goo blog サービス終了のお知らせ 

Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

さようなら

2024年11月19日 | Weblog

谷川俊太郎さんが亡くなりました。私たちもいつの日にか、この世に、そして共に生きてきた皆さんに、「さようなら」を告げる日が来ます。現代の社会においては、私たちの生活から死の匂いが遠ざかってしまい、死を色濃く感じる機会が失われたように思います。しかし、死は万人に平等に訪れるものです。だから、できる限り死を身近に感じていなければならないと思います。命を大切にする心、二度と無い生を大切にする心というものも、そこから生まれてきているように感じます。死に対する感性を失わないために、そして、生に対する感性を失わないために、谷川俊太郎さんの「さようなら」を読み返してみたいと思います。

さようなら   谷川俊太郎
 
「ぼくもういかなきゃなんない
 すぐいかなきゃなんない
 どこへいくのかわからないけど
 さくらなみきのしたをとおって
 おおどおりをしんごうでわたって
 いつもながめてるやまをめじるしに
 ひとりでいかなきゃなんない
 どうしてなのかしらないけど
 おかあさんごめんなさい
 おとうさんにやさしくしてあげて
 ぼくすききらいいわずになんでもたべる
 ほんもいまよりたくさんよむとおもう
 よるになったらほしをみる
 ひるはいろんなひととはなしをする
 そしてきっといちばんすきなものをみつける
 みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
 だからとおくにいてもさびしくないよ
 ぼくもういかなきゃなんない」

合掌

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道を歩く

2024年11月19日 | Weblog

人生は道に例えられることが多くあります。私も「萩往還を歩く」研修をした時には、歩き終えて、松下幸之助さんの「道」をともに歩いた皆さんと改めて味わっています。

『道』  松下幸之助

「自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。
広いときもある。狭いときもある。のぼりもあればくだりもある。坦々としたときもあれば、かきわけかきわけ汗するときもある。
この道がはたしてよいのか悪いのか、思案に余るときもあろう。慰めを求めたくなるときもあろう。
しかし、しょせんはこの道しかないのではないか。
あきらめろというのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、ともかくもこの道を休まず歩むことである。

自分だけしか歩めない大事な道ではないか。自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。
他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道は少しもひらけない。
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。
それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。」

また、アントニオ猪木が引退の時に語った言葉の元である清沢哲夫の「道」もあります。

  『道』 清沢哲夫

「此の道を行けば
どうなるのかと
危ぶむなかれ
危ぶめば道はなし
ふみ出せば
その一足が道となる
その一足が道である
わからなくても歩いて行け
行けばわかるよ」

道を歩くことで、こうしたメッセージは深く心に刻まれると思います。だから私は「萩往還を歩く」研修を作り続けています。始めたときには、10年も歩き続ければ、一つのことをやり遂げたと言って良いと思っていましたが、もう30年も歩き続けています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誤解と孤独を恐れずに

2024年11月18日 | Weblog

事実は一つであっても、一人ひとりの立ち位置から、それは違ったものに見えるのだと思います。

富士山にしても、どこから見るのか、いつの季節に見るのか、どのような天候の時に見るのか、そうしたことで、当然、見え方は変わってきます。自分の立ち位置によって、それは変わっていくしかないものだと思います。

だから「富士山はこうである」という言説も色々なものになるはずです。そこで議論したところで、結局、自分が見た姿が、その人にとっての富士山になるだけです。

あとは、信じるものを貫くか、色々あるよね~と様々な意見を、バランスよく良しとするのかになるのだろうと思います。私は私のこだわりをもって自分の信じるものを貫いていかなければならないと思います。

人生の時間には限りがあります。だから、一人になってでも歩き続けなければならないのだと思います。

残念ながら、私の言説や行動は理解されないことも多いと思います。しかし、時が経って、言わんとすることの少しぐらい伝われば、有り難いことだと思います。

それで良いのだと思います。それが私に出来る精一杯なのだと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体験型研修

