山を中心にした金剛葛城山系の山並みは太陽の沈みゆく地に当たる。 そのちょうど半ばに当たる春分と秋分の日に太陽が運行する「太陽の道」の東西一直線上に多くの神社や遺跡が配列されているという。東は伊勢神宮に至り、西は穴虫峠から淡路島の伊勢の森に至ってともに海へ繋がっている。
この一直線上の両伊勢の名は何とも不思議であるが、この「太陽の道」上の遺跡群が偶然でなく、 檜原神社や伊勢神宮の地を選定したのと同じく、天照大神に寄せた当時の人々の思いとその地を選定した能力というものが思われて来るところである。
思うに、「大和に住む人々の生活の原点は三輪山の日の出と二上山の日没にある」と言われるように、当時、太陽は重要な存在で、神として崇められ、日の出と日の入りが特に意識されたのである。二上山の雌雄の峰の間に太陽の沈むのを見るように伊勢神宮の東方に二見浦の夫婦岩があって、夫婦岩の間から太陽が昇って来るシチュエーションも同じ太陽を崇拝する人々の思いに叶っているのがうかがえる。言わば、神宮が伊勢の地に選定されたのも偶然ではなく、この「太陽の道」に由来していることが考えられるわけである。
この話は荒唐無稽のようにも思われるが、 太陽の偉大さに畏敬、畏怖の念を抱いていた当時の人々がその信仰心をして考え、 実行させたことが想起されるのである。 写真は十二年前の撮影で、秋分の日から数えて十二日目、十月四日の入り日である。 檜原神社の正面に掲げられている注連縄越しにこの入り日を撮るのに十何人かのカメラマンが一箇所に集中していたのを今でも覚えている。右の小さい写真は三つ鳥居の檜原神社で、神殿はない。三つ鳥居の意味は、一説に左が夏至、中央が春分と秋分、右が冬至の日の出を迎える形になっているという。
因みに、二上山は、 遠望するところ、東の正面からは左に雌岳、 右に雄岳がはっきりと並んで見えるが、奈良市方面の斜め側面からは雌岳が雄岳に隠れて山頂が一つのように見え、 角度によって印象の随分異なる山であるのがわかる。