私は死んだ父によく怒られていた。
川筋の生まれであるから気性が激しかった。
私もその血を引いているので、実は気性が激しい。
父も教師だったが、
教え子や同僚・後輩からとても慕われていた。
平成四年に亡くなって十年以上の歳月が流れているが、
いまだに亡父を訪ねて来られる方も多い。
だが、敵も多かったのだと思う。
それがまた父らしくて私は好きである。
父はちょっとしたことでよく激怒していた。
しかし、それはちょっとしたことのようで、
ちょっとしたことではなかった。
怒りは確かに不条理だったが、
その不条理の奥には、本物の条理が横たわっていた。
それを見抜く目を求められていた。
よく教育の世界では「怒るのではなく叱れ」などと言うが、
それはあくまで他人行儀に教育する場合だと思う。
我を忘れた怒りの中にこそ、人間の真実が存在することもあろう。
毒気を含まない言葉より、毒気を含んだ言葉に、
往々にして人間の心は成長の芽を刺激されるように思う。
確かに人間は悪を去り、善を希求すべき存在ではあろう。
しかし、100%悪が除去された社会は、
本当に素晴らしい社会なのだろうか?
100%善しか存在しない無謬なる社会は、
本当に人間にとって心地よい幸せな社会なのであろうか?
悪が存在しなくなると言うことは、
悪を憎む心も存在しなくなるということであり、
本当に人間が理想を目指そうとするエネルギーも失われるということではないか。
また、一つ一つの事柄を、
絶対的善あるいは絶対的悪に分類しうるのであろうか?
私は一つの事柄に、善と悪は同居しているのだと思う。
だから、同じ一つの事象に対して、
人によってはそれを善と言い、
人によってはそれを悪ということが起こり得る。
だから、100%善なる社会など、
永久に実現することはないのだと思う。
ひるがえって教育を考えてみると、
人間が無謬なる存在になり得ると考えて教育することの方が、
多くの偽善を生み出していくのではないだろうか。
悪意があるからこそ、
善意の大切さを人間は希求するのであろうし、
そこに人間の心の葛藤というドラマが生まれる。
そして、そこに人間を学ぶ面白さが存在する。
私は潔癖な聖人君子などにはなれないし、なるつもりもない。
学校教育とて、
一方では、道徳を大切にとか、生きる力を大切にとか言ってはいるが、
一方では、不道徳の極みである源氏物語を教えたり、
生のはかなさ・無常観を方丈記や幾多の作品を通じて教えている。
論理的に考えれば、これは矛盾としか言いようがない。
しかし、それで良いのだと私は思う。
善と悪が交錯しつつ、
様々な価値観によって織りなされているのが人の世であり、
悪という名のスパイスがあるから、善が光を放ちうる。
そんなことを感じ取った方が、
ずっと実際の人生にとってはリアルな学びではないか?
悪を奨励しているのではない。
人間存在を深く見つめた上で教育を考えていかなければ、
それは浅薄なものになるであろうことを危惧しているのだ。
川筋の生まれであるから気性が激しかった。
私もその血を引いているので、実は気性が激しい。
父も教師だったが、
教え子や同僚・後輩からとても慕われていた。
平成四年に亡くなって十年以上の歳月が流れているが、
いまだに亡父を訪ねて来られる方も多い。
だが、敵も多かったのだと思う。
それがまた父らしくて私は好きである。
父はちょっとしたことでよく激怒していた。
しかし、それはちょっとしたことのようで、
ちょっとしたことではなかった。
怒りは確かに不条理だったが、
その不条理の奥には、本物の条理が横たわっていた。
それを見抜く目を求められていた。
よく教育の世界では「怒るのではなく叱れ」などと言うが、
それはあくまで他人行儀に教育する場合だと思う。
我を忘れた怒りの中にこそ、人間の真実が存在することもあろう。
毒気を含まない言葉より、毒気を含んだ言葉に、
往々にして人間の心は成長の芽を刺激されるように思う。
確かに人間は悪を去り、善を希求すべき存在ではあろう。
しかし、100%悪が除去された社会は、
本当に素晴らしい社会なのだろうか?
100%善しか存在しない無謬なる社会は、
本当に人間にとって心地よい幸せな社会なのであろうか?
悪が存在しなくなると言うことは、
悪を憎む心も存在しなくなるということであり、
本当に人間が理想を目指そうとするエネルギーも失われるということではないか。
また、一つ一つの事柄を、
絶対的善あるいは絶対的悪に分類しうるのであろうか?
私は一つの事柄に、善と悪は同居しているのだと思う。
だから、同じ一つの事象に対して、
人によってはそれを善と言い、
人によってはそれを悪ということが起こり得る。
だから、100%善なる社会など、
永久に実現することはないのだと思う。
ひるがえって教育を考えてみると、
人間が無謬なる存在になり得ると考えて教育することの方が、
多くの偽善を生み出していくのではないだろうか。
悪意があるからこそ、
善意の大切さを人間は希求するのであろうし、
そこに人間の心の葛藤というドラマが生まれる。
そして、そこに人間を学ぶ面白さが存在する。
私は潔癖な聖人君子などにはなれないし、なるつもりもない。
学校教育とて、
一方では、道徳を大切にとか、生きる力を大切にとか言ってはいるが、
一方では、不道徳の極みである源氏物語を教えたり、
生のはかなさ・無常観を方丈記や幾多の作品を通じて教えている。
論理的に考えれば、これは矛盾としか言いようがない。
しかし、それで良いのだと私は思う。
善と悪が交錯しつつ、
様々な価値観によって織りなされているのが人の世であり、
悪という名のスパイスがあるから、善が光を放ちうる。
そんなことを感じ取った方が、
ずっと実際の人生にとってはリアルな学びではないか?
悪を奨励しているのではない。
人間存在を深く見つめた上で教育を考えていかなければ、
それは浅薄なものになるであろうことを危惧しているのだ。