2024年11月16日 | Weblog

萩往還を歩く研修、今年、5回目を終えることが出来ました。春に子どもたちと3回、秋に企業研修で2回歩きます。涙松から瑠璃光寺五重塔まで、約36㎞をひたすらに歩き続け、ゴールを目指していく研修です。この中に沢山の学びがあります。それは、体験してみなければ全く分からない質のものです。歩き終えた翌日に、「美しいゴール(志)を持つことの大切さ。」「達成感はゴールの先にしかないこと。」「一歩を踏み出すことは簡単だが、踏み出し続けることは大変なことであること。」「愚痴を言ってもぼやいても、道は短くならないし雰囲気が悪くなりモチベーションが下がるだけなので、どうせなら共に明るく励まし合って歩いた方が良いこと。」「出来ない理由を探さないこと。」等々、様々なことをお伝えします。

ただし、受け取るのは自分次第なので、何を手に入れられたかは一人一人違います。体力によっても、心の持ち方によっても、みんな違うものになります。何も得られなかったという人がいても別に不思議ではありません。何も考えずにただ作業のように歩けば、得られるものがあるはずがありません。仕事も人生も同じです。

人生は道を歩くことに似ているとよく例えられます。本当にそうだと思います。歩き終えたときの皆さんの表情は、本当に変わります。疲れていたり、足が痛かったりするとは思いますが、みんな輝いています。それは、困難を乗り越えていく自信、達成感、仲間がいる心強さ、楽しさ、自然の中で汗を流した爽快感、様々なものが得られたことによるものだと感じています。やってみなければ分からないのがこの学びの良さであり深さです。

道案内のためとペースメイクのため、そして、蜘蛛の巣を払うために、私はいつも先頭を歩きます。本来、体育会系では無い私は、いつも歩き通せるのか不安でいっぱいになります。しかし、自分が歩き通せなければ、全員に迷惑がかかります。そういう意味では、気力で歩き続けているのですが、果たして何歳で歩くのをやめたら良いのだろうかといつも思っています。

自分の体力・気力と向き合い、歩いている最中や歩いた後に感じた感覚で決めるしか無いのだと思います。

30歳ぐらいの時にこの研修を作って、「10年続けられたら一つのことを成し遂げたと言って良いだろう」と考えていましたが、もう30年以上この道を歩き続けています。

私自身が、吉田松陰先生はじめ先人たちの声に耳を傾けながらこの道を歩き続けています。毎年、昨年よりも今年、学問を深めてから行かなければ、先人たちに恥ずかしいと私は思っています。

教育という道を歩き続けていく私にとって、萩往還を歩くことは、「日々新た」という思いを忘れずに、学びの道を歩くことでもあります。今年は歩いている時に、韓愈の「彼も人なり、我も人なり」という言葉が心にこだましていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バッカーズ寺子屋・第一回スピーチコンテスト

2024年10月27日 | Weblog

第19期生・第一回スピーチコンテストが終わりました。テーマは「伝えたい感謝の言葉」。やはり、思いのこもったスピーチが上位に入りました。

しかし、塾生本人は失敗したと思っているであろうスピーチ、例えば、言うことが頭から消えたり、焦って早口になったりというようなことも、それはそれで良いのです。バッカーズ寺子屋のスピーチコンテストでは、原稿を見ずに、自分の心からのメッセージを3分間話すのですから、本当に大変なことです。

私は、当たり障りのない、言い間違えないスピーチに価値があるとは全く思っていません。仮に、言い間違えないことを成功というのならば、それは価値のない成功です。それより価値のある失敗をしてくれた方が、本人にとっては得るものが多く、よほど良いのです。私も価値のある失敗の方をとても嬉しく思います。

これまでに私が塾生の皆さんに伝えてきた、「練習をやったが上に、練習をすること」「スピーチのフレームのみ覚えること」「感情を再現すること」「シナリオを何度も何度も書き直して、伝えたいメッセージを明確にしていくこと」等々のことは、やってみて、失敗してみて、初めてその意味が理解できるものだと思います。塾生の皆さんの失敗は、成長への階段の一段ですから、それを失敗というなら、私も喜んで共にその失敗への非難を甘受したいと思います。

パブリックスピーキングの力は、その人の人生に大きな影響を与えていきます。自分の自信、信念、人からの信頼、敬意、様々なものに直結していきます。今はまだ、塾生の皆さんにはよくわからないと思います。

