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Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

教育とは

2024年10月09日 | Weblog

教育というものは、日々の地道な実践の積み重ねです。

もっと言えば、子どもに何かを伝える側が、自分自身の言葉と行動を磨き続ける営みでしかありません。

イベントも時には必要ですが、やはりそれは一過性のものでしかありません。そして、その大人の達成感は、子どもを育てることには、ほとんど影響してはいないというのが本当のところです。

世の中には、本当のことは言わない方が良いと思われることが多々あるようですが、私は常に本気で臨みたいと思っています。本当に子どもの未来を思い、教育をより良いものにするためには、いつも本気で物を言うしかないのだろうと思います。

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企業研修

2024年10月08日 | Weblog

明日明後日は、2日間連続の企業研修です。企業は利益を生み出さなければ成り立ちません。国内での競争、国際間の競争にも打ち勝って行かなければなりません。そのための力が求められています。

その力とは何か。渋沢栄一は、義理合一、義理両全ということを提唱しました。資本主義において、利潤だけを追求すれば、人間の欲望を剥き出しにした、弱肉強食の世界になりかねないからです。

そこで渋沢栄一は、資本主義に道徳的考え方、「義」を注入しようと考えます。これが、前述した、「義理合一」「義理両全」ということです。組織の意志というものも、結局は、個々の人間の在り方に由来しているわけですから、人間を育てなければなりません。

稀代の美食家・芸術家である北大路魯山人は、まず人間を育てる事の大切さを、次のように語っています。「人間が創作する以上、人間が入用である。人間なくしては出来ない相談である。陶器を作る前に先ず人間を作ることである。名品は名人から生まれる。しかるべき人間を作らずに、無暗に仕事にかかる如きは、愚劣極まることだと知ってよい。下らない人間は下らない仕事をする。立派な人間は立派な仕事をする。これは確定的である。要は人間を作り上げ、次に仕事を要求することである。人間を作ることは、言わば作品の成果を得る基礎工事だと知れ。」(昭和29年4月 ニューヨーク州立アルフレッド工芸大学での講演)

魯山人は、芸術作品を生み出す作家の人間性の大切さを、強烈な表現で指摘しましたが、これは、あらゆる仕事でも同じことだろうと思います。

また、子どもたちの教育も、企業での社員教育も、日本の未来を担う人材を育てなければならないということに、何一つ変わりはありません。

身の引き締まるような思いで、日々の教育実践にあたりたいと思います。教育というものは、本来、未来への責任を負う、厳しいものだと思うからです。

「教育は国家百年の計」という言葉を死語にせぬよう、未来を考え抜いて教育にあたりたいものです。

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言葉の力

2024年10月02日 | Weblog

言葉に力がないということは、土台となる体力・気力がないということです。また、自分の考え・思い・信念・志・愛情・希望など、あらゆる人としての心の要素が磨かれていないということです。

私も若い頃は、全く駄目でした。そして、何が足りないのかもわかりませんでした。

自分の考えや信念を鍛え、思いを強くすることは簡単なことではありません。しかし、誰にでもできることであり、やらなければならないことだと思います。

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教育が良くなるということは

2024年10月01日 | Weblog

教育が良くなるということは、一人ひとりの子どもたちの表情や姿勢や生き方が良くなるということだと思います。

しかし、それは結果なのであって、そのプロセスとして、当然に、子どもに影響を与え続けている一人ひとりの大人が良くなるということがなければなりません。

そして、大人に学校という場がない以上、一人ひとりの大人の厳しい自己陶冶に、それは委ねられているということになります。

教育問題とは、実は自分自身の問題でしかなかったのだという、厳しい現実を大人が直視して初めて、教育は良くなり始めるのだろうと思います。

 

 

 

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もの言わぬ日本人から脱却を

2024年09月30日 | Weblog

先日の講演の資料に入れそびれていた新聞記事はこちらでお読みいただくことが出来ます。

解答乱麻 | 【V&E】Vision & Education Official Website

ご笑覧いただけたら幸いです。

 

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全附P連・全国研修大会 講演終了

2024年09月29日 | Weblog

全附P連の全国研修大会の講演が終わりました。まず、この会は本当に素晴らしい会だと感じました。今日まで、誠実に実践を積み上げ続けてこられているのだなぁということが肌で感じられたからです。参加者が600人を越える規模の会を素晴らしく運営され、私以外の講演や分科会は内容が深く、かつ、テーマに沿ったものであり、素晴らしいなと思いました。

私も全力で伝えさせていただきましたが、言葉足らずの部分もあったこと、色々な立場の方への配慮が十分でなかったことをお詫び申し上げます。また、もっとお伝えしたいことがあったのにお伝えしきれなかったことを残念に思っています。時間の関係で、所々、内容を割愛していたので、わかりにくくなったこともあったことと思います。

ただし、全ては私の嘘偽りのない直言であり、その思いに邪(よこしま)なものは何一つなくお伝えしたつもりです。思無邪(おもいよこしまなし)も私のプリンシプルの一つです。

私の志は、バッカーズ寺子屋で培ってきた教育の在り方と理念を、一人でも多くの方にお伝えし、この教育が次世代にも受け継がれていくことです。それを全力でやり続けます。

この仕組みをお住まいの地域で作りたいなと思われる方は、いつでもご連絡ください。また、自分がこうした学び舎で教えてみたいという方も是非ご連絡ください。実現できるかどうかは皆様次第ですが、アドバイスやサポートはできる限り致します。

「ゆずりは」の詩の通り、私も何一つ持っていけないのです。誰かに譲り得たことを見届けて、笑顔で人生を終わりたいと思っています。

また、どこかでお目にかかれることを楽しみにしていますので、講演の依頼などございましたら、お気軽にお声がけください。私のベースは福岡ですが、東京にも拠点はありますので、日本全国どこでもお邪魔いたします。

来期のバッカーズ寺子屋、バッカーズ九州寺子屋の入塾説明会は、2025年の2月から4月の間に複数回開催いたします。話だけでも聞きに来て下さると嬉しく存じます。日時場所等の詳細は、ホームページ・メールマガジンにてお知らせいたします。新しいパンフレットは年内には完成する予定です。

今回、出会うことが出来た全ての皆様に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

なお、名刺交換させていただいた方には、私のメールマガジン(無料)を送らせていただきます。不要でしたらお手数ですがその旨ご連絡ください。月に一度の大したものではありません。読んでみたい方は、Vision&Education,Ltd.のサイトからお申し込みいただけます。

 

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いよいよ明日

2024年09月27日 | Weblog

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文明

2024年09月26日 | Weblog

明治維新をどう見るかという問題は、実に難しいものです。近代化を成し遂げ、アジアで唯一の工業国になったのは賞賛されるべき事でしょうし、そのことによって西欧列強の植民地にされなかったことは、全く非難されるべきことではなく、むしろ賞賛されてしかるべき事です。

しかし、近代化を成し遂げ、西欧列強と伍していくためには、西洋と同じような振る舞いをせざるをえなくなり、やがては、西欧と権益を巡って衝突せざるを得なくなったことは残念なことです。ただ、それもまた、やむを得なかったことだと思います。

島国であることを奇貨として、鎖国を続けていれば、戦争などにならなかったかと言えば、やはりそうは行かなかったと思います。国際化、グローバル化の波に飲み込まれていく以外の選択肢はなかっただろうと思います。

ただ、そこで思い起こされるのは、西郷隆盛の言葉です。

「文明とは道の普(あまね)く行はるるを贊稱(さんしょう)せる言にして、宮室の壯嚴(そうごん)、衣服の美麗、外觀の浮華(ふか)を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些(ち)とも分らぬぞ。予、嘗(かつ)て或人と議論せしことあり。西洋は野蛮じゃと云ひしかば、否(いな)文明ぞと爭ふ。否否野蛮ぢやと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推(お)せしゆゑ、實(まこと)に文明ならば、未開の國に對しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、左は無くして未開矇昧の國に對する程むごく殘忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢやと申せしかば、その人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑はれける。」

これは、南州翁遺訓の十一条ですが、ポイントだけ訳すと次のようになります。

「文明というのは道理にかなったことが広く行われることをたたえて言う言葉であって、宮殿が大きくおごそかであったり、身にまとう着物がきらびやかであったり、見かけが華やかでうわついていたりすることを言うのではない。(中略)もし西洋が本当に文明であったなら、未開国に対してはいつくしみ愛する心をもととして懇々と説き諭し、もっと文明国へと導くべきであるのに、そうではなく、未開で知識に乏しく道理に暗い国に対するほどむごく残忍なことをして自分たちの利益のみをはかるのは明らかに野蛮である。(後略)」

出羽守と揶揄されるほど、イギリスでは・・・、アメリカでは・・・、フランスでは・・・、と言って、キャッチアップしていこうと私たちの先達は考え続けていたのかも知れません。そして、その流れの中に身を投じていくしか、国家として生き残るすべはなかったのだろうとは思います。その流れを作ることに邁進してきた先人たちを非難する気になど、私には到底なれません。

しかし、心の隅に大西郷の言葉をいつも置いておくぐらいの矜持は必要なのだと私は思います。

 

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質問

2024年09月25日 | Weblog

私は、「どう思いました?」といった、漠然とした質問を意図的にするようにしています。なぜなら、自分で切り口を絞り込んで答えるしかなく、そこに答える側の問題意識、理解度などが、良く反映されるからです。学校教育では、こうした曖昧な感じで問われることはあまりないと思います。学校では正解が明確にあるから、自分の思考と、判断と理解度において、答えを作っていくことは求められないからです。

こうした質問に反発を示す人は、自分の考えがないから答えられないことに苛立ち、「質問が悪い」といった反応を示すことがよくあります。正解があることを前提とした学びが、社会人になってからも、自由な発想に縛りをかけ続けているのだと思います。

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学校教育批判

2024年09月20日 | Weblog

私はいつも、自分が教育実践の中から実感したことを話します。それは時として、教員批判や学校教育批判に聞こえると思います。しかし、私は元来一人の教員でした。そして、今もなお、「生涯一教師」と思い続けています。だから、それら批判に聞こえるであろう言葉は、決して無責任な悪口などではなく、自分自身へも刃を突きつけての言葉です。改善して欲しいという思いに満ちた言葉でもあります。

私はかつて、企業の社長さんたちが、学校に講演に来て下さることはあるが、その逆はあるのだろうかと思ったことがあります。つまり、学校の先生が、「さすがは教育のプロだ。我が社の社員にも話をしてやって欲しい。」と言われ、会社に招かれることがあるのだろうかということです。残念ながら、実績を出した部活動の監督さんなどを除いて皆無です。それを私は「悔しい」と思いました。そして、その関係性が続く限り、学校教育は下に見られたままだろうと思いました。今もそう思っています。そして、本当の教育は、子どもたちにも大人たちにも通用するものであり、共通の大切さを持つものなのだと思っています。今日も2日間の社員研修の1日目が終わったところですが、自分がまずは、それが可能であることを示していきたいと思っています。

しかし、もう私は学校の一教師として見られることはなく、Vision&Education,Ltd.の社長、バッカーズ寺子屋の塾長として見られているのかも知れませんが、そのことに一抹の寂しさも感じつつ、心の中で「生涯一教師」とつぶやいている自分がいます。

とにかく子どもたちの未来が明るいものになるために、私はどのような教育が必要なのかを真剣に考え抜き、実践し続けるだけです。そして、いつか共に教育をしてくださる方が見つかって、蒔かれた種が絶えないで、広がっていくようになればいいなと考えています。

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