しかし、それで良いのです。私は10年、20年、30年先に役立つ教育をしたいと考えています。How toではなく、本質的にやっていこうと考えています。

ちなみに、今日は「萩焼きコンテスト」も開催しました。スピーチコンテストもそうですが、こんなコンテストは存在しないと思います。保護者の皆様と共に楽しく有意義な学びの時間を過ごさせていただけたことに、心からの感謝を申し上げます。ありがとうございました。


偶々今日は衆議院選挙の日ですが、日本の社会が壊れかけているのは、一人一人の言語が壊れかけているからだと思います。言語とは思考であり哲学です。志操なき社会、コモンセンス無き社会を何とか出来るのは、結局は、言葉であり、思考であり、そこから生み出される行動であると私は思います。だから、政治に対する批判をする暇があったら、私は教育に打ち込もうと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

企業研修

2024年10月18日 | Weblog

2日間の企業研修を終了しました。「学び方の変革」「志の教育」がテーマです。締めくくりの受講者の皆様の3分間スピーチは、とても素晴らしかったです。昨日の朝の段階のスピーチとは、明らかに、内容も、声のトーンも、力強さも、大きく違っていました。とても嬉しい時間でした。50歳手前のミドルリーダーの方々研修でした。

講演も研修も私の書く文章も、人によって受け止め方は千差万別です。受け入れてくださったら有り難いと思うだけです。否定的にとらえられても、それはそれで仕方ないと思います。私としては、わかっていただけるように全力を尽くしますが、あとは、受け手が決めることですから、どうしようもありません。受け入れられなければ、寂しい思いはしますが、それはそれで仕方の無いことです。そもそも万人受けするようなことを私はやっていませんから、当然と言えば当然のことです。

人前に立たせていただくことだけでも希有なことであり、有り難いことです。もっと言葉が響くように、そして、多くの方の心に届くように、学び続け、己を磨き続けるだけです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育改革

2024年10月16日 | Weblog

「いにしへの 道を聞きても 唱えても わが行ひにせずばかひなし」(日新公いろはうた)

学ぶことは大切です。しかし、その上で何をするか。それしかありません。自分自身がどのような人間になり、どのように成長していくのか。その上で、他人様に何らかの影響を与えられるのかどうか。それしかないのだと思います。

結局は自分の心一つであり、行いの一つ一つだということです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甘い教育

2024年10月14日 | Weblog

甘い教育の広がりには恐るべきものがあると思います。一人一人が、「教育」の本質を考えておかなければ、どうにもならないことになるのだろうと思います。歳を経て大切さ気づいたときには、同時に、手遅れであることに気づくということになると思うからです。私の両親は有り難いことに厳しかった。そして、あたたかかった。真心を込めた丁寧さがあった。そう思います。その有り難さなどは、時が経たないとわからないものなのです。下村湖人という人は、そうした教育の本質を鋭く言葉にして下さっています。(以下、Vision&Education,Ltd.メールマガジンより転載)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私の尊敬する人物の一人に、下村湖人(しもむら こじん)という人がいます。小説家であり社会教育家です。明治17年10月3日に生まれ、昭和30年4月20日に亡くなりました。東京帝国大学英文科を卒業し、母校佐賀中学校の教師や鹿島中学校の校長等を歴任します。教職辞任後は、同郷で高校・大学同窓の田澤義鋪に従い、講演や文筆活動で社会教育に尽力。青少年に影響を与えた『次郎物語』の著者として知られる人物です。その下村湖人が遺した、教育の言葉を今月は紹介致します。今を生きる親世代は、働き盛り世代でもあり、どうしても忙しい日々を過ごしています。しかし、子育ての時間は一度限りで、もう二度とは戻っては来ません。だからこそ、お伝えしておきたい言葉があります。


・「子供に何か話しかけられるのを面倒くさがる親ほど、根気よく子供に絶望の習慣を養っている親はない。」

・「甘い教育によって、いろいろの自由を与えられた子供たちは、将来最も不自由な人間に育つであろう。なぜなら、彼らは、自由の最大の基盤である反省力と意力とが奪われるであろうから。」

・「よき親でありたいと願う人々のために、私の用意している助言がただ一つある。それは、子供をその善悪に拘わらず常にいたわってやるということである。むろんそれは単なる技術であってはならない。それは、人間共通の弱点について十分な知識を持ち、自分自身そうした弱点の持ち主であることを深く自覚するところから、自然に発散される感情の香気でなければならない。愛撫や、賞賛や、叱責や、教訓や、その他親としての一切の努めは、そうした感情の香気に包まれてのみ真に生かされるであろう。この助言は、だから、つぎのようにいいかえることもできる。人間性に無知な親は親ではない。人間として傲慢な親は親ではない。自己をいつわる親は親ではない。親もまた子供と共に人生不断の修行者でなければならないのだと。」

・「子供は大人のまねをする。このことを大人が忘れさえしなければ、子供の教育はさほど困難なことではない。しかるに、世の大人たちは、ご苦労にも、子供たちに自分のまねをさせまいとして、いつも苦労し、それを教育だと思いちがいしているかのようである。」

いずれも下村湖人の書いた、『心窓去来』『心窓去来 補遺』の中に出てくる言葉です。若い人たちの心の中に、こうした言葉を留めておいていただきたいものだと思います。


木村貴志オフィスVision&Education,Ltd.メールマガジンより転載。(配信を希望される方はメールでご一報ください。月一回配信。無料です。)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝える難しさ

2024年10月10日 | Weblog

教育者というのは、誰かに何かを伝える存在ですが、伝えること一つをとってみても簡単なことではありません。1.シナリオスキル、2.デリバリースキル、といったスキルの問題もありますが、3.プレゼンスの問題も大きく存在しています。

そもそも伝えたいことは本当にあるのか。そこに自分の思いや信念といったものはあるのか。語り得るだけの経験をしてきたのか。そうしたことが問われてしまいますし、それは、誤魔化しようもなく、他人に伝わっていくものです。

「わかること」と「できること」は違います。そして、「できること」と「伝えること」も違います。話がわかったからといって、それが出来るかどうかは別の次元の問題です。出来たからといって、そのことを第三者に分かり易く伝えられるかというと、それもまた別次元の問題です。

この三者の間には、いくつものハードルが存在していると感じます。

そう難しいことは考えなくとも良いのかも知れませんが、伝わるように伝えたいという意志がある限り、この問題には真剣に向き合わざるを得ないのだと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育改革

2024年10月10日 | Weblog

教育を変革していくためには、ものすごい勉強量が必要だと思います。それは、世界の中の日本に生きる子どもたちをどう育てるかということにならざるを得ないから、世界という空間について、また、日本という空間について、色々なことを学ぶ必要があるからです。また、私たちは現在を生きていますが、子どもたちは未来を生きます。過去は現在につながり、現在は未来に繋がっていますから、過去を学ぶことも大切ですし、未来を考えていくことも大切です。この空間軸と時間軸を意識して学び、教育を考えて、実践にまで落とし込んでいくとすれば、日々、必死の努力が必要になります。

しかし、目先の利益、自分の豊かな生活しか考えなければ、誰もそんなところまで極めていこうとは思わないでしょう。それでなくとも、日々の生活や子育てなどにも追われていくこととなりますから大変です。しかし、だからこそ、教育関係者は敬意を得られなくなっているのかもしれません。しかし、教育は本来「国家百年の計」として大切なものです。

教育に対する敬意の低さは、先生方の処遇の低さに表れていますし、国家予算・自治体予算の少なさにも表れています。教員をやめた私は教育界に特有の様々な制約からはことごとく解放されています。これは予想以上に大きなものがありました。しかし、教育に対する敬意の低さからは逃れることが出来ません。

それを如何にして突破できるか。私一人の力では無理な話です。だから、ごまめの歯ぎしりと知りつつも、本当のことを全力で語り続けます。本当のことを言うと差し障りのある人も多いと思います。そうした人たちがあらゆる業界に蔓延しているのが、今の日本の姿を作っているのだと感じます。

それぞれが頑張っているという言葉に逃げ込むのは容易なことです。他人に頑張りが足りないと言うことは、自らに刃を突きつけ、頑張り続けることにもなりますから。言いたくもないことです。しかし、老い先短い爺が言わなくてはとも思います。

私を励ましてくれるのは、先人の言葉たちです。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」「我に七難八苦を与え給え」「斃れて後已む」「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」

人生は一度限り。私は好きに生きようと